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ノエル  作者: こくま
ノエル
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5話

幻獣が人間の世界に逃げ出してから、まもなく二ヶ月が過ぎようとしている。こちらの世界では、このような事態を引き起こすに至った原因について、幻獣を管理しているシステムの警備体制等も含め、砂粒を数えるようにひとつひとつ精査しているところだ。しかし、肝心の犯人像は未だに手がかりひとつ掴めていない。こちらの世界ではそんなていたらくなのに、向こうの世界に飛び出していったエージェントは非常に優秀だった。

私は幻獣保護課にある自分のデスクから、エージェントのパーソナルデータファイルを取り出す。このファイルは、紙にインクという骨董品のような技術で作られている。人間ですら最近はこんなもの使っていないというのに、我々は紙だ。なにより、劣化しないから。とはいえ、この紙には様々な情報が記録されており、欲しいデータがあればすぐにファイルの上に表示してくれる。私がエージェントの名前を指でなぞると、顔と全身像が立体的に浮き上がった。

真顔のはずなのに、どこか微笑んでいるように見える、管理局に就職したばかりの二十三歳。この世界の最高権力者たるベルティエ氏の息子だ。まだまだ学生とあまり変わらないくらいの若手ではあるが、その能力は実に非凡であった。これも英才教育の賜物か、優秀な血筋ゆえなのか、それともそのどちらもなのか、判断に迷うところだが、いずれにしても、彼にはこの世界を守るための能力を育むに足る才能と環境が揃っていたようだ。私のように、毎夜意識が飛ぶまで勉強とトレーニングに明け暮れ、か細い財布を少しずつやりくりして立場を固めていった一般人とは、そもそも生まれの時点で遥かに優遇されている。正直に言って死ぬほど羨ましいが、現実にいま彼が果たしている役割とその結果については、素直に賞賛するべきだろう。

彼は、すでに三頭の幻獣をこちらの世界に送り返してきている。人間の世界にどれくらい逃げ出してしまったのか、まだ正確には計測されていないが、このペースは驚異的だ。そもそも、彼は幻獣を発見するのが異様に早い。私たちは幻獣を捜索する際、頭の中で幻獣の気配を感じ取る。そこから出現地点を計測し、その場に赴いて捕獲するのだが、彼はこの気配を察知する能力がものすごく高い。幻獣が出現する数時間前に察知できれば優秀といえる業界で、前日や前々日に察知することができるのは羨ましい能力だ。

だが、彼は今回、少しばかり手こずっているようだ。ファイルに表示されている行動と感情のデータは、先ほどまで興奮状態だったことを示している。羅列されている情報によれば、何らかのアクシデントがあり、彼は幻獣の殺害もやむを得ないと判断するほどにまで追い込まれたようだ。もちろん、彼の任務は幻獣の捕獲であり、殺害はルール違反。実行されていたら、然るべきペナルティを科しているところだった。

しかし、いまは落ち着いている。データ上でしか知ることは出来ないが、彼はどうにかピンチを切り抜けたらしい。なるほど、優秀なエージェントではないか。この先も、いろいろと困難を退けて幻獣を捕獲してくれるに違いない。

さて、彼が全ての幻獣を捕獲してしまう前に、我々はなんとしてでも幻獣を人間の世界に送り込んだ犯人を捕まえなくては。私はエージェントベルティエのファイルをデスクに戻し、監視データのチェックを再開した。


―――


「うわ!すごい!すごいよ!」

車から降りるなり、姫ちゃんがぴょんぴょん飛び跳ねて声をあげる。手を振り回しながら跳ねるそのさまは、より子どもっぽさを際立たせていた。まあ、無理もないと思う。私だって、隣にいるサンタさんの肩を無意味に叩いてしまうくらいは驚いているのだから。

「卿徒くん!みて!すごい!」

姫ちゃんは鴻嶋の腕を引っ張り、彼はそれにされるがままだ。さすがの鴻嶋も、やっぱり驚いているみたい。

「中国か……」

鴻嶋が呟く。

そう、ここは中国。さっきまでスカイツリーを眺めていたのに、いまは中国にいて、テレビで見たことのある何とかっていうドームの前にいる。北京オリンピックのメインスタジアムとして建設されたドームは、地面から突き出した無数の鉄柱を力任せにぐにゃぐにゃにして形を整えたような建物だ。まさに鳥の巣という表現がピッタリな形状をしていて、混沌としているようで正確に計算されているのがわかる。なんというか、複雑で気持ち悪いのに、不思議と見入ってしまうようなデザインだ。

しばらくみんなで感動を共有したあと、私たち三人の視線は、吸い寄せられるようにサンタさんへと集められた。

「え、なになに。人気者だね」

サンタさんは愉快そうに笑みを浮かべて歩きだす。ドームへと進みながら、怪訝な顔をしている鴻嶋の肩を軽く叩いた。それを合図にしたかのように鴻嶋があとへ続くので、私と姫ちゃんもサンタさんを追ってドームへと向かう。

「ここに全ての元凶がいる」

そう言ったサンタさんは、話しながら私たちに身体を向けた。後ろ歩きだ。

「この際だから喋っちゃうけど、僕は人間じゃないんだ」

その時、サンタさんが一瞬だけ私を見る。柔和な笑顔だけど、とても冷たい感覚が背中へ抜けた。不思議な気分に不意を突かれて、私は少しだけ歩くスピードを落とす。私が視線を逸らしたからか分からないけれど、彼は少しがっかりしたような顔をした。

「引いた?」

冷静な鴻嶋、分かりやすく驚いている姫ちゃんを順番に見て、いつも通りの優しい声で笑う。あぁ、そういえば……。

私は、メキシコの島でサンタさんと森の中を歩いていたときのことを思い出した。

私には理解できないような行動を取るから、驚かないでほしい。驚いたとしても、せめて引かないで。

彼はそんなことを私に言っていた。

「引かないよ」

反射的に、そう呟く。彼は人に拒絶されるのが嫌みたいだ。そう感じたから。

「ありがとう」

彼が私を見て微笑む。優しい笑顔だった。

「僕は、君たちとは違う世界で生まれて、そこからやってきた」

にこにこしながら、ちょっと不思議な話を続ける。

「僕が生まれた世界には、幻獣っていう不思議な生き物がいてね。幻獣が僕たちの生活に悪い影響を与えないように管理する仕事がある」

人間の世界で例えると、良く言えば動物園。ちょっと言いにくい感じで言えば保健所。そんな仕事で、それをしているのがサンタさん。彼は自分の仕事を、幻獣の保護管理だと言って笑った。

「でも、ちょっと大変なことになってね」

そう続けながら、彼は少し真面目な顔になる。それから、やや声のトーンを落とした。

「僕たちが捕まえて管理していた幻獣が、人間の世界に逃げ出したんだ」

「それが、今回の?」

鴻嶋の質問に、サンタさんが頷く。

「そういうこと。こっちに逃げ出したたくさんの幻獣のうちの一頭がメキシコにいて、僕はそれを捕まえるためにメキシコまで行った」

最初から、ただの観光ではなかった。サンタさんが私の家にやってきてから行ったいくつかの旅行先で、彼が私を放っておいてどこかに消えていたのも、その幻獣を捕獲するためだったらしい。

「今まで私と遊びに行ったとこにも幻獣がいたってことだよね?」

確かめるためにそう尋ねると、サンタさんが思いきり眉をひそめて頭を下げる。

「ごめん!」

別に怒ってはいないけれど、それならばわざわざ私を連れて行く必要なんてなかったのではなかろうか。そんな考えが頭をよぎると、彼は「でも、でもね?」と泡でも吹くように話しはじめた。

「一応、ね?その、なんていうか、幻獣を捕まえてから普通に観光するのも目的だったんだよ?」

「どうして?」

「だって……」

ぶつぶつ。続く言葉がいまいち聞き取れない。彼にしては珍しく、はっきりとしない声だ。

「なんて?」

聞き返すと、彼はため息混じりに呟いた。

「……君の部屋に勝手に居座っちゃって、勝手に協力させてるんだよ、僕は」

彼が私から視線を逸らす。私は、心なしか歩くスピードが上がっていた。

「だから、なに?」

「だから、その……」

歯切れの悪いサンタさん。

「……滅多にない体験をさせてあげたかった」

「ふぅん」

なんだか、嘘を言っているような気がする。たぶん、本当はもっと、なんだか複雑な考えがあってのことなんだろう。

「まあ、いいよ。不思議な体験たくさんしてるから」

ちょっと腑に落ちないけれど、今のところはこのあたりでやめておく。そのかわり、全部が終わったら、もっと詳しく話をしてもらおう。それよりも、いまはやらなきゃいけないことがある。同じようなことを考えたのか、しばらく私を見つめていたサンタさんも、やがてふっと息を吐いて前を向いた。なんだか鴻嶋みたいだ。

「そう……そういうわけだから、ここにいる幻獣を捕まえる」

「ちょっと待て」

やや強引に話を締めようとしていたサンタさんに、鴻嶋が声をかける。

「幻獣を捕獲して、僕たちは帰れるのか?」

うっかり。鴻嶋が言うまで、つい忘れていた。そういえば、ここは私たちが元々いた世界とはちょっと違うのだ。本当はメキシコにいて、気がついたら東京にいて、なんだかんだあって中国にきた。

でも、私はそこのところについて、ほとんど心配していない。なんせ、サンタさんがこちらへ来てくれたのだから。たぶん帰れるに違いない。東京でも、サンタさんはみんなで帰れると言っていたし。

「もちろん、帰れるよぅ」

ほら、サンタさんも余裕の表情で頷いている。


―――


鳥の巣を模したように造られた北京国家体育場。ここに、全ての元凶がいる。全ての元凶というのは、もちろん言葉の綾だ。僕たちの世界から幻獣が逃げ出した原因とか、そういう意味で全ての元凶といっているわけではなくて、つまり、メキシコからここに至るまでに起こった数々の事態の原因が、この鳥の巣ドームにいる。

車を転送した位置から二十メートルくらい歩いて、広場を挟んだところにある入り口のゲートは施錠されていた。ここは完全に無人の世界なんだから、当然といえば当然か。ドームの中に直接みんなを転送してしまえば楽だったんだけど、いきなり目の前に幻獣の親玉がいては、色々と危険があるので仕方ない。それに、今回は鴻嶋と姫ちゃんが僕に協力してくれるというので、そのための準備も必要だった。

このドームの中にいる幻獣の周囲には、そいつを守るための部下が複数存在している。その幻獣モドキみたいな連中の処理を鴻嶋たちに任せたい。気配を探ってみると、そんなに強力ではなさそうだから、彼らならなんとか出来るはずだ。ふたりが幻獣モドキを抑え込んでいるうちに、僕が親玉を叩く。完璧な作戦だ。

転送クロスを使って、みんなをドーム内部に転送する。四人もいると、いちいちクロスを使わないとまとめて転送できないなんて、人間は不便な生活をしているんだなぁと思う。ドアを開けたら目的地、みたいな生活を生まれたときからしている僕としては、転送くらいで大喜びする姫ちゃんの純粋さが羨ましかった。

転送した先は、スタジアムへ続く通路。何ヶ国語もの道案内がそこらじゅうにあって、色々な国の人が様々な座席へとスムーズに進めるようになっている。親切な心遣いだ。転送が出来ないからこそ、人間はこういうところに気を効かせようとする。

そこからちょっと進んで、自動販売機やら何やらが置いてあるちょっとした休憩所のようなところに出た。

「さて、君たちはここで待っててね」

鴻嶋と姫ちゃんに振り返る。

「姫ちゃんのこれ、準備してくるから」

これ、と言いながら僕は自分の頭を指差した。これで伝わる。姫ちゃんは僕の真似をして頭を指差しながら首を傾げているけれど、鴻嶋は理解してくれた。何をどうするのかは想像もつかないけれど、なんとかなるんだろうという曖昧な表情ではあるものの、やっぱり、ある程度は僕のことを信用してくれているみたいなので、けっこう嬉しい。

「よし、行こうか」

鴻嶋たちから視線を外して、後ろに手を伸ばしながら言う。きょろきょろしている彼女の白い腕に触れた瞬間、僕は自分と彼女をドーム内の別の部屋に転送した。

「……おっ」

僕と彼女は、ドーム内部にある大きな暗い部屋に立っていた。ふと気がついたら、さっきまでと違うところにいる。普通の生活を送ってきた彼女には刺激的すぎるのか、もう何度か経験しているのに、彼女は、今度はどこに飛ばされたのかと辺りを見回している。慣れてきたように見えて、不意打ちで転送を食らうとさすがに驚くみたいだ。

ここは、ドーム全体の様々なシステムを掌握しているオペレーションルームのようなもの。彼女の部屋の天井よりも面積のある壁には、防犯カメラの映像を表示するためのモニターが隙間なく敷き詰められていて、これもまた広い床に等間隔でずらりと並べられた長方形の机には、何でどれを操作するのかわからないくらいたくさんのキーボードが小型ディスプレイに繋げられている。

「ここはまた、なんですか、ちょっと……」

パソコンをちょっといじるだけって言っていたじゃないか、と、彼女の心の声が聞こえる。言葉の綾でもなんでもなく、本当に聞こえる。彼女がそんな風に考えているということが、僕には手に取るように感じられた。

「なにも、これ全部を操作しろって言うんじゃないよ?」

当然だけど、ここに並べられた様々な機械類をひとりでどうこうしようなんて、たぶん僕でも無理だ。もちろん、そんなこと、パソコン関係があまり得意でない彼女にやらせようなんて、これっぽっちも思っていない。

「君に操作してもらいたいのは……」

彼女の手を引いて、モニターぎっしりな壁がすぐ目の前にある机の真ん中に設置されたパソコンへ誘導する。

「これ」

椅子を引いて、座らせてから、電源を入れたパソコンの画面を指でなぞる。電気が使えないのに、電源が入るなんて、奇跡みたいだ。

「ここのマークを、僕が言う通りにクリックしてくれればいいから」

電源を入れてすぐに操作できるようになったパソコン。画面を色々と切り替えて、目的のウィンドウを開いた。そこに表示されたのは、ウサギと、熊と、馬と、猫のマーク。本当はもっと複雑で細かい計算が必要なんだけど、彼女に分かりやすくするために面倒な手順は全部ショートカットした。

「これが……なに?」

画面を食い入るように見つめる彼女が、目を細めて呟く。ちょっと見づらいのかもしれない。僕は今さらこの部屋の照明をつけて、画面の明るさを少し和らげた。

「キミちゃんと姫ちゃんが強くなるには、これが必要なんだよ」

画面に釘付けになっていた彼女の視線が、一瞬だけ動く。ちょっとだけこちらを見た。キミちゃん、という言葉に反応したようだ。鴻嶋卿徒をキミちゃんと呼ぶのはおかしいだろうか。彼女は、僕の口から出たキミちゃんという言葉に、言い表せないような不快感をほんの少し感じたらしい。なんだか、よくわからないけれど、ちょっと気持ち悪いなって、そんな感じだ。

「君は、ここで僕たちの動きを見ててくれたらそれでいいから」

彼女の不快感は無視して、僕は前面に広がる壁モニターを起動させる。長方形に敷き詰められたモニターを四つに分けて、その右上に鴻嶋たちのいる休憩所を表示させた。

「ほら、あのふたりはいま何してるのかなぁ?」

「ちょっと……」

そんな、若い男女がふたりきりでいるところを覗き見るような真似は……と言いかけた彼女は、そこで口をつぐんだ。自動販売機を破壊してスナックバーを食べている鴻嶋が映っていたからだ。

「ねぇ、サンタさん?あの人、泥棒に抵抗とかないのかな……」

ドリンクの自動販売機と違って、スナックの販売機は前面がガラス張りなので、金属の棒でもなんでも、硬いもので殴りつけたら簡単に中の商品を取り出せる。管理している人間がいないなら防犯システム等に気をつかう必要もないから、鴻嶋にとってはちょっとした栄養を補給するのにちょうどよかったんだろう。

「まあ、非常事態だからねぇ」

鴻嶋の行動は、まあまあ合理的ではあると思う。とはいえ、非常事態に慣れていない彼女にしてみれば、当たり前のように盗みを働く姿は異様に見えるようだ。

「ここは普通の世界とは違うからね。彼だって、元の世界じゃここまで大胆なことはしないと思うよ」

いちおう、フォローは入れておく。鴻嶋は悪い人間ではない。念のため、キミちゃんと呼ぶのはやめておいた。

それから、ちょっとだけモニターに映る二人の様子を眺める。姫ちゃんは鴻嶋に手渡されたスナックバーに難しい顔をして噛りつき、すぐに水を飲んで流し込んでしまった。甘すぎて好きじゃないみたいだ。

「姫ちゃんかわいいよね」

「わかるよ」

高校生なのに子どもっぽいにも程がある。なんて思いつつも、やっぱり、姫ちゃんには小動物的な何かがある。なんていうか、理屈ではなく胸にこみ上げてくる不思議な感覚だ。

「サンタさん、こんなことしてていいの?」

「うん、ダメだよ」

「じゃあほら、はやく」

「はーい」

彼女に促されて、僕はようやくモニターから視線を外した。彼女を見ると、なんだか睨んでいるような目つきだった。

「どうしたの?」

尋ねると、彼女は僕を睨む視線を動かさずに答える。

「さっき、嘘ついたでしょ」

さっき、とは、ドームの前を歩いていた時のことだ。

滅多にない体験をさせてあげたかった。

僕はそう言った。それは確かに本心だけど、それが全てではない。彼女に不思議な体験をしてもらいたいのは事実。

彼女は、幻獣を捕獲するために、人間の世界での活動の拠点として無作為に選ばれた親切な人間。僕と関わってしまった時点で、彼女は普通の生活を送れないと決まってしまったようなものなのだ。もちろん、今後は死ぬまで援助されることになっているけれど、それでも、僕は少しだけ、可哀想な気がしてしまう。たぶん、同情している。だから、少しでも普通の人間より幸福を多く感じて欲しい。

なんていうことを話してしまうと、彼女はきっと怒るだろう。彼女に限らず、人間はそういう同情を受けることを嫌がるものだ。だから、できればあまり言いたくない。

「……私、サンタさんのこと嫌いじゃないよ」

逡巡する僕に視線を向けたまま、彼女が小さく呟く。

「なに言われても、たぶん怒ったりしないから」

その言葉に、少しどきりとした。

彼女に心の中を読まれたのかと思ったけれど、そんなはずはない。たまたま考えていたことと彼女の言葉がぴったり重なっただけ。こういうの、僕のいた世界ではほとんどありえないから、返す言葉が浮かばない。

「うん、そう、そうか。そうだよね」

必死に次に続けるべき言葉を考えながら、いつ言葉が浮かんでもいいように意味のない音を並べる。こういうとき、なんて返すのが正解なんだろう。

目がまわりそうなくらいぐるぐると頭の中で考えを巡らせる僕を見て、彼女は吹き出すように笑った。

「珍しい、焦ってるの?」

そう、焦っている。認めたくはないけれど。いや、認めるべきか。

「……そうかも」

頷く。

また、笑い声。

「ごめんね。ややこしいのは終わってからにしよ」

彼女が椅子から立ち上がり、僕の手に触れた。

「これが終わって、家に帰ったら、全部お話してね」

彼女がまっすぐ僕を見つめている。

触れられているところが温かい。

僕は素直に頷いた。

「分かった」

「はい。じゃあ、ここでサンタさんが指示してくれるの待ってるから、さっさと解決してきてね」

「うん」

手が離れてから、僕は彼女に背中を向けた。そのまま鴻嶋たちのいるところへ自分を転送しようとしたら、

「あ、ちょっと待って!」

と、なにか思い出したように声をあげる彼女に呼び止められた。

「なに?」

「やっぱちょっと怒ってるからね!」

「えぇ!?」

なぜだ!

振り向くと、彼女は急に顔を赤くして眉間に皺を寄せている。

「さっきなんであんなことしたの!」

さっき。さて、なんのことだろう。

彼女の思い浮かべている"さっき"の記憶をたどると、そこは東京だった。

僕が、彼女に能力をちょっとだけ分け与えたときのことを怒っているらしい。

「あれは、君のためにだね……」

「何か飲ませたよね」

「効率がいいからね」

唾液による経口摂取が、僕の能力を少量でも彼女に移すにはちょうどいい。すぐに浸透するし、あっという間に効果がでる。

「怒ってるの?」

「怒ってます」

なぜだろう。こんな真っ赤になるまでマジギレするようなことだろうか。

「ご、ごめんね?」

ものすごく怒っている。僕はただ謝るしかできない。まさか、キスしたくらいでこんなに怒られるなんて、想像もしなかった。本当に申し訳ないと思う。

「ほんとごめん」

何度めかのごめんなさいで、彼女はようやくため息混じりに「ふん」と声を出した。器用だ。

「もういいよ、仕方なかったんだよ、サンタさんは人間の常識を知らないんだから」

人間の世界では、女の子にいきなりキスしようものなら警察にしょっ引かれるらしい。そんな知識はなかった。僕の落ち度だ。

「軽率だったね。ごめんね」

「わかったって。もういいから、とっとと事件を解決してきちゃいなさい」

「はい、ほんとすんません」

「軽くない?」

「ごめんなさい」

「まったく」

答える彼女の声は、最後の方が少し笑っていた。怒っているけれど、もう怒ってはいないようだ。僕は、彼女に向きあったまま軽く手を振る。

「ちょっと待っててね」

すると、彼女も微笑んで手を振ってくれた。

「いってらっしゃい」


つづく

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