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血まみれの十字架  作者: カズユキ
4/11

 八月最後の日、空は晴れ渡っていた。水色一色に染まった眺めは見ていて気持ちが良かったが、菅野悟は浮かない顔をしている。彼はいま東京都杉並区の高井戸西にある興梠探偵事務所にいた。そこは雑居ビルの四階である。彼は受付の女性に名前を告げた。

「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

 その女性は二十代半ばのようにしか見えないし、平凡な顔立ちをしている。服装はグレーのパンツスーツで、首には天然石のペンダント・ネックレスをつけている。セミロングの髪を茶色に染めていて、溌剌とした雰囲気を浮かべていた。

 菅野は相談員のいる部屋に案内された。そこは白い壁が際立つ没個性的な場所で、いかにも事務所といった風情が漂っている。彼はこれまた十人並みの器量の持ち主である女性と向かい合う形で、黒いウレタン素材のソファに腰をおろした。

「わたしは谷口と言います」相談員は自己紹介する。彼女もパンツスーツを着用しているが、色は黒だった。「お電話で聞いた話では、素行調査だとか」

「ええ、そうです」

「あ、飲み物は?」

「いえ、結構です」

「では、依頼の内容をお聞きしたいんですが」

「……栗島明という男について、調べてほしいんです」

 菅野はかなり思い詰めた顔をしている。その表情からこれが深刻な話であると簡単に推測できた。

「その人の職業は?」

 谷口はメモ用紙に栗島明という名を書き取ったあと聞いた。

「……その男は与党の幹事長なんです」

 相談員の態度が変わった。彼女の表情は微妙な形をもっていくつかの色を見せた。ショック、戸惑い、そして懸念。谷口はまさか大物政治家の調査を依頼してくる人物がこの探偵事務所にやって来るなんて想像したことがなかった。

「……その人の何を知りたいんです?」

 どうにか平静を装って谷口は聞いた。

「栗島という人物がどういう人間なのか……そして公序良俗を重んじる立派な政治家なのか……まあ、そういうことが知りたいんです」

 彼女は眉間に皺を寄せる。

「栗島という人に会われたことは?」

「いえ、一度もありません」

 菅野は即答する。

「どうしてそんなことを知りたいんです?」

「八月二日に起きた事件を知ってますか?」

「どんな事件です?」

「荒川区の教会で起きた惨劇ですよ」

 その瞬間、谷口は思い出す。よくニュースでやっていたからだ。白昼堂々、何者かが牧師や子供までを銃で撃ち殺した。かなりショッキングな事件として世間を騒がせたのだ。もう一ヵ月近くになろうとしているのに警察は何の手がかりもつかんでいないらしい。

「ええ、その事件については知っています。でもそれと今回の調査とどんな関係が?」

 谷口は少し不安になり始める。だがそれを顔には出さなかった。

「その聖キリスト教会で殺された人の中に楠田直也という人物がいました。彼はグレイス証券のディーリング部に勤務していたんですが……」菅野は意図的に口をつぐむ。次の言葉は間を置いてから言ったほうが衝撃的に聞こえるだろうと踏んでの計算だった。「彼はインサイダー取引に関与していた疑いがある」谷口は目を丸くした。「まあ、簡単に言えば、不正な株価操作を行っていたわけなんです。利益の一部は政界にも流れていた……もちろんあなたの推測どおり、与党の幹事長である栗島明にも、その金は流れていた」

「……それで結局なにが言いたいんです?」

 彼女はもうはっきりと懸念の色を浮かべ始める。

「東京地検に匿名で通報があったんです。グレイス証券に勤める何人かの人間がインサイダー取引に関わっている、と……そしてその情報を東京地検に流したのが楠田直也ではなかったかという疑惑があるんです」

「まさか栗島という政治家が口封じのためにその楠田という人を殺した、と?」

 谷口は顔が真っ青になる。

「ええ、まあそんなところです。もちろんこれはあくまでも噂に過ぎませんが……」

 菅野はどこか抑えるような口調で言う。

「……あなたはどうしてそんなことを知ってるんです?」

 彼女は率直な疑問を口にした。

「それは言えないんです」

 菅野は答えようとしない。

「仕事は何をされてるんです?」

「印刷会社に勤務しています」

「警察に行ったほうがいいんじゃないですか」

「警察の上部には栗島と仲のいい連中がいる。だから警察は当てにできないんだ」

「……この依頼については上と相談してからでないと……わたしの一存では決められません」

「そうですか……いつ返事をいただけます?」

「すぐ所長に聞いてきますので、少しお待ち下さい」

「わかりました」


谷口は所長室のドアをノックしてから中へと入る。そこはこぢんまりとした機能的な色合いの強い部屋だった。役所が適当に備え付けたようにしか見えないソファと書類整理用のキャビネット、それに合成樹脂で加工された木目調のデスクが見える。デスクには興梠豊がついている。

 彼は中肉中背の五十歳の陽気な男だった。顔立ちはハンサムでもないが、決して醜いわけでもない。鷲鼻に性格の強さが表れているし、目が機敏に動くところが印象的だった。カジュアルな服装を好むため、今日もチャコールのテーラード・ジャケットに黒いTシャツ、下はダークブルーのジーンズのいう格好だった。

「何かあったか?」

 彼は部下の表情からすぐにそれを察した。興梠は常々、優れた経営者とは部下の心理的状態にも気を配るもの、と心掛けている。だから谷口の雰囲気から尋常でないものを感じたのだ。

「どうも厄介な依頼者がやって来たようなんです」

 彼女は無駄なく菅野悟が言ったことを説明した。それを聞いているあいだ興梠は表情ひとつ変えない。聞き終わったあとも、感情を一切表さなかった。

「興味深い依頼だな」

 ようやく興梠が口を開く。

「引き受けろと?」

「断らなきゃいけない理由でもあるのか?」

 谷口は表情を曇らせた。

「政治家の素行調査なんてしないほうがいいんじゃないでしょうか」

 興梠は含み笑いを見せる。

「心配するな。その菅野という依頼者の話が本当だったとしても、こちらが何か不利益を被ることがあるのか?」

「怖くないんですか、所長は? 栗島幹事長は口封じのために人を殺させたかもしれないんですよ。そんな人物を調査しているのがわれわれだと向こうが知ったら……」

 彼女は思わず言葉が詰まる。

「俺は元フランスの外人部隊にいた男だぞ」それは諭すような口調だった。「何人かの傭兵仲間とは今でもつき合いがあるし、元SASの隊員が経営しているセキュリティ会社にもつてがある。その会社は日本にも支社があるんだ。優秀なスナイパーだって知ってる」

「SASって何です?」

 谷口は物怪顔になる。

「イギリスの特殊部隊だよ」彼女はようやく納得した。「それに警視庁にも二人ほど知り合いがいる。栗島幹事長が本当に教会で起きた殺人に関与しているのだとしたら、放っておくわけにもいかんだろ」

「その警視庁の知り合いに言っても、栗島幹事長を調べさせることはできないんですか?」

「まず無理だろうな。栗島幹事長が圧力をかけたらそれで終わりだ」

「……だからわれわれで調べる、と?」

「まあ、そういうことだ。和弥にやらせよう」

 佐光和弥は興梠探偵事務所で一番優秀な調査員だった。しかし、それと同時によく問題を起こす人物でもある。

「佐光さん、最近元気がないみたいですよ。何かあったんだと思うんですけど……」

 谷口は心配顔になる。

「なーに、大したことじゃないさ。あいつなら栗島幹事長について、ちゃんと調べてくれるよ」

 興梠は自信満々に請け合った。


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