2話
目眩がして、身体が宙に浮くような感覚に襲われたあと、気がついたら砂浜に放り出されていた。首を動かすと、頭のすぐ上には大きな岩がある。
ここにぶつからなくて良かった。そんな風に思いながら身体を起こそうとした私の肘の下に、柔らかい感触があった。
「痛い痛い、痛いよ」
私は思わず悲鳴をあげて、彼の腹のあたりにめり込んでいた肘を退かせる。どうやら、放り出されたときに彼が私の下敷きになってくれたみたいだ。
なんとか身体を起こして、馬乗りになった状態で彼を見下ろすと、彼は私の目をまっすぐ見つめていた。それなのに、どこか別のところを見ているような気もする。
頭の中では、確実に別のことを考えている。そんな目で、私のことを見つめていた。
「サンタさん、何者?」
少しの沈黙のあと、私は彼に尋ねた。
「サンタさんだよ」
彼は私を見つめたまま、明るい笑顔で答える。それから、ゆっくりと上体を起こした。
「いまから、ちょっとした予定を片付けなきゃならないんだ。終わったら全部教えてあげる」
呼吸が触れるくらい彼の顔が近くにきてしまったので、私は慌てて彼の上から退散した。そのあと、やけに慌てている自分にすこし笑ってしまう。なんだか、ようやく落ち着いてきたみたいだ。いつから興奮していたのかはわからないけれど。
それにしても、私はずいぶんと軽率な行動をとったものだなぁ、と、だんだん恥ずかしくなってきた。彼が私のことを放っておいてなにかの用事を済ませに行くことなんて、今まで普通のことだったではないか。それを連れて行けだのなんだの……。
熱くなった頬を両手で軽く叩いてから、全ては寝起きだから、と口中に呟く。私はまだ目覚めてから一時間ほどした経っていないんだから、まともに頭が働いていないに違いない。
頭に手をやり、髪の毛まで熱を持っているような気がしてしまうことにうんざりしながら彼を見ると、彼は既に立ち上がり、目の前にそびえる五メートルほどの崖を見上げていた。私は、彼の隣に立って軽く頭を下げる。
「ワガママ言ってごめんね」
「いや、いいんだよ。なにも気にすることなんてないんだ」
それから、私も一緒になって崖を見上げた。崖の向こうには木々が生い茂っていて、森が広がっているらしいことが分かる。彼は、こんなところに何の用があるのだろう。
「まず、君に言わなきゃいけないことがある」
「なに?」
隣を見ると、彼はやけに真剣な顔をして、私の手を握った。
「僕はこれから、君には理解できないような行動をたくさんする。例えば……」
彼はそこで言葉を切ると、そのまま私の手を引いて抱き締めた。そして、気がついたら、私は彼に抱き締められたまま大きな木の根元に立っていた。
「ほら、こんなふうに」
私の背中にまわしていた腕をほどいて、彼が笑う。彼の背後には海が見えた。どうやら、まばたきをするくらいの一瞬で、私たちは崖を登ったようだ。
「すごい、ワープした」
「そうなんだよ、だから、僕がなにをしても驚かないでほしいなって」
「え、それは無理だよ」
いまだって、五メートルはあろうかという崖を一瞬でショートカットしたのだ。あのまま抱き締められていたら、鼓動のあまりの早さを彼に笑われている自信がある。普通の人間じゃないとは思っていたものの、実際に超能力のようなものを披露されると、やはり心底驚いてしまうのは仕方ない。
「うーん」
彼は困ったような声で笑った。
「それじゃあ、せめて引かないで」
それを聞いて、私も少し笑ってしまった。
「べつに引かないよ」
驚いてしまうのは仕方ない。とはいえ、それが気味の悪いものだとは思わない。便利じゃないか、ワープなんて。
「いいと思う。そういうことできるの、羨ましいな」
「そうかな?」
「うん」
頷くと、彼は嬉しそうに笑った。
「でも、君はそんな僕のことを好きにしていいんだよ。地球の裏側にだってワープできるし、空も飛べる。君が望むことならなんでも叶えてあげられる」
「そ、そうなんだ……」
なんだか、色々な意味でものすごいことを当たり前のように言われた気がして、私は彼から顔を背けた。
―――
急に彼女が大人しくなった。
やっぱり、彼女の前で奇跡を披露したのはまずかったのだろうか。そう思って彼女を見ると、彼女は少し赤い顔を僕から背けた。今日の彼女はなにを考えているのか分かりにくい。しかし、僕の奇跡を不審がっているようではなさそうだ。
はぐれないように。それから、不安定な足場で転んだりしないように、彼女の手を引いて森の中を歩く。アカプルコは温暖な気候に恵まれていて、強い日差しが一年中続いている。それでも、いま僕たちが歩いている森の中は、生い茂った木々がパラソルの役目を果たしてくれているので、砂浜にいるよりは圧倒的に過ごしやすかった。
その砂浜について、僕は疑問に思うことがある。この島も一応は観光地として開発されているはずなのに、僕たちが到着した砂浜には人っ子ひとりいなかった。
ここだけの話、この島にやってくるときに転送クロスの調整を間違えたらしい。そのせいでいつもより乱暴に、予想地点を大きく外して飛ばされたという逃れようのない事実は置いておいても、世界有数のリゾート地に人の気配がないというのは、不思議なことのような気がする。
もしかしたら、もう幻獣がなにかやらかしているのかもしれない。そんな考えが頭をよぎるなかで、僕は必死に幻獣の気配を追った。
「それで、予定ってなんなの?」
背後から、彼女の声がかかる。僕は歩くスピードを少し緩めて、彼女に顔を向けた。
駅前の安い服屋で安く買ったというTシャツと裾の広いハーフパンツは、森の中を歩くには軽装すぎるように見える。けれど、そこから伸びる白い手足は、木の枝や葉っぱが引っかかって傷を作ってしまわないように僕が奇跡を使って守っていたおかげで、すらっと綺麗なままだ。自分を褒めてやりたい。
彼女の全身を眺めて満足感に浸ってから、僕は彼女の疑問に答えることにした。
「僕、ちょっと訳あって危険な動物を捕まえる仕事をしてるんだ」
危険な動物、という単語に、一瞬だけ彼女の目が反応する。僕は、彼女を怯えさせないように言葉を続けた。
「珍しい動物でね、僕の……その、地元のほうで保護してるんだけど、逃げちゃったんだ。それを捕まえるのが僕の仕事」
僕のやってきた世界をなんと説明するべきか、うまい言葉が思いつかなかったので、地元、という雑な単語で誤魔化した。彼女は、そんな事情を知ってか知らずか、曖昧な表情で頷いた。
「なんか、そんな大切なお仕事なのに無理言ってごめんね」
「いいんだ、話しておかなかった方が悪い」
彼女が少し落ち込んだ声を出すので、僕はやや明るい声で話す。
「それに、本当にやばかったら無理にでも置いてきてるよ」
「そうかなぁ」
「そうそう。危険な動物って言ったって、君のことは僕が守るから大丈夫だよ」
「またそんなこと言って……」
それから、彼女は再び大人しくなった。
しばらく進むと、視界に少しずつ太陽の光が射し込むようになってきた。木々のパラソルが薄まりつつある。そろそろ、森の終わりが近い。相変わらず僕は、気配はするのに姿の見えない幻獣を必死になって探していた。
視界がひらけて、ひっそりと現れた小屋にたどり着いても、幻獣の手がかりは掴めない。それにしても、ここは本当に観光地なのだろうか。
「誰もいないね……」
僕が差し出したつばの広い麦わら帽子で顔を扇ぎ、彼女が不思議そうな顔で呟く。ここは、カフェらしい。看板も出ているし、テーブルの上にはコーヒーの入ったカップや食べかけのパンケーキの乗った皿が置いてある。
人のいないカフェ。痕跡だけはある、人が消えたカフェだ。
僕は、カフェに入ってすぐ近くにあるテーブルの上に乗せられた皿を手に取る。それには、まだ温かいタコスが乗せられていた。誰も手をつけていない。
「……それ、食べるの?」
「まさか」
口元を麦わら帽子で隠す彼女に見つめられながら、僕はタコスに顔を近付ける。薄く焼いたトルティーヤに乗せられている肉は、なんだろう。たぶん、チュレータ。それに、馬鹿みたいにサルサソースがかけられていて真っ赤になっているけれど、小さなエビと、野菜もそれなりに入っているようだ。ほとんどサルサソースの匂いしかしない。それをずっと眺めていると、少しずつ、このカフェに一時間くらい前まで存在していた光景が見えてくる。
ここには、一時間くらい前までは確かに人がいた。観光地ではあるけれど、ひっそりと経営している穴場なんだろう。そんなにお客さんがいるわけではない。というか、この島で観光のための仕事をしている人たちが集まるような店らしい。お客さんも、従業員も、みんな顔見知りみたいだ。たまに、ふらっと現れた観光客を地元のノリで歓迎してやるくらいのことはするらしいけれど。
今日も、観光客のスキューバダイビングやらなにやらに付き合って、いつものカフェでちょっとひと息。なんていう具合にやってきた男が、いつものタコスを注文する。出来上がったタコスにサルサソースを好きなだけ振りかけ、男はふと店の入り口に目をやった。
犬がいた。
それとも、ライオンだろうか。
トカゲのようにも見える。
化け物が……。
叫ぼうとした男の声は、誰にも聞こえなかった。ほんの一瞬で、幻獣はこのカフェにいる人間を全て消した。けれど、ここにいた人間たちが死んでしまった様子はない。言葉にすると難しいけれど、そんなふうに感じる。
僕はひとまず安心して、タコスから目を離した。すると、今度は目の前に麦わら帽子が進み出てくる。
僕の鼻先に麦わら帽子を突き付けている本人を見ると、彼女は驚いた顔で僕の背後を見ていた。
「どうかした?」
振り返ると、入り口に人が立っていた。
僕より少し背の低い、黒髪の若い男。顔立ちは整っていて、彼女と同じく日本人に見える。
振り返ったときに僕が発した言葉を聞いたからなのか、それともそれしか話せないのかはわからないけれど、彼は日本語で言った。
「何者だ」
「あ、ごめんなさい。ここ、営業してますか?」
お腹すいたし、ちょっとカフェで休もうかって話になったんだけど、人がいなくて。そう続けながら、彼がこちらに右腕を伸ばしていることに気付く。その時になって、僕はようやく、彼女が驚いた顔をしていた理由を知った。
「なぜここにいる」
彼は、不審なものを見る目に少しの困惑を滲ませて、僕に拳銃を突き出していた。
「なぜって、観光にきたんだけど」
僕は、わざと大げさに腕を広げて、彼の正面に向き直る。それから一歩進み出て、彼の視界から彼女を逃がした。僕は人間の拳銃ごときで撃たれた程度では痛くも痒くもないけれど、彼女はそうもいかないから。
「慣れているのか」
「なにが?」
「銃を向けられてそんなに平然としていられる観光客がいるか」
きみね、いま、とんでもないことを口走っているぞ。会ったばかりの人にそんなもの向けるんじゃありません。
僕はそう言ってやりたくなるのを必死に堪えて、彼が握る拳銃を見る。彼は僕の視線に気付いたのか、僕を見つめたまま一歩後ろへ下がった。
僕はため息をついて、彼の目を見る。失礼とは思ったものの、少しばかり頭の中を覗かせてもらった。
……正直言って、驚いた。
彼は本当に人間なのか?これではまるで、僕と同類みたいじゃないか。向こうの世界で学んだ人間のデータには、彼のような能力は記されていなかった。
「……分かったよ、ごめん、降参」
少々警戒されているとはいえ、彼はここでの貴重な情報源だ。それはもう、色々な意味で。
僕は両手を挙げ、近くの椅子に腰掛けた。
「僕は観光しにきただけじゃない。もちろん観光もするけどね」
すると、彼も態度を軟化させたのがわかる。ぴったりと僕を追いかけていた銃口が下がり、これまでずっと引き金にかけられていた指も、そこから離れた。それを確認して、僕は後ろで青い顔をしている彼女を引き寄せ、隣に座らせた。
「……大丈夫?」
彼女は完全に普通の人間だから、少し怯えているようだ。必要以上に僕に寄り添って、麦わら帽子で口元を隠しながらこちらに話しかけてくる。
「大丈夫、僕に拳銃なんて効かないし、君に当たることもない」
それを聞いた彼が、なんとも言えない表情をみせた。
「あんた、なんなんだ」
「君こそなんなんだ。鴻嶋卿徒くん」
絶句。まさに、これ以上ないくらい、お手本のような絶句。
初対面の謎の外国人男に名前を呼ばれて、何事にも動じない強靭な精神の持ち主は分かりやすくうろたえていた。それでも、彼はやはり精神力が普通の人間よりはるかに強いらしく、すぐに冷静さを取り戻して、再び僕に拳銃を向けようとする。僕は手をかざしてその腕の自由を奪い、彼を椅子に座らせた。
「鴻嶋卿徒くん、君はここで何を?」
「そんなことより、あんたは何者なんだ」
「鴻嶋卿徒くん、いいからここで何をしていたのか教えて欲しいな」
手をかざす。ちょっとだけ口を軽くしてやろう。
「……調査だ」
素晴らしい。彼は僕が口を操っても全部を喋ろうとはしない。なんという精神力。面白くなってきた。
「鴻嶋卿徒くん、ここで何の調査をしてたの?鴻嶋卿徒くん、今日はひとり?」
「フルネームで呼ぶのをやめろ!」
手も触れていないのに身体の自由を制限されて、さらに、どういうわけか僕に隠し事は出来ない。必死に冷静さを保とうとしていた彼も、ついに声を荒げた。
僕が笑うと、隣に座っていた彼女に軽く肩を叩かれる。彼女は眉をひそめている。
「意地悪しないであげて……」
「ごめんごめん」
「なんなんだ、お前たち……」
彼は肩で息をしているけれど、口調は落ち着いている。せっかく爆発したのに、もう冷静さを取り戻してきているようだ。本当に、彼の強靭すぎるほどの精神力は素晴らしい。
「ごめんね、本題にいこう」
軽く咳払いをしてからそう言うと、隣の彼女が「うわ、遊んでたんだ」と呟く。彼女も彼女で、状況に慣れるのが早い。さっきまで拳銃を向けられて震えていたのに。
彼女の批判に微笑みを返してから、再び彼、鴻嶋卿徒を見る。
彼は日本生まれの日本育ち。一般的な家庭で普通に育ち、大学に進学して、僕にしてみれば呼吸と同じくらい簡単なことを難しく解釈して研究していた。そこで、実験中に事故にあったらしい。
その事故以来、彼は特殊な体質になり、今に至る。どうやら、彼のほかにも特殊な体質の人間はたくさんいるらしく、そんな人間たちが集まった集団があるみたいだ。彼はその集団に所属して、同じく特殊な体質を駆使して犯罪を行う人間を取り締まっている。まだまだ若いのに、とても頑張っている立派な青年だ。
そんな彼が、なぜメキシコにいるのか。僕が目で促すと、彼は大きくため息をついて話しはじめた。
「僕は、日本で少し変わった仕事をしている」
「あ、そこらへんのことはもう分かってるからいいよ、教えてくれなくて」
「ちょっと、私は知らないんだけど」
「あとで教えてあげるから」
「ほんとにぃ?」
話はじめるや否や話の腰を折ってしまった僕と彼女の前で咳払いをして、彼は目を閉じて上を向いた。
「……続けていいか?」
「ごめん、お願い」
また、ため息。ペースを乱されて困惑しているみたいだ。もちろん、僕は、彼が本当はもっとクールなキャラクターであることを知っている。けれど、彼みたいに冷静で物腰の柔らかい人間が困っている姿は、申し訳ないけれどかなり面白い。彼は心底うんざりした顔で、再び口を開いた。
「このところ、世界各地で発生している怪現象の調査をしているチームから、ここの情報があった」
彼が言うには、幻獣によって何らかの被害(人的、物的に関わらず、幻獣の行動で影響を受けたものは全て被害と定義しているらしい)があった場所には、幻獣が現れる前に、わずかながら決まった兆候があるんだとか。僕は、いつも頭の中で感じ取るだけだから、そういう兆候なんて気にもかけないけれど。
人間もきちんと調査して研究しているんだなぁ、と、僕は素直に感心した。でも結局、僕が全部片付けてしまうことに変わりはない。残念。
「それで、メキシコにも幻獣が現れる兆候があったってこと?」
そう尋ねると、彼はいちど頷いてから、不思議そうな顔をしてこちらを見た。
「幻獣?」
うっかりしていた。そうか、彼は、というか人間は、幻獣を幻獣と呼ぶことすら知らないんだ。隣にいる彼女に至っては、今の時点ですでに話についていけていない。
「そうなんだよ。君たちが調査している怪現象。本当はね、幻獣っていう生き物が起こしているんだ」
「……なるほど」
彼は、深く息をついた。僕に目を向けたまま、何か考え込んでいるようだ。
「その、幻獣っていうのは、生き物と考えていいと……」
話しながら、僕の目を見る。言葉の最後の方は、僕に同意を求めるように小さくなっていった。
「そうだね、生き物だ。僕がそれを捕獲してる」
「捕獲、できるのか」
「できるよ」
ただし、人間には無理だ。僕がそう伝えるまでもなく、彼はそれを分かっているようだ。また深く息をついて、僕を見たまま考え込むように黙ってしまった。けれど、彼がなにを考えているのか、僕には手に取るように分かる。
彼は、パートナーの安否を心配しているのだ。
幻獣の引き起こす怪現象を調査するためにやってきた彼とパートナー。しかし、この付近で彼のパートナーは消えてしまった。
見知らぬ異国の地、人っ子ひとりいない怪しげな島で、曖昧な情報を頼りに謎の怪現象を調査しなければならないなんて、彼の重責は大変なものに違いない。気の毒なので、僕は重要な情報を彼に教えてあげることにした。
「君の姫は生きてるよ」
すると、彼は微かに、それでもはっきりとその表情を明るくさせる。
「……そうか」
心の底から安心した。そんな声だった。
少ししてから、彼は立ち上がる。それから、ちゃんと腕や足が動くかを入念にチェックしていた。僕がまだ彼の身体を操り人形にしていないか確認しているようだ。失礼な話である。
「これからどうするの?」
「どうもこうも、僕はパートナーがいないとただの人間だから、どうしようか悩んでいるんだ」
ひとりで幻獣の調査を続行することはできるけれど、実際に遭遇してしまったらどうにもならない。彼は、パートナーがいないとその能力を発揮できないから。つまり、いまの彼に出来るのは、善良な観光客に拳銃を突きつけることだけ。
「ちょっとのあいだ、一緒に幻獣探そうか」
僕がそう言うと、彼は一瞬だけ悩むような顔を見せた。不審人物だけど、敵意はなさそうだし、自分と同じ特殊な能力を持っているみたいだから、いざという時には役に立つかもしれない……。そんな逡巡が、あっという間に頭の中を駆け巡って、やがて彼は、やや迷いながらも頷いた。
「分かったよ、僕もひとりで行動するのは良くないと思っていたところだったんだけど……」
言いながら、彼は不思議そうに目をキョロキョロしはじめる。
どうしたの?と声をかけようとして、隣にいるはずの人間の姿がないことに気づく。
「しまった!」
彼と話しているとき、彼の頭の中を覗くことに集中しすぎて、隣にいる彼女にまで意識がまわっていなかった。
重大すぎるミスだ。それも、自分でも信じられないくらい、馬鹿みたいに初歩的なミス。全身から、一気に汗が吹き出してくる。
幻獣がこの付近にいる。そんなことどうでもよくなるくらい、僕は慌てていた。
それがいけなかったのか、まずは状況を整理して冷静にならなければと彼に目をやった時には、彼の姿もなかった。
まったく、一切の気配も感知させず、彼はほんの数秒前まで立っていたはずの空間から消えていた。
残された僕は、小さなカフェでひとり立ち尽くす。
幻獣がどこかから僕を見つめているだろうことは、確実だった。
つづく




