#01「僕の日常」-4
――午後一時五分。
「あ、もうこんな時間! 教室に戻ろう!」
校舎の時計を見て、円香は言った。ごく自然に亮輔の腕を取って、ベンチから立ち上がらせる。
「オイオイ! 自分で立てるよ!」
そう言った亮輔だが、少しも嫌な表情はしない。彼らの日常の光景なのだ。
「彩里ちゃん。私が、お重を洗っておくから」
明日花はすっかり空っぽになった漆塗りの三段重を受け取り、臙脂と白の市松模様の風呂敷で包む。彼女が出来ることはこれぐらいしかない。
明日花の料理の腕前は――壊滅的だった。じゃあ、他の家事はどうかというと、そちらの技量も怪しいのだ。
「亮輔は、放課後は今日もバイト?」
「ああ、そうだよ」
亮輔と円香は自然に並ぶ。その後ろをゆっくりと歩く明日花。明日花の背後に寄り添う彩里。これは学校でのいつもの構図。
「お兄ちゃんは、剣道部を辞めたよね。それは、バイトをするためなの?」
「いや、それだけじゃ……」
彩里に聞かれて、亮輔は言葉尻を濁す。
この春に彼は、部活動を辞めた。同時に明日花も、剣道部のマネージャーの勧誘を辞退していた。明日花を亮輔専属のマネージャーにと、剣道部の部長直々に誘ってくれていたのだ。しかし、人気のある彼には取り巻きの女子が多すぎて尻込みしていた。そんな部のエースで、主将である亮輔が辞めた理由は……明日花は聞かされなかった。
紙屋家は、高校生の長男がバイトをするほどに、困窮している台所事情には見えない。父親の豪大は、ああ見えても高給取りだ――と彩里に聞かされていた。
亮輔は、毎月のお小遣いでは買えない品物の購入を考えているのか?
明日花は亮輔の部屋に飾られているモデルガンを思い浮かべる。確か、毎年のお年玉で買っていると聞かされた。高校生になってからは、このコレクションにナイフが加わえられている。
正直、明日花はナイフが恐かった。ガラスケースに収められてはいるが、おもちゃの拳銃に比べれば、ナイフは確実に人を傷つける。最悪の場合は、死に至らしめる。彼の趣味を止めさせようとも考えた。
きっと、円香への高額プレゼントを買うためのアルバイトなのだ。春休みのは前哨戦。本命は、円香の誕生日の八月だと考える。
そんなことに頭を巡らせていると、校舎の入口をくぐっていた。
一階で彩里と別れる。二階の二年生のフロアに向かう階段。
円香の左手が、亮輔の右手に自然な動作で伸びていた。明日花の存在に気が付いて、慌てて引っ込められる彼女の手。
「明日花、五時限目は体育だったよね」
「…………」
首を後ろに向けて尋ねる円香。しかし、明日花は答えなかった。
「男子は体育館でバスケ、女子は何だっけ?」
亮輔が聞く。
「水泳! あたしのスクール水着は胸がパンパンなのよ、新しい水着を買わないとね」
「そんなわけ無いだろ!」
自分の巨乳をアピールしている円香の左肩口に、亮輔が右手の甲で突っ込む。まだ五月の中旬だ。時々暑い日もあるが、水泳の授業にはまだまだ時期尚早である。
「走り幅跳びの記録を録るのよ。ああ、面倒くさいったら……」
円香は頭の後ろに両手をやった。チラリと背後の明日花の表情を確認する。冗談を言ってはみたが、親友は暗い表情のままだった。
「ねぇ、明日花に提案。今日の記録で悪い方が、美里モールのフードコートでおごるのはどう? 負けた方が、勝った方にチョコパフェをごちそうするの」
「え、でも、円香ちゃんの方が運動神経いいし……」
階段を昇りきり、二階の廊下に出る。
「あたしは幅跳び苦手なんだよね。確か、前回の記録も二人共同じぐらいだったと思うよ」
「分かった。その挑戦、受ける」
明日花はライバルからの提案を受け入れて、二年三組の教室に戻る。
「女子は更衣室に移動だから……」
円香は机の横の赤いスポーツバッグを掴んで、明日花の手を取って教室を出る。残された男子たちが教室内で体操服に着替え始めていた。
「よりにもよって、美里モールのフードコートかよ」
ワイシャツと白いTシャツを脱いだ亮輔は、ポツリと言葉を漏らす。シャツの下からは、贅肉のない鍛えられた肉体が現れる。細い外見にもよらず、筋肉質だった。所々に傷跡が見える。小さい頃からの怪我の跡だった。
彼の尊い戦歴の証だった。
美里モール――。
学校の最寄り「美里中央駅」の前に、この春出来たショッピングモールだ。元は有名企業の大きな工場があった。その撤退後に、進出してきた総合ショッピング施設だ。大規模な駐車場も有しているので、駅からの客も含めて休日に周囲は大混雑となる。
その一階フードコート。春休みに突入してから、亮輔はアルバイトを始めていた。見知った顔に働く現場を見られるのは小っ恥ずかしい。断固として断れば良かったと、亮輔は後悔する。
「おーい! 亮輔、行くぞ!」
同級生の佐冬 浩一が声を掛けてくる。朝に出会った彩里の同級生の兄だ。――「可愛い妹を持つと、兄は色々と苦労するな!」――浩一とは共通の悩みを抱えているので、仲良くしている。
「おお、待ってくれ!」
体操着の上着を急いで着て、白いタオルを首に巻く亮輔だった。