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佐光和弥は午後の六時過ぎ、興梠の所長室に足を運んだ。和弥は呑気な感じを漂わせる人物だった。彼特有の楽天的資質が周りの人間にそう思わせるのだろう。和弥は風采の素晴らしい男でもあった。その上ふざけたことをよく言い、他人を笑わせるのが好きだった。しかし、精悍で覇気に満ちた色を表情に浮かべることも稀にある。そこにははっきりと知性を読み取ることができるし、また気丈さと頑固さをにじみ出す結果にもつながった。彼は自分で決めたことは最後までやり通すタイプの人間だ。そういう時の和弥には他人の声が聞こえなくなる時がある。
いま和弥は半袖の黒いTシャツに、黒いスラックスをはいていた。
「面白い依頼者が現れたぞ」
興がる色を全面に押し出し、興梠が口を開く。和弥は所長のデスクの前で立ち止まったまま微動だにしなかった。
「俺にとっても面白ければいいんですけどね」
和弥は皮肉混じりに言う。
「なーに、それなら大丈夫だ。今回の仕事は栗島明という与党の幹事長の素行調査なんだ」
和弥は驚いた。それがはっきりと顔に表れる。
「……だからここに呼び出したんですね」本来、依頼者から受けた内容について、調査員に説明するのは事務員の仕事だった。「大物政治家の素行調査だから」
「まあ、そんなところだ」
「依頼者は具体的に何を知りたいんです?」
興梠は菅野悟が語った話を簡潔に説明した。
和弥は明らかに仰天したような顔になる。それは単なる驚きというものを遙かに超えているように感じられた。
「どうした?」
その雰囲気を察したため、興梠は少し身を乗り出す。
「……いえ、何でもありません」
表情だけはもういつもの和弥に戻ったようだ。しかし、興梠はそのとき不安を覚え出す。それでもどうにかポーカーフェイスを保った。
「……そうか」
確か谷口も言っていたな、最近和弥の様子がおかしい、と。どうも何かわけがありそうだ。興梠はそう判断したが、今はそれについて触れなかった。
「とにかくやってくれるか?」
「ええ、構いませんよ」
「じゃあ、栗島幹事長の調査はお前に任せる。梶山と組んでやってもらおうと思うんだが」
「梶山には楠田直也という人物について調べさせてくれませんか?」
興梠は怪訝そうな顔になったが、しばらくするとうなずく。
「わかった。楠田直也が本当にインサイダー取引に関与していたのか、気になるんだな?」
「いちおうこっちで調べたほうがいいと思うんです」
和弥は朗らかに答える。それは何かを隠すべく取った柔和な態度のようにしか見えなかった。
和弥は所長室を出ると、真っ直ぐ谷口に会いに行く。彼女はオフィスにある自分のデスクについて、書類仕事をしていた。部屋には彼女のほかに男の事務員が一人いるだけだった。
「谷口」
和弥は谷口のそばで声をかける。
「何です?」
彼女は顔を上げて彼を見た。
「依頼者の連絡先を教えてくれないか。それと職業についても」
谷口は目を見開く。それは驚きを表す表情だった。
「……栗島幹事長の素行調査を依頼した人ですよね」
「ああ」
「……通常、調査員が依頼者に連絡することはないと思うんですが……」
「ああ、わかってるよ。でも今回の仕事はいつもと毛色が違う」噛んで含めるように言う。「それでこの菅野と言う依頼者に会ってみたいんだ」
谷口は直感で何か変だ、と気づいた。
「何を聞きたいんです?」
「……調査する上で必要なことなんだ。俺はこの依頼者がまだすべての情報をこっちに渡してくれたとは思っていない」
「依頼者が何か隠してるって言うんですか?」
彼女はもう声が上ずる。
「ああ、その可能性がある。だからじかに会って、本人と話がしたいんだ」
数瞬、谷口は考えた。和弥の様子がおかしいので、依頼者の連絡先を教えていいものか、と。しかし、和弥は優秀な調査員である。今回の依頼は異例と言えるものなので、断るわけにもいかないと判断した。
和弥は電話番号をメモ帳に記すと、礼を言う。
「その人は印刷会社で働いてるそうです」
「どこの印刷会社?」
「渋谷にある田ノ上印刷会社です」
「依頼者はどうして、その情報を知ったの? インサイダー取引についてだけど」
「それは言えないと言ってました」
もうこれ以上、聞くことがなかったので、和弥は「じゃあ、助かったよ」と言うと、その場を後にした。