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血まみれの十字架  作者: カズユキ
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東京都荒川区荒川にある聖キリスト教会は一九二四年に設立された。そこはプロテスタントであり、長老派教会の伝統を受け継ぐ教会でもある。

 主任牧師である向島剛は二十年前、この教会にやって来た。当時彼は二十歳だった一人息子を殺害され、悲嘆に暮れていた。妻とは息子の死が原因で離婚の憂き目を見る羽目になる。彼女は息子の死を向島のせいにした。向島は仕事一筋の男だった。息子の面倒もほとんど妻に任せっきりだったのだ。彼は大手銀行の専務執行役員だった。自分の仕事が好きだったし、それに誇りを持っていたのだ。

 年収も二千五百万はあったし、家族には何不自由のない生活をさせていた。息子の政志は父親が嫌いではなかった。子供の頃はたまに遊園地や動物園に連れて行ってくれたし、夏休みにはプールや海に出かけた記憶もある。政志は思春期になると、父親みたいにどこかの会社の役員になれるような男になりたいと思い始めていた。

 しかし、政志は父親ほど頭が良かったわけではない。高校も偏差値の低いところにしか入れなかったし、そのことで引け目を感じていた。父親が息子のできにがっかりしていると思いこんでいたのだ。結局三流大学在学中に、酔った勢いで見知らぬ男と喧嘩をして、ナイフで刺され、この世を去った。犯人は逮捕されたが、向島夫婦の心が癒されることはなかった。

「牧師さん、どうしてあの子が死ななきゃならなかったんです」

 安藤康恵は落涙しながら、口を開く。手にはハンカチを持っていて、時おり涙をそれで拭いている。彼女は小太りでショートカットの女性だった。年は四十代前半で、身長は百六十センチ前後。揺れ動く感情の波に、なかなか平常心を取り戻せないでいる。彼女の十二歳になる息子は酔っぱらい運転の犠牲になったのだ。車を運転していた中年の男はじきに裁判を受ける。

「安藤さん、あなたの気持ちは痛いほどわかります。わたしも息子を亡くしましたから」

 向島は悲痛な表情で言う。そこには相手を気遣う色が浮かんでいた。

「ええ、そうでしたね」彼女はどうにか泣き止もうとする。「あの子が死んで一ヵ月以上が経つのに……それでもまだ……」

 二人はいまシンプルな祭壇の近くにいる。周りにも六人ほど人がいて、厳粛な空気に黙り込んでいる。その内二人は子供だった。どちらも女の子で、いつもははしゃぎ回るほど活発な性格なのだが、教会ではさすがにそんなことはできなかった。特に今の状況では。

 時間は昼の一時過ぎで、祭壇後方のステンドグラスからは陽光が差し込んでいる。その光が彼らを照らしていた。祭壇の脇には大小の像がいくつか並んでいる。小さい像は蝋燭を持つ天使の形をしている。三杉雪名はそれが好きだった。何故そう思うのか自分でもわからないのだが。

 彼女はいま八歳で、今日は祖父母に連れられて、ここへやって来たのだ。毎週日曜日は礼拝のため、ここに来ることがよくあった。雪名は本当に愛らしい感じの女の子だ。目がつぶらで、飽くことのない好奇心でいろんなものにはっきりと興味を示す。ストレートなロングヘアはさらさらで、着ている服もいつもかわいらしいものばかりだった。それを見ただけで、誰もがこの子は大切に育てられているんだな、と思うのだ。

最初にその人物を目にしたのが雪名だった。今まで一度も見たことのない人だったので、彼女は怪訝な顔になる。その人物は麦わら帽子をかぶって、サングラスをかけていた。髪は茶色だった。

 その人物はゆっくりと祭壇のほうへと近づいて行く。それと同時に周りに目を向けてもいた。天井にはマリアの昇天を描いた鮮やかな絵を見ることができる。柱の漆喰装飾や、パイプオルガンと木目が美しい二階席にもこの教会の素晴らしさがはっきりと表れている。

その人物はちゃんと確認した。いまここにいるのが自分と八人の人間だけである、ということを。だから手に持っているバッグからグロック17を取り出すと、まず牧師に狙いを定めた。

 雪名は一瞬驚いたが、それが本物の銃であるとは思わなかった。テレビで銃を見たことはあったが、まさかいま目の前にいる人物が人を殺そうとしているなんて想像できなかった。

 雪名は銃がはねる様を目撃した。不思議と小さな音しかしなかった。彼女は銃口から伸びている物が何なのか理解できなかったからだ。大人ならサイレンサーであるとわかる。だから雪名は牧師が倒れたことに最初気づかなかった。それでも一人の女性が甲高い悲鳴を発したため振り返る。

 うつむけに倒れた向島の胸からは血が流れている。彼は礼拝の時いつも着る黒いガウンを着ていた。雪名はまだ子供だったため、黒いガウンに流れる血を判別できなかった。はっきりとそれが人間の血液であると認識できなかったのだ。そのせいで彼女は泣き出さなかった。ただどうして牧師が倒れたんだろう、そしてなぜその体が動かないんだろうと不思議に思っていた。

あと七人いる人間たちの中ですぐに逃げだそうとしたのが、楠田直也だった。彼は三十二歳のサラリーマンで、すぐ横に娘の里佳と妻の紀子がいる。直也は二人の手をつかんで必死にその場から離れようとした。

 が、殺人者はそれを許さなかった。冷酷なその人物は楠田直也の背中に弾丸を二発撃ち込んだ。それと同時に妻の紀子がまた悲鳴をあげた。娘の里佳はもう泣き出している。犯人はそんなことにはお構いなく、紀子と里佳にも発砲した。里佳が倒れた時、彼女はもう絶命していたが、その顔は原形を留めていなかった。紀子のほうは胸を撃たれただけですんだが、倒れたあともまだ息はしていた。が、彼女は動ける状態ではなかった。そして一分も経たない内に息を引き取った。

 安藤康恵は恐怖で体が硬直して、顔は真っ青だった。いま起きたことが理解できないし、この現実を心が受け入れようとしない。悪夢のようだ。こんな事態に直面するなんて、彼女の感覚ではあり得ない事象としか思えなかった。

 安藤は気づいたらサイレンサーの先を見つめていた。どうやってそれが自分に向けられたのか記憶はないが、彼女は死を感じる一瞬前に、その暗くて小さな筒状の中を覗き込んだような気がした。その中には人を殺す力のある鉛の弾が入っている。それを把握していたから、彼女は恐怖に震えていた。

 安藤は自分が死んだことに気づかなかった。二発被弾した時、最初のは致命傷にならなかったものの、最後の弾は確実にその心臓を捉えていた。ほとんど痛みを感じなかったし、苦しむこともなかった。

「この子だけはやめてくれ!」

 三杉有三が雪名をかばうようにその人物の前に立ちはだかる。彼は楠田里佳が撃たれたところを目にしていた。この殺人者が平気で子供にも発砲するのを理解したため、そんな行動を取ったのだ。

 雪名はもう泣いている。状況の把握が彼女の感情と涙腺を刺激したのだ。残酷な出来事の前では幼い心はあまりにもはかな過ぎた。人の死をこれほど間近で感じたのは生まれて初めてだったし、それが一層雪名を恐怖の底へと突き落としたのだ。

殺人者の辞書に容赦や情けという言葉はない。その人物は五歩後退すると、引き金を引いた。後退したのは返り血を浴びたくなかったからだ。有三はいくぶん吹き飛ぶような形で背中から床に倒れた。妻である香奈恵は悲鳴をあげると同時に、孫娘のところへ駆け寄った。次いで雪名をそのやせ細った体で包み込むように抱き締める。

「お願いです。この子だけは!」

 香奈子は震えながらも、必死に孫娘を守ろうとした。背後にいる人物にこの願いだけは聞き入れて貰いたかったのだ。

 しかし、現実は無情にも香奈子の体に銃弾を食い込ませた。背中から入った弾丸が突き抜けて雪名の肩にくい込む。雪名は一層泣き声をひどくした。香奈子の体が雪名にのしかかってくる。

 殺人者は香奈子の肩を片手でつかんでから雪名からどけた。その両手は革手袋で覆われている。

 雪名は被弾したショックから目をつむって大泣きしていた。殺人者はその泣き声が癪に障った。子供の泣き声が嫌いなのだ。

 だから素早く三歩ほど後退すると、雪名の体に発砲する。胸からは血の霧が舞ったように見えた。射入口からは血が溢れだし、それはまさしく小さな命の終わりを告げるかのような光景を作り出す。もう泣き声はやんでいた。

あとは最後の仕上げとして、十字架を使う予定だった。これでこの事件の核を成す要素が完成する。すべてを計画どおりに運んでこそ、この凶行に及んだ甲斐があるというものだった。

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