プロローグ
プロローグ
まだ八歳にも満たない女の子は公園の中を走っていた。近所に住む桜井孝典という人が飼っている柴犬のコウタを追いかけているところだった。女の子はこの公園でコウタを見つけたら、必ず遊び相手になっている。彼女はコウタが大好きだし、犬のほうも女の子に懐いていた。
辺りには何十人もの大人や子供がいた。桜井孝典はベンチに座って、愛犬と女の子が一緒に遊んでいる様子を楽しそうに眺めている。彼は現在七十歳だが、いつも筋トレを欠かさないでいるため、逞しそうに見える人物だ。桜井は定年退職をする前まで、銀行で重役の地位にいた。今は妻と二人で、この荒川区の荒川で暮らしている。二人いる息子たちはどちらも結婚して、それなりに幸せな生活を送っていた。
コウタの額を撫でていた女の子が、それをやめると、急に振り返って、父親のほうを向く。
「パパァ!」
つぶらな瞳が笑顔の中で輝いている。そんな娘を見ているだけで、彼は幸せな気持ちをいつも感じていた。
「どうした?」
「コウタって本当にかわいいでしょう」
「ああ、そうだな」
「あたしもこんなかわいいワンちゃんが欲しい」
「そうか……今すぐには無理だけど、いつか買ってやるよ。お前がいい子にしてたらな」
「ほんとぉ?」
「ああ」
「わーい」
「じゃあ、そろそろ帰るか」
彼は娘を促そうとする。
そんな彼らに西日がまともに当たっている。今は六時半だが、八月の初旬のため、まだ空は明るかった。
彼は娘を見るたび、明るい気持ちになれる。この子が宝物のように思えて仕方がなかった。彼女はいつでも楽しそうに笑うし、その屈託のなさに愛しさがこみ上げてくる。娘は感受性が豊かで、奔放な想像力の持ち主だった。何かを見たり聞いたりすれば、おかしみを込めた言葉に乗せて、その感想を述べる。目で捉えたものを子供の愛らしい感覚をもって、自分の世界に受け入れるのだ。
いま彼女はぬいぐるみを集めている。部屋にはたくさんの動物の形をしたそれらが、動物園のごとく、その存在感を示している。しかし、そこは動物園のようなものではなかった。彼女にとって、そこは自分自身の国なのだ。なんでも先週の土曜日にはピンクのテディーベアが皇太后に選ばれたらしい。だからその熊の形をしたピンクの物体には最大限の敬意を表さなければならない。
「パパ、この子はいま皇帝の奥さんなの。だからちゃんと挨拶しなきゃ駄目よ」
「そうか、じゃあ、ちゃんと挨拶するよ」
その直後、父親は右手の指を銃の形にして「バーン」と一声出した。
「パパ!」娘は慌てて父親を叱責する。「何てことするの。それは暗殺よ。そんなことしたら、火あぶりの刑になるんだから」彼女の目は真剣だった。「ほんとよ」
「今のは空砲だよ」彼はおかしそうな表情を見せる。「弾は入ってなかったんだ」
娘は安堵のため息を漏らした。
「パパ、あたしを驚かさないで。でね」すぐに話が変わる。「この子の旦那さんは誰だと思う? この国の皇帝よ」
彼女は十五体あるぬいぐるみたちに目をやった。
「それは簡単だな」
「ほんとぉ?」
顔が不思議そうになる。それと同時に、そんな簡単に当てられたらどうしようという懸念がその目をよぎった。
「ああ、皇帝はこのパパだ」
彼は自信満々に言い放つ。
娘は一瞬ぽかんとなった。しかし、すぐさま自分の父親がジョークの名手であることを思い出す。
「パパ、この国でそんな冗談は通用しないの」
早口で言う。
「そうなのか」
わざと落胆した顔になる。
「やっぱりわからないのね」
「このスヌーピーじゃないのか」
真ん中辺りに置かれている犬のぬいぐるみを指さした。
「ううん、違うよぉ」彼女は得意げになる。「スヌーピーはナイトなの。皇太后をお守りする強い男なのよ」
「そうか、見るからにひ弱そうに見えるけどなぁ」
「見た目はひ弱そうでも、戦ったらどんな強者でも一分もしない内に倒しちゃうんだから。パパもスヌーピーを怒らせないほうがいいわよ……」そこで一息つくため口をつぐむ。「皇帝はね、このアヒルなの」
彼は思わず大笑いした。
「パパ、何がおかしいの?」
娘は数瞬、父親をじっと見つめたあと、ゆっくりと聞いた。
「いや、アヒルが皇帝だなんて……これは予測不可能だよ」
「それでね、このアヒルと熊ちゃんは一年後に離婚するの」
「なんとまあ」おどけた口調で言う。「そんなに早く別れるのか」
「うん、でもその一ヵ月後には、このカバちゃんと再婚するの」
「これはまた不細工な妻をもらうことになるんだなぁ」
どう見てもそのぬいぐるみをかわいいとは思えなかった。しかし、娘の見解は違うようだ。
「パパ、このカバちゃんは不細工なんかじゃないのよ。この国のミスコンで優勝しそうになったんだから」
「でも優勝できなかったんだろ?」
「うん、準優勝なの。優勝したのはライオンの子供なの。そのうえ審査員の一人に、あなたは優勝にふさわしくないって言われて腹を立てたの。そして思わずそのブルドッグの審査員を殴っちゃったのよ。でも三毛猫とマルチーズの審査員には殴りかかろうとしなかったの。ブルドッグに言われたのが癪に障ったみたいなのよ」
「う~ん、まさに喜劇だなぁ」
彼は柔和な笑顔で娘を見つめている。これほど愛らしくて、面白い子供もそうはいない、本気でそう感じていた。
【三沢銀行の行員、顧客の金を横領か】
彼はその文字に見入った。
その行員、矢島浩一は自殺したが、銀行の金を横領した疑いがあるという。
警察は他殺か自殺かまだ断定していないらしい。それでも自殺の線が強いという文字が紙面を飾っている。
まあ、時おり見かける話だな、と彼は思った。ついでほかに興味を引きそうなニュースがないかと目を動かした。