#02「彼女の非日常」-2
◆◇◆
――午後三時四十分。
円香の放った弾丸が、亮輔の胸に命中していた。
「ど、どうして……」
床に這う亮輔が、うずくまって言葉を絞り出す。
「急所は外してあるわ……」
円香は亮輔の右手の先を蹴り上げる。彼の拳銃が、教室の床を綺麗な円を描きながら端まで転がって行く。
「弾倉に二十発だと思った? 残念、最初から薬室に一発装填してあったのよ。お父さんの豪大さんには、ジャミングや暴発を防ぐ意味でも好ましくないと、いつも指摘された。でもね、この際なりふり構っていられないの」
冷徹に亮輔の頭部に銃口を向けた。
「うぅ……」
亮輔は痛みからか、声を漏らす。右胸の中心にぶち当てた。本来なら声も出ないはずだ――円香は少し驚く。
「動かない方がいいわ。もうすぐ、あなたたちのお仲間がここに来るでしょうね。その間の辛抱よ……それまでに、あたしが明日花を殺すから……」
「ま、待て……世界が……」
往生際の悪い亮輔に、円香は呆れた顔を向ける。
「世界の破滅? そんな戯言を信じてるの? 確かに、明日花さんが望めば世界に変革が行われる。それは世界の消滅なのか、人類の滅亡なのかは、誰にも分からない。でもね、死んだ場合には能力が誰かに引き継がれるだけなの。明日花さんは優しい人だわ。でも脆すぎて、不安定すぎる。これでは、世界の命運を任せるのは不安だ――と私たちの陣営が判断した。安心して、明日花さんは自分が死んだとは思わせないように、上手に殺してあげるから!」
円香が叫んだその時、すくっと亮輔が立ち上がった。
「なに!」
彼女は大きく飛び退いて、亮輔の拳銃を左手で拾い上げる。そして右手一本で、ワルサ―P99の空の弾倉を捨て、内太ももに隠していた予備の弾倉を装着した。
二丁拳銃で亮輔に狙いを付けた。亮輔のベレッタM93Rの残弾を確認する。両方が共通して9ミリパラベラム弾を使用しているので、弾丸には互換性がある。最悪、弾を詰め替えればよいのだ。
円香は後悔する。亮輔が這いつくばっている間に、武器と予備の弾倉を奪っておくべきだったと――。
亮輔の手には、大ぶりのナイフが握られていた。
「ふーん、防弾ジャケットを着込んでいたわけね。でも、ナイフ一本で二つの拳銃に勝てると思うの?」
首を傾けて、円香が尋ねる。
「至近距離だから、防弾仕様でも衝撃は防げないさ。多分、あばら骨の二三本にヒビが入っている。さすが円香の腕前だよ……。それと、ナイフだけでもあれば手強い相手には徒手空拳よりはましだ」
亮輔は喋るたび、呼吸するたびに痛みで顔を歪める。
「そうでしょ、拳銃の命中率では、あたしの方が成績は常に上だったもん。心配しないで、あたしが両肘と両膝の関節を確実に砕いてあげるわ。亮輔はしばらく寝たきりになるでしょうね。その時は、あたしが献身的に介護してあ・げ・る。下の世話もしてあげるわ、いやらしく、ねちっこくね」
本気だと亮輔は判断した。円香の目は笑っていない。
亮輔は観念し、目の上に掲げていたナイフの刃先を少し降ろす。ナイフの鍔に付いている赤いレバーから、右手の親指を外した。
――その時だった。
亮輔は、持っていたナイフに軽い衝撃を感じた。
手に持った武器が狙撃されたのだ。
音が聞こえる。
亮輔と円香の二人は、同時に教室の外に首を向ける。遠くに、円香の住まうマンションの美里タワーが確認出来た。太陽の光が反射する。スコープ付きの狙撃銃で撃たれたのだ。
「え?」
声を発したのは円香の方だった。呆然とした表情のまま、ゆっくりと教室の床に倒れ込む。亮輔には、全てが映画のスローモーションの場面に思えた。
「円香!」
亮輔は彼女に駆け寄る。自分の右手に握られていたナイフには刃先が無くなっていた。
円香を見る。
仰向けに横たわるセーラー服の胸の中心に、亮輔のナイフの刀身が付き立っていた。胸部から流れ出た大量の血液が、円香の背中の部分に血だまりを作る。
「す、スペツナズ・ナイフ……」
円香は言葉を発した後に、口から盛大に血を吐いた。
亮輔の持つナイフは、スペツナズ――旧・ソビエト連邦特殊任務部隊――の持つ、弾道ナイフであった。グリップ部に強力なスプリングが仕込まれており、安全装置のリングピンを解除後、赤いレバーを押し込むと刀身が射出されるのだ。
「円香! 喋るな! 今、救急車を……」
亮輔は携帯電話を取り出したが、依然圏外のままだった。
「クソッ!!」
叫んでから、彼は考える。
「待ってろ、一階には公衆電話が……」
彼女の耳元で囁いてから、立ち上がろうとした。
「まって……」
弱々しく言って、亮輔の右手の裾を左手で掴む彼女だった。声とは違い、強い力で引き止められる。
「邪魔するな! お前を助けるためだろ!」
「むだよ……。太い動脈を傷つけられたのがわかる。心臓がドクンドクンいうたび、あたしの胸から血が流れてく……」
傷口を押さえていた円香の右手が外されると、更に勢いよく流れ出す。
「だから、喋るな!」
悲鳴に近い、亮輔の甲高い叫び声だった。
「さむいな……。もうすぐ、あたしの生まれた夏が来るというのに……」
亮輔は円香の顔を見る。血の気が引いて青くなっていた。唇も紫色に変色して、歯の根が合わないぐらいにガタガタと震えていた。
「ああ……ああ……」
亮輔は取り乱し、円香の体に覆い被さる。少しでも暖めようと考えたが、痛みで円香の顔が歪むのを見て、体を離す。
亮輔のグレーのブレザーに大量の血液が付着していた。
「あたし……死ぬんだ……悔しいな……でも……」
円香は無理して首をあげ、亮輔の方に顔を向ける。笑顔だった。
「大好きな人に見守られて、死ぬのは……」
首がカクンと落ち、反応が無くなった。
「円香!?」
円香の顔の上に亮輔の顔があった。――「キ・ス・シ・テ」――円香は、そう言ったはずだった。そう願っただけだった。
顔面に大量の水が落ちるのを感じていた。
もう……目も見えない。
亮輔、泣いているんだ――本当は、泣き虫のクセに……。
円香には中学からの亮輔との思い出が脳内に再生されていた。
人前では決して泣かなかった亮輔。明日花の前でも涙は見せなかった。でも、円香の目の前では本心を晒して大泣きした。大きな胸に顔を埋めて泣きじゃくっていた。
亮輔――あたしの好きな人。
好き、好き、好き! 大好き!
円香の叫びは誰にも聞こえない。
円香の願いも……。
唇に熱さを感じた。亮輔との最初で最後のキスだった。
「円香?」
亮輔は彼女の目を見る。瞳孔は開かれたままで、何の反応も無かった。
血だらけの震える右手で、目を閉じさせてやる。
「まどかあ!!」
亮輔は叫び、震えながら床に崩れ落ちた。目と鼻と口から、大量の液体が流れ出るのを感じていた。
もう一度彼女の名前を呼んだが、声になっていなかった。嗚咽だけが漏れる。冷たい教室の床を、右の拳で何度も何度も殴りつける。
◆◇◆
――午後五時。
美里モール、一階フードコート。
「亮輔……」
明日花はフードコートのキッチン内に彼の姿を認めて、そうつぶやいた。亮輔は美里モール内の全ショップ揃いのユニフォーム姿であった。明るいオレンジ色のポロシャツに白いパンツスタイルで、シャツと同じ色のキャップを被っていた。シャツとキャップには美里モールの青いロゴが入っている。
毎時を知らせるモールのテーマソングが流れていた。緩く、女性が歌っている。一時間前にも曲はかかっていた。それに気づかないほど取り乱していたのが、先ほどまでの明日花だった。
「お兄ちゃーん! こっち、こっち!」
前の席の彩里が兄に気付き、手を左右に振る。そして手招きをして呼ぶ。
「おお、お前らか……」
バイト先のチーフから長々と説教されていた亮輔が、やっと解放されて職場へと出てきたのだ。
「アレレ? 円香ちゃんは?」
周囲を見渡していた彩里が、首を傾けて兄に聞く。二人が一緒だと思ったのだ。
「あー……」
そう言って、亮輔は黙り込む。手に持った黄色いテーブル拭きで、明日花たちの綺麗な円卓を何度も何度も拭いていた。
様子がおかしいことに、二人の少女が気が付く。
「どうしたの? 亮輔」
自動人形の様に同じ動作を繰り返す彼の右手を掴み、止めさせる明日花だった。
「あ、ああ、明日花か……どうしたんだ? こんな場所で……」
こんな場所? 彼の虚ろな目を見逃さない。
「ねえ、お兄ちゃん。円香ちゃんとケンカでもしたの?」
彩里に聞かれ、両肩が上がる亮輔だった。明日花はそれを見て悲しい気持ちになる。
二人の間に何かあったのだ――確信した。
関係の決裂。
「円香が……引っ越しをした。美里市から出ていったんだ」
亮輔からそれを聞き、彼の不自然な行動の理由を知った明日花だった。
「急な話だね。わたし、円香ちゃんから何にも聞いてない!」
一人納得いかないという顔の彩里だった。横を向き口を尖らせる。
「どうしてなの、お兄ちゃん! 明日花さんやわたしに、さよならも言ってくれないの? 円香ちゃんは、そんな人じゃなかったよね!」
「彩里ちゃん……」
兄に食って掛かる妹の姿を見て、テーブルの彩里の拳の上に手を優しく添えた。
「て、手紙出すってさ……。あ、アイツ……円香のヤツは、ああ見えてシャイで泣き虫だから、みんなに涙を見られるのが恥ずかしいんだろうて……」
亮輔に笑顔が戻っていた。無理して作った笑顔だ――明日花は見抜く。その後、彼はキッチンの方に引っ込んでしまった。
「手紙……」
朝の十二星座占い第一位、双子座のラッキーアイテム。それさえ残さずに目の前から消えてしまった明日花、亮輔、彩里の親友……。
「コトリ」
明日花の目の前のテーブルに、チョコレートパフェが置かれていた。
「亮輔、頼んでないよ……」
明日花が顔を上げ言うが、彼は答えずにクルリと背中を向けた。
「円香からの奢りだ。ここのチョコパフェは美味しいんだぞ……」
背中越しの亮輔の言葉。彼の声が、涙声に聞こえた。
「私、負け……」
走り幅跳びの記録会は、円香の圧勝だった。負けたのに――そう言おうとした。
店内には急に人が増えてきた。その人混みに紛れて、消える亮輔。
「ね、明日花さん。食べちゃお」
カップル用の大きなパフェには、銀色の長いスプーンが二つ添えられていた。
円香はどんな思いを胸に抱いて、亮輔に「さよなら」を言ったのだろうか――明日花は考えながらチョコクリームを口に運ぶ。
少し、苦かった。
◆◇◆
――午後七時三十五分。
紙屋家、リビング。
「あ、お兄ちゃんお帰り……」
食卓に夕食を並べながら彩里が言った。今日も彼女お手製で、豪華なメニューが大量に並ぶ。今回は揚げ物が中心だった。トンカツにエビフライ、コロッケにメンチカツ。バランスも考えて、大盛りの生野菜サラダが中央に鎮座していた。
「ああ……」
生返事をした亮輔は、食卓でビールに手酌する父親の豪大の元に真っ直ぐに向かった。
正面に立ち、父親を鋭い眼光で睨みつける。
「何だ?」
父は短く言って、テレビの野球中継に視線を移す。
無言の亮輔はテーブル上のリモコンを取り、テレビを消した。
「何だ!」
ケンカを売っていると判断した豪大は、盛大な音を立て椅子を引いて立ち上がる。勢いありすぎて椅子が後ろに倒れた。派手な音と振動がリビングに響く。
「ど、どうしたの?」
キッチンで洗い物に取りかかっていた彩里が、割烹着の前で手を拭きながらリビングに戻る。手慣れた主婦の動作だった。二人の、ただならぬ雰囲気を感じ取っていたのだ。
「親父ぃ!」
叫ぶ亮輔の右ストレートが父親の左顔面にヒットする。豪大はよけずに、そのままの体勢で受け止めた。
「何だ亮輔、いきなり暴力か? 言いたいことがあるなら、口で言えよ!」
上唇の左端が切れていて血が滲む豪大だったが、舌で舐め取って歯を見せて笑った。湯上がりで浴衣姿の父親は、上半身裸になる。
赤銅色に日焼けした体は見事に鍛え上げられていて、筋肉が盛り上がっていた。
亮輔と同じく、体には多くの傷痕が見られる。
「お兄ちゃん! お父さん!」
彩里が、二人の間に割って入って止めようとする。
「彩里は邪魔するな! 男と男の真剣勝負だ!」
亮輔に言われて、体を引く。
「彩里……お前は、二階に上がっていなさい」
娘に向き、優しく語る父だった。口の端から、血がツツーと垂れてアゴまで伝っていた。しかし、拭おうともしない。
「でも」
「大丈夫だ。こんな若造には、まだまだ倒されんよ」
心配する彩里は、何度も振り返りながら二階への階段を登っていく。
彩里の部屋のドアの閉まる音を聞いて、再開のゴングが鳴る。
亮輔から切り出した。
「親父が命令したのか? 円香の抹殺を!」
亮輔は左の正拳を突き出したが、豪大に手首を掴まれていた。亮輔の左腕はピクリとも動かない。
「何の事だ? わしは非番だった。関与していない」
「何をとぼけてる! 非番だろうが何だろうが関係ない! 命令を下せる立場は、親父しかいないだろ! あの場面、狙撃手を配置していたのなら、円香の手足の何処でも狙えたはずだ!」
右手で父親のみぞおち部分を狙う。しかし巨木の幹に突きを入れた、固い感触だけが残る。
「頭も狙えたな……」
ボソリと言った父親の言葉に、更に逆上する。
「なら何故、俺に殺させた! 俺は自分の手で、親友を……好きだった女の子を、殺してしまった……」
右手で父親の腹部を何度も殴るが、亮輔は全く手応えを感じていなかった。豪大のふてぶてしい表情は変わらなかった。
「あの子は裏切り者だ。何度倒しても立ち上がり、明日花さんの殺害に向かうだろう。殺すしか、止める方法はなかった。そうだ、わしの判断だ。殴れよ――左の頬を殴られたんだ、今度は右の頬を殴れ。それで満足か?」
顔の右半面を向けてきた。ニヤリと不敵に笑っている。
殴れなかった――自分の右の拳を見つめる亮輔だった。
「親父……こんな事が、これからも続くのか……」
背の高い父親を見上げる息子の質問に、豪大は答えない。しかし、終始浮かべていた笑みが消えた。
「こんなのは序の口だ。地獄はまだまだ続く……」
そう言って浴衣を着込み、食卓に座る豪大だった。まるで何事も無かったように振る舞う。口元の傷は、既に血が固まっていた。
「メシだメシ、彩里を呼んでこい」
ボソリと言ってテレビを点灯する。画面では、バッターの打った白球が綺麗な放物線を描いて外野スタンドに飛び込んでいた。
それが贔屓チームの被弾なので、テーブルを叩いて大いに悔しがる豪大だった。
「わかった……」
亮輔は、亀裂骨折している右のあばら骨を左手で押さえる。右手で手すりを掴んでゆっくりと足を動かす。力を込めて父親を殴ったので痛みがぶり返す。階段を登るのに苦労をしていた。
「クソッ……クソッ……クソ野郎!」
亮輔は悲痛な声で叫ぶ。それは、惨めな自分への侮蔑の言葉でもあった。