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ノエル  作者: こくま
ノエル
1/9

1話

連作シリーズ第一話

緊急事態。

緊急招集。

人生で一番楽しい、この上なく充実した時間を提供してくれていたテレビモニターは、さっきまで流していた"くまの生態"なんてものは最初から無かったかのように、真っ赤に染まってエマージェンシーだけを表示している。

「まったく……」

これが僕の仕事なんだから仕方ない、とはいえ、少しは休日に呼び出される身にもなってもらいたい。

「管理局に文句いってやろ」

僕はなんとなくそう口にして、"幻獣保護管理局"への扉をくぐった。そして、くぐった先はもう、目的地。便利な世の中だ。たまに、人間の世界の映像を流しているテレビ番組があるけれど、そっちではいまだに車輪つきの乗り物なんて使っていたりする。

ちょっと前にテレビで見た、鳥のくちばしみたいな形をした飛行機を思い浮かべながら歩いていると、"幻獣捕獲課"と書かれた扉の前にたどりついた。

手をかざすと、扉が開く。部屋の中には、見知った顔がいくつか。会ったことはないけれど、テレビでよく見る顔がたくさん。有名人たちが、わざとらしく暗い部屋の真ん中に設置された長くて大きな机のまわりを、等間隔で囲んでいる。扉から真正面にある壁際には、これまたテレビのニュースでよく見る父の顔があった。

「予想以上にエマージェンシーな感じかな」

僕は誰に言うでもなく呟いて、まずは数年ぶりに会った父と目をあわせる。

父と最後に会ったのは、僕がまだノートをひらいて先生の話を聞いていた頃だから、余裕でティーンエイジャーのときだ。

父は、なんていうか、THE 仕事人間だった。今日の再会が数年ぶりなら、数年前に会ったのも数年ぶりで、思い返してみると、父との交流なんてほとんど記憶にない。家庭に興味がないのならなぜ母と結婚したのか疑問で仕方なかった頃もあったけれど、いまとなってはそんなことどうでもいい。

正直に言って、ほとんど家に帰らない父よりも、ほとんど家に帰らない父の部屋にある本棚のほうが僕にとっては重要だったし、たまに父から新しい本が送られてきていることも知っていた。

それでじゅうぶんだった。

僕は、父に育てられたと自信をもって断言できる。父の勧める本を読み、いつのまにか父と同じような道を歩んでいる。

だから、今日この部屋で数年ぶりに再会しても、感動よりも興味のほうが先にあった。世界一の権力者といってもいいほどの重要人物が、なぜこんなところにいるのか。父以外にも、この部屋にいるおじさんたちはあらゆる公的機関の有力者だ。

幻獣保護課での僕の直属の上司、それから局長。空間管理局局長、空間警備隊本部長、立法府の議長、エトセトラ。休日は一日の大半をテレビの前で過ごすような超テレビっ子の僕でなくても知っているくらいの有名人が、この部屋に終結していた。

花形職業につくために父の名前を全力で使ったとはいえ、僕はまだまだ下っ端、社会人なりたての若者でしかないのに、どうしてこの世界のトップ連中を集めた部屋に呼ばれたのだろう。

部屋にいる全員と目をあわせて軽く頭を下げたあと、また父を見る。すると、この世界の統治者たる父は口をひらいた。

「緊急事態だ」

そんなこと知ってるよ……。

と、素直に思ったのはこの部屋にいる人間では僕だけだったらしい。いや、もしかしたら、大人の世界ではそういう感想は顔に出さないのが普通なのかもしれない。まわりにいる権力者たちは、みんなして真剣な顔を崩さずに父を見つめている。

緊急事態発生の報告を受けて集められた人々を前に、あらためて緊急事態発生を告げた父は、それぞれに緊急事態発生という状況の重みを再確認させて満足したのか、軽く頷いてからゆっくりと話しはじめた。

「本日、人間の世界に幻獣が逃げ出した」

おっと、予想以上にエマージェンシーだった。部屋にいる権力者たちを見回すと、先ほどと同じく真剣な顔だ。なるほど、みなさん権力者だから知っていたらしい。

僕はというと、いよいよ自分がこの部屋に呼ばれた意味がわからなくなっていた。人間の世界に幻獣が逃げ出したということは、保たれていた世界のバランスが崩れたということ。つまり、ものすごく大雑把に言ってしまえば、世界の滅亡すら起こってしまいかねない本当の本当に緊急事態だ。

そんな危急の事態に、なぜ僕のような下っ端が呼び出されたのか。僕は、その答えを探るためのヒントでも転がっていないか、あらためて部屋にいる人間を見渡す。幻獣を保護•管理している人、人間の世界とこちらの世界の境目を管理している人、その境目をパトロールしている人。そして、そういった人たちを管理している人。

よし、お手上げだ。僕がここにいる理由が分からない。

ため息をついて、ふとこちらを見つめる視線に気付く。

父が見ていた。

父は僕が視線に気付いたことを察してか、また少し頷いて口を開く。

「ついては、人間の世界に逃げ出した幻獣の捕獲を行いたい」

つまり、幻獣の捜索、捕獲を遂行するエージェントを人間の世界に送る。そう話しているあいだも、父は僕から目を離さない。僕は、額に浮き出た汗を拭いながらハンカチで父の視線を防いだ。

「急な事態であるから、エージェントの選抜は私が独断で行った」

僕は、この場で叫び出したい衝動をなんとか抑える。

嫌です!

と、泣きながら転げ回ってしまいたい。

なぜだ、父よ。

「そこにいる、私の息子だが、彼にエージェントとして人間の世界へと向かってもらうことにした」


———


まだまだ若い。

やはり、そんな印象がまず第一にあった。皆が一度は憧れる統合管理局幻獣保護課に就職したということは、やはりそれなりに優秀であることは確かのようだが、彼はやはり若い。しかし、まずはこの世界を統治する権力者たちが集まる会議室で、一時的にでもリラックスした表情を見せることのできた度胸は称賛しておこう。この肝の座り具合は、尋常ではない。

会議室の最奥、世界の最高責任者たる御仁の背後の壁に投影された巨大地図を見る。平面に立体的な質感をもって投影されたこの世界の全体地図では、我々の暮らす大陸の周囲を小さな球体がまわっていた。

地図の中央に位置する巨大な氷山。これが、いま私が座っている会議室の椅子を支えている大陸。そして、そのまわりを衛星のようにくるくるまわりつづけているのが、人間の世界だ。こうして地図で見てみると、人間の世界と我々の大陸とは、ほとんど接点がない。しかし、我々の大陸は人間の世界がなくては存在できないし、人間の世界も我々の大陸がなくては存在することができない。

今回、我々の大陸に古くから存在する、幻獣と呼ばれる生物が、人間の世界に逃亡してしまった。幻獣とは、まさしく幻の獣。存在が幻というわけではなく、その能力が、という意味だ。

幻のような能力を操って害をなす獣。それが幻獣。

我々は、長いあいだずっとそれを管理してきた。それが今回、どういうわけか人間の世界に飛び出していってしまった。これが非常にやっかいなのである。

私は、会議室にいる面々の顔を見渡した。誰もが、完璧に管理していた幻獣の逃亡という事実について、一致した見解をもっているようだ。

つまり、何者かが幻獣を解き放ち、厳重に警備されていた世界と世界の境目をこじ開けて、人間の世界に干渉をはじめた、と。

当然ながら、人間の世界には幻獣なんてものはいない。人間の世界で起こる怪奇現象は、全て我々の世界では完璧に解明されていることではあるが。

文明が遅れている人間の世界に、こちらの世界でもよく分かっていない幻獣が入り込めば、どのような事態が引き起こされるか、分かったものではない。人間の世界がバランスを崩したら、こちらだってタダでは済まないのだ。

そこで、世界の最高責任者たる御仁は作戦をたてた。人間の世界に干渉をはじめた者は突き止めなければならないが、それはそれとして、人間の世界にいってしまった幻獣もなんとかしなければならない。

あらためて、目の前で青い顔をしている若者を見る。

彼には、人間の世界に行って幻獣の捜索、捕獲をしてもらうことになった。まだまだ新人の彼が選ばれたのは、一口で言ってしまえば、そのまま新人だからだ。

世界を脅かすほどの脅威とはいえ、幻獣保護課に就職したということは、幻獣の生態、行動は知り尽くしているはずである。そして、ベテランのエージェントは、こちらに残っている幻獣の管理、空間警備隊とともに幻獣を逃がした者を突き止めるという仕事がある。逃げ出した数は多いが、新人でも幻獣捕獲なんてそう難しいことではない。

捨て駒というわけでは、もちろんない。むしろ、世界を破滅させないためには、ある意味でもっとも重要な役割だ。彼が任務を全うするためのバックアップは、全ての部署が全力で行う。しかし、誰でもいいのかと言われれば、曖昧に微笑んで俯くしかない。

世界の最高責任者といえど、やはり父親なのだろう。いつか息子を重要な役職につかせようと考えているらしく、今回の抜擢はその箔付けだ。しかし……。

「……タイムリミットとか、あるんですか?」

青い顔をした青年は、額に浮かぶ汗を拭いながら、荒い息でそう絞り出す。なるほど、パニックから立ち直る時間が早い。

誰でもよかったとはいえ、優秀な人材ではありそうだ。


———


大晦日。

一年でいちばん最後の日に、彼はやってきた。

バイトを終えて、くたくたになった私が部屋に帰ってくると、一人暮らしの寂しいアパートに灯りが。いつもなら真っ先に電源を入れてからしばらく経たないと温風を吐き出さないエアコンも、その日は最初から暖かくて、小さな机の上には豪華な料理まで。

「メリークリスマス!良い子にはプレゼントをあげようね!」

呆気にとられている私を見て、彼は嬉しそうにこう言った。

平凡より少し下流だった私の人生を大きく変えた、人生最悪で最高の出会い。あの日から、私は一日だって退屈を感じていない。


「おはよう!今日もいい天気だよね!」

太陽だってまだ完全に登っていないのに、彼が大きな声で爆笑しながら私の布団を剥ぎ取る。

「勘弁してくれよ……」

寝起きの私はとても悲惨だ。ここ十年くらい毎日そう自覚している顔と声で、私は彼に奪われた布団を掛け直す。

「起きろ!今日という日はあと二十時間くらいしかないんだ!」

「だってまだ眠たいん……」

それに、今は二月。

まだまだ朝は寒い。

「……今日なんか予定あった?」

まわらない頭でそれだけ絞り出すと、意識が夢の中に溶けていく。というか、予定があったとしても、こんな早朝から起きだしてなにかやらなきゃならないようなことではないはず。まだ寝ていたって大丈夫なはずなのに、彼はやはり大爆笑しながら私の布団を剥ぎ取った。

「今日は南国でバカンスだよ!」

あまりの寒さに丸くなる。

ああ、今日はたしか、メキシコはアカプルコへ海水浴に行くんだとかなんとか言っていたような……。

「こんな時間から行かなくてもいいじゃない……」

「時間は有限だ!」

「でもほら、その……時差とかあるし」

少しくらいのロスなら、時差の関係でなんとかなりそうではないか。

「日本に帰ってきたら時間もどるじゃん、それじゃあだめだよ!」

彼はどうしてこう元気なのだろう。初めて会った日から、彼が寝ているところを見たことがない。私が眠る時にはまだ起きていて、私を叩き起こすのも彼の仕事だ。

寒さに慣れてきて、また徐々に意識が夢の中へ……。

しかし、彼はそれを許さない。

「ほら、起きて!ご飯できてるから!」

私の身体を抱え上げて、引きずるように机へ運ぶ。小さな机の上には、旅館のような朝食が用意されていた。

「クソ、いい匂いする……」

美味しそうな匂いに誘われて、意識が少しだけはっきりする。

「ほら、食べて目覚めよう!」

「……わかりました」

それから、彼とともに朝食をとった。食べ終わる頃にはすっかり意識も覚醒して、そうなると、今度はいつもならいるはずの騒がしい小動物がいないことに気付いた。

「あれ、くまは?」

くま、とは、彼がやってきた次の日に私のもとへやってきた白い熊のこと。

私の腰くらいの大きさで、いつも「おまおま」言いながらおまだんと呼ばれる謎の踊りを踊っている癒し系だ。

「くまは、なんかさっきから洗面台でオシャレしまくってるよ」

「くまが?オシャレ?」

あの白くて柔らかいマシュマロ的物体が、なにをどうオシャレしようと言うのか。思わず鼻で笑うと、洗面所のドアが大きく音を立てて開いた。

「グッドモーニングおまぁ」

そんな気の抜けた声で挨拶しながら、くまがぷにぷにと足を鳴らしながら現れる。

真っ白な身体に短い手足、ほぼ二頭身のくまは大きなサングラスをかけていた。

「おはよう、くま」

精一杯のオシャレがサングラスひとつだけとは、なんというか、涙ぐましい。胸になにやらこみ上げてくる切なさを噛み締めていると、くまを見た彼が爆笑する。

「くま、一時間くらいかけてグラサン一個って!」

床に転げ回らんばかりの勢いで笑う彼に、くまは全身をぷるぷるさせながら叫んだ。

「シンプルなのが一番おまよ!」

「浮いてるじゃん!グラサン、浮いてるじゃん!」

たしかに、真っ白な身体にサングラスのみをかけていると、どこか不自然に見える。

「大丈夫おまよね?くま、イケてるおまよね?」

柔らかい身体を小刻みに震わせながら、くまが私に助けを求めてきた。

「あ、うん……」

あまりにも似合っていないサングラス顔がこちらを向いているのを見るだけで、どうしても笑いそうになる。

私も彼のように涙を流して笑い転げたいのを必死に我慢して、くまから視線を逸らしつつ小さい声を絞り出した。

「く、くまは、自然のままが一番素敵だから……」

すると、くまは巨大サングラス越しでも分かるくらいに顔を綻ばせた。

「そうおまか!そうおまよね!こんなもんいらんおまぁ!」

短い両手で器用にサングラスを外し、勢いよく床に投げ捨てるくま。転がったサングラスを見て、彼もまた笑い転げている。放っておくと、こいつは永遠に笑っているんじゃないかと思うくらい笑い続けるので、私はため息をついた。

「いつまで続ける?」

くまのまんまるな耳に触れながら言うと、彼は息苦しそうに肩で呼吸しながら、目尻に浮いた涙を親指で拭った。いや、笑いすぎだろう。

「ごめんごめん、ツボだった」

「ば、ばかにしているおまね」

くまが名状しがたい顔で小刻みに揺れるので、彼がまた肩を震わせる。こんな調子では夜までかかってしまう。

「ほら、やめよう。貴重な一日が、ほら!」

すると、彼は深呼吸して、ようやく落ち着きを取り戻す。まだ顔は赤いが、ちょっとしたことでツボにはいるほど笑いの沸点が低い状態は脱したようだ。

「ごめん、もう大丈夫」

吐き出す言葉の最後のほうを抜けきらない笑いで軽く震わせると、彼は咳払いしてそれも打ち消した。それから、部屋の隅に置いてある鞄を指差して微笑む。

「準備してあるからね」

私のキャリーバッグだ。オレンジ色で、本体だけでくまの身長くらいある。高校の修学旅行のときに購入して以来、彼がやってくるまでは引越し以外では使っていなかった。

去年の大晦日以来、彼に連れられて色々なところへ行ったが、いつも私の荷物は彼が事前にまとめてくれている。下着やらなにやら、非常にデリケートな部分も堂々と鞄に放り込まれているのには未だに参ってしまうが、楽チンなのは感謝だ。

「今日は、メキシコ!ほら、こっちにおいで!」

キャリーバッグに取り付いてコンビネーションロックのダイヤルをいじっているくまを力任せに引き剥がす私に、彼は満開の笑顔で言った。南国のビーチで優雅にバカンスを楽しもう、と。その手元には、最近になってようやく見慣れてきた、大きくて白い布があった。

彼は、私を色々なところへ連れていってくれる。冷静になって考えてみれば、信じられないような距離の旅行。今日だって、ここ日本からメキシコまで、ほんの一瞬で出かける手はずなのだ。

いまだにどういう原理でそうなっているのかわからないが、彼の持っている白くて大きな布に包まれると、ほんのちょっとだけ目眩がしてから、気がつくと目的地にいる。そこが、例えば地球の裏側だったとしても。

「サンタさんだからね」

と言って彼は笑う。

不思議で仕方ないが、詳しく追及しようとも思わない。彼にとってはそれが普通みたいだし、今のところ不便はない。というか、そんなところを気にするくらいなら、もっと気にするべきところはたくさんある。でも、彼と一緒にいると、ついどうでもよくなってしまう。これも、不思議だ。

彼の案内のまま布に包まれて数分後、私の身体は、真昼の太陽照りつけるビーチにあった。


———


『我々の世界は、さまざまな手段を利用して、古来より人間の世界に介入してきた。人間の行動そのものを制限しない程度の小さな介入ではあるが、二つの世界の安定にとっては、非常に重要である』

学生時代、必死になって暗記した歴史の教科書には、こんなことが書いてあった。つまり、人間の世界が滅んでしまわないように、こっそりと助言をしてやってきましたよ、ということだ。そのなかでも、とりわけポピュラーな介入の方法は、"サンタクロース"というらしい。

人間の世界の宗教にとっては特別な存在であるらしいこのサンタさんに化けて、一年に一度だけ、人間の世界に行き、少しだけ奇跡(僕らの世界では、誰もが子どもの頃からできる程度のちょっとしたこと)を披露してやる。そうすることによって、濃厚だった滅亡を回避したこともある。

というわけで、今回は、僕もサンタクロースとして人間の世界にやってきた。本来ならば、一年の最後のあたりで一日だけ現れて世界中で奇跡を起こすサンタさんではあるものの、今回は事情が事情だけに、ちょっとだけ特殊なサンタさんになった。

特殊なサンタさんその一、時期が違う。

特殊なサンタさんその二、期間が違う。

特殊なサンタさんその三、人間をひとりだけ選抜して、その人間にお世話になる。

まず、僕が出発した時点で、人間の世界ではサンタさんが現れるはずの日程を過ぎてしまっている。それから、僕が演じるサンタさんは、一日だけなんてケチくさいこと言わず、目的を達成するまでずっと人間の世界にいる。そして、その間の行動の拠点として、心優しい人間に住まいを提供してもらう。この、心優しい人間の選抜というのが、僕が思っていたよりもあっさりしていて拍子抜けしてしまった。

「今回は特例だから、ある程度までなら奇跡の乱用も許そう」

父はそう言っていた。

つまりどういうことかというと、簡単に言えば、強引にでも家に押しかけて洗脳でもなんでもしてしまえ、ということだ。なんと乱暴なんだろう。心優しい人間がどうとか言いながら、悪人だろうとなんだろうと無理矢理にでも協力させろってことか。

「しかし、許されるのは個人に対する奇跡だけだ。世界中を巻き込んで厄介事を起こそうとは考えるなよ」

そんな風に釘を刺されたけれど、もちろん分かっている。僕はそこまで野心家じゃない。つもりだ。

さて、いよいよ心優しい人間の選抜、というときに、父は分厚い書類の束を持ち出してきた。床に置いて、僕の腰くらいまであるんだから、もはや束とは呼べないかもしれない。そんな暴力的な書類の塊を指して、父はこう言った。

「選べ」

「なにを?」

「人間を」

なにを言われているのか分からない。頭の上にクエスチョンマークを出したまま書類タワーの頂上に目をやると、そこにはびっしりと人の名前が書いてあった。

「もしかしてこれ全部が心優しい人間の一覧?」

「そういうことだ」

「え、ツラすぎる」

書類一枚につき二百人くらいの名前がびっしりと書き込まれていて、それが……考えるのがうんざりするくらいある。僕が書類タワーの前で途方にくれていると、父は「誰でもいい」と言ってタワーのてっぺんに書かれていた名前を指差した。

「この人間にしよう」

「そんな感じで決めるんならなんでわざわざ束で持ってきたんだよ……」

そういうわけで、僕は心優しい人間の女の子の部屋に居候することになった。彼女の部屋に押し入り、ちょっとした奇跡で彼女の疑問に蓋をする。彼女はもともと素直な子なんだろう。あっさりと僕を受け入れてくれた。僕は彼女の部屋を拠点に、人間の世界に所構わず現れる幻獣を捕獲していった。到着してから二ヶ月で三匹というのは、頑張った方だろう。

ところで、僕は幻獣捕獲に彼女を同行させることもある。もちろん、彼女には旅行と伝えたうえで。彼女を旅行に連れていった先で、僕はこっそりと手早く幻獣を捕獲し、それから、人間の世界での観光を普通に楽しんでいる。別に仕事をサボっているわけではなく、言うなれば、サンタさんとしての仕事のひとつだ。僕たちの都合で強引に協力させているんだから、ちゃんと恩返ししなきゃいけません、ということらしい。

これは、素晴らしいことだと思う。いまのところ大変なピンチには陥っていないとはいえ、幻獣は危険な生き物だ。そんな連中を相手にしなければいけない僕と近くにいたら、普通の人間である彼女は僕よりももっと危ない。だから、ちゃんと幸福をプレゼントしよう、というサンタさんとしての大事な仕事。

たとえ幻獣捕獲があっという間に終わったとして、僕が彼女のもとを去ったとしても、彼女には死ぬまで僕たちからの援助が約束されている。本人には内緒だけれど。

死ぬまでなにもせずに生活していけるというのは、ある意味ではラッキーだし、それくらい危険と隣り合わせな状況に否応なく付き合わされているのは、ある意味で不幸と言えるかもしれない。


はじめて転送クロスを使ったときは泣きそうな顔をして辺りを見回していたけれど、さすがに何回か経験すれば慣れてきたみたいだ。アカプルコのビーチに立った彼女は、着ていた厚手のコートをものすごい勢いで砂浜に叩きつけた。

「メキシコこの野郎!」

僕としたことが、うっかりしていた。日本は真冬の二月でも、アカプルコは常夏だ。日本が寒いもんだから、すっかり忘れていた。

「ごめんね、メキシコって暑いらしいよ」

「知ってます!」

なんで気がつかなかったのかと自分に文句をつけながら、彼女はくまにコートを被せる。

「暑いおまよ、暑いおまよ!」

「苦しめ!苦しめ!溶けろ!」

本当にちょっとずつ溶けだしたくまに悲鳴をあげる彼女をなだめて、僕は背後にそびえる大きなホテルを指差した。

「あそこのラウンジでちょっとだけ休憩しててくれるかな」

すると、彼女は露骨に口を尖らせて不平を顔に出す。

「また、ちょっとした用事ってやつ?」

「実は、そうなんだよ」

彼女と旅行をエンジョイする前に、手早く幻獣を捕獲する、といういつものパターン。奇跡を使ってなんの疑問も抱かないようにさせることもできたけど、それはどうしても嫌だったから、いつも一時間と少しだけ、彼女をどこかで待たせている。

「……ふんだ」

さすがに身勝手が過ぎたようで、ちょっと怒っている。それはそうだろう。なんせ、まだ太陽も登っていない真夜中に叩き起こされたのに、いざ出かけてみれば小一時間放っておかれるんだから。起こす前に予定を済ませておけと言われるのも仕方ない。これに関しては、単純に僕のスケジュールがダメダメだというだけの話なので、本当に申し訳ないと心から思う。なにか理由があれば格好良かったのに。

「ね、いつもなにしてるの?」

「なにって?」

態度に無理があるのは分かっているけれど、とぼけてみる。

「いつも私のことほっといてなにしてるの?」

「世界の平和を守っているのさ」

「なにそれ」

嘘はついてない。まさしく、僕は世界の平和を守っている。とはいえ、彼女は事情をなにも知らないので、当たり前だけど信じてくれない。眉間に皺をよせてこちらをみつめてくる彼女に、どういうわけだか痛くもない腹を探られているような気がして、少し目をそらす。

流した視線の先では、くまが現地の人々と記念写真を撮っていた。僕はそちらに軽く手をかざして、その人たちがくまを見ても不思議がらないように奇跡を起こす。くまのまわりから人だかりが消えたのを確認していると、僕の手が、彼女に掴まれた。

「なんか、不思議なことばっかり」

「エキサイティングな人生だね、素晴らしいや」

「サンタさんて、なんなんだろう」

僕の手を掴んだまま彼女がそう呟いた瞬間、僕の頭の奥のほう、ちょうど耳の後ろのあたりがじんじん鳴りだした。気配がする。幻獣がこの近くにいる。

「ごめん、行かないと」

彼女の手を乱暴に振り払ってしまわないように細心の注意をはらい、頭の中で周辺の状況をサーチする。幸いなことに、観光客で賑わうビーチからはまだ距離がある。しかし、どこかに必ずいるはずだ。僕は、不機嫌そうな顔で見つめてくる彼女からなるべく視線を外さずに、幻獣が現れそうな場所を探した。すると、海の向こうに島があることに気づく。

ここだ。

幻獣はあの島に潜んでいる。見たところ、あの島も観光スポットとして開発されているらしい。ということは、人間もたくさんいるはずだ。いざとなったら目撃者の記憶は消せるものの、怪我人が出たら面倒臭い。

「……私も連れてってよ」

島への移動は転送クロスを使うとして、まずは市街地に幻獣が現れたときに取るべき行動を一覧で頭の中に浮かべる。そんなことを考えているうちに、危うく彼女の言葉を聞き逃しそうになってしまった。

「あ、うん……え⁉︎」

「私も行きたい。いつもなにしてるのか教えてほしい」

「それは……」

こうしている間にも、幻獣が暴れ出すかもしれない。彼女に全部話しておかなかった僕が悪いのか。それとも、彼女を洗脳して言うことを聞かせてしまわない僕が悪いのか。

だって、仕方ないと思う。無理矢理に協力を強いている相手に、さらに洗脳をかけるなんて、僕は絶対にやりたくなかったし、彼女が、急にこんなにも強情に疑問をぶつけてくるなんて思ってもみなかった。

「仕方ないか……」

僕は、こんなときにもっと冴えた方法が思いつかない自分の未熟さをちょっとだけ恥じて、転送クロスを取り出す。幻獣がいる島を視界にいれて位置を確認し、彼女とともにそれを被った。

「事情はあとで全部話すから、とりあえずなにも言わずに、危険なこともしないでね」

いきなり転送クロスを被せられて驚いている彼女を怯えさせないように、努めて明るい口調で言う。目の前にある彼女の丸くて大きな瞳は、冷静さを取り戻そうと必死だ。

彼女の荒い息が少しおさまってきたのを確認して、僕は転送クロスを発動させる。ついでに、クロスの外でこの光景をみていた観光客が不審に思わないように、ちょっとだけ記憶をいじらせてもらった。

転送によって身体が浮き上がる直前、僕は彼女に声をかける。

「絶対に危ない目には遭わせないから、安心して」

すると、彼女は困ったような笑顔で頷いた。

「ワガママ言わなきゃ良かった……」


———


「おーい」

応答なし。

姿も確認できず。

ここは、右も左も分からない謎の土地。

「ふたりとも、どこ行ったおまかー⁉︎」



つづく

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