#01「僕の日常」-1
――朝。
ベッド脇のデジタル時計が「07:04」を示す。
高校二年生の紙屋 亮輔は目を開く。目覚ましのアラームが鳴り出す一分前だった。
白いTシャツとグレーのボクサーパンツ姿の亮輔は、元気よくベッドから降り、部屋のカーテンを開ける。窓一面に青空が広がっていた。
「今日も良い天気だ」
そして、鳴り始めた電子音を止め、制服に着替え始める。
部屋の壁にはモデルガンが飾られていた。ダーツの的も見える。亮輔の趣味なのだ。
「お兄ちゃーん! 明日花さんが来てるわよ。早く降りてきて!」
一つ下の妹、彩里が階段の下から叫んでいた。可愛らしく頭の両端でまとめた、彩里のツインテールの黒髪だけが、リビングの扉の外に出て揺れている。
着替えの終わった亮輔は姿見の前に立ち、髪型、顔色、服装の乱れと、上から順に身なりを確認する。ネクタイの少しの曲がりを直す。
鏡の前で笑顔を作る。ごく自然な表情だ。
「今日も合格! よし!」
自分に気合いを入れる意味で、両頬をパチンパチンと二回叩いて、ドアを開く。
「お、お邪魔しています」
階段を三段降りた所で、隣に住む同級生の石波良 明日花に声を掛けられた。
黒いセーラー服の彼女はカバンを前に下げて、板張りの廊下から亮輔を見上げていた。
「おはよう明日花! 今朝も、ご飯食べていくんだろ?」
「う、うん……。ごめんなさいね、いつもごちそうになってしまって」
明日花は亮輔の極上の笑顔を見て顔を赤くし、リビングの方に早足で移動する。
「いいのよ、明日花さん。ウチの男共は朝から大食いだから、三人分も四人分も――作るのは一緒」
キッチンに立つ、制服の上に白の割烹着を羽織った彩里が、明日花に向けて言う。
「彩里ちゃんは、毎朝偉いよね。あ、おはようございます」
頭を下げ挨拶をした明日花は、食卓の椅子を音を立てないように引き、スカートの裾を気にしながら座る。
「うむ……」
テーブルには先客がいた。既に朝食を食べている亮輔・彩里兄妹の父、紙屋 豪大が、味噌汁をすすりながら返事した。
「お父さんは、夜勤でしたの?」
「うむ……」
明日花に聞かれ、豪大は肯定後に黒い椀を置き、朝食の赤ウインナーを口に放り込む。そして、勢いよくご飯を掻き込んでいた。無精髭だらけの頬とあごが、元気よく動いている。
彼が仕事場の作業着を着ている時は、仕事終わり。パジャマの時は、出勤前なのだ。
水色の夏用ユニフォーム姿の父の隣に彩里が座り、その前に亮輔が座る。
食卓の前ではテレビが点灯しており、朝の情報番組が流されていた。それを漫然と見つめながら食事する亮輔だった。
亮輔たちの住む美里市に、新しく出店したパン屋の話題が放映中だ。画面では、朝早くからの行列客で賑わっている模様が流される。女性レポーターの興奮した声が響いていた。
「あ、彩里ちゃん。お味噌汁美味しい」
「やっぱそう、分かっちゃう? スーパーギンヤで売ってた、チョットお高いお味噌を奮発してみました。国産の大豆と大麦とを使った無添加食品だそうよ。男共は気付きもしないんだもん。張り合いがない!」
そんな主婦のような口調になる彩里だった。紙屋家に母親は居ない。十年前に死去した。そのため、十五歳の彩里が全ての家事を取り仕切っているのだ。
「おかわり!」
大きめの茶碗に山盛りにされたご飯を、あっという間に平らげた亮輔は、彩里に空の茶碗を突き出す。
「あ、私がよそってきます。これぐらいしか」
隣の明日花が茶碗を受け取り、キッチンの炊飯器に向かう。
「すまん……」
亮輔はそう言って頭を掻いていた。
「お父さんも、どうです?」
聞かれた豪大も頭を掻き、亮輔よりも更に一回り大きい茶碗を明日花に向けて出して来た。ドンブリほどの大きさがある。少し照れて頭に手をやる動作は、父子がそっくりだった。
「うふふ」
それを見て微笑む明日花である。
――午前七時五十九分。
「お兄ちゃん、明日花さん、そろそろ学校よ!」
キッチンの流しで洗い物を終えた彩里が、割烹着を脱ぎながらそう言った。
丁寧に畳んでいる白い前掛けには、所々に同色の布が当てられていた。彩里が、母親の形見を今も大切に使っている証拠だ。
しかし、テーブルの三人はテレビの星座占いに夢中になって動こうともしない。
「天秤座は十二位だった。父さんの獅子座は?」
「六位……」
ボソリと言う。
「あ、私一位です! ラッキーカラーは赤ですって!」
双子座の明日花は手を叩いて喜んでいた。
「ラッキーアイテムは手紙……。なんだ、明日花はラブレターでも貰うのか?」
亮輔に聞かれて彼女は頬を赤らめる。
「お兄ちゃん! 明日花さん、行くよ!」
学生カバンと大きめの青いスポーツバッグを持った彩里が、二人を急かす。
「父さん、いってきます!」
「お父さん、おやすみなさい」
亮輔と明日花は相次いで声を掛けて、玄関に向かう。
「おー……」
父の豪大は右手を挙げて、左手一本でタバコを咥えオイルライターで火を付けた。
「お父さん! 寝たばこは厳禁だからね!!」
玄関から廊下に身を乗り出し、彩里が叫ぶ。しかし、父の返事はなかった。
「全くお父さんたら、いくら注意しても、注意しても」
磨き上げられた茶色い革靴を彩里が履くのを、玄関の扉を開けて待つ亮輔と明日花だった。
夫に対して、いちいち小言を挟まなくてはならない奥さんみたい――明日花は思っていた。