#05「彼女の不完全な世界」-2
◆◇◆
――午後四時四十五分。
美里タワー二十四階。
四十階建てのこのマンションには、大型で高速のエレベーターが三基あった。その一つにアレクサンドルとナターリャの二人、そして亮輔が乗る。
他の警備員のメンバーは、先に部屋へと向かっていた。
来客者がこれから暮らす場所。それは、かつて綿奈部円香の住んでいた部屋だった。
親友の亮輔は、明日花と連れだって一度だけ訪れた事がある。
本当は両親など存在しない……4LDKの住居に一人住んでいた円香。
エレベーターが開く。部屋番号は二四○六号室。エレベーターホール前に立つ青い制服の警備員が敬礼し、三人を部屋へと案内する。
亮輔は足を踏み入れる。
――その瞬間。
確かに、室内に踏み込んだ記憶がある。夕方の時刻だが、外はまだ明るい。なのに部屋の中は真っ暗であった。何も見えない。
「話をしようか、彼氏くん」
背後から声がして、振り返る。
真っ黒な空間にアレクサンドルが青白く発光して浮かんでいた。
「何だ? ココは!」
亮輔は自分の体を見る。彼自身もぼんやりと発光をしている。ナターリャの姿は見えない。少年と二人きりになっていた。
「キミは、マリヤではない女と出会ったのだろう?」
「あぁ……」
言葉を返す。この場所の異様な状況は、その時と同じ感覚だ。これが目的で自分が呼ばれたのか――亮輔は理解する。
「彼女の存在は、言わば神に等しい」
少年は、見えない目を見開いたまま亮輔の正面に立つ。
「神?」
「そうだ、神だ」
「マリヤが神なのか?」
「マリヤは違う。その中に存在する意識体が、神と呼べる存在なんだ」
神? 意識体? 途端、胡散臭くなったと思う亮輔であった。彼女や彼が見せるのは、幻影なのか? 手品なのか?
「違うよ」
頭の中で声がした。昨日と同じ手法だ。同時に、亮輔の心の内が全部さらけ出される事になる――やりにくいなと感じていた。
「これはこれは、すまないね……」
謝られても――亮輔は心の中で言葉に出す。
「あはは、しばらくは我慢、我慢。彼女――高レベルの意識集合体――が、この世界のルールをキミに教えたはずだ。でも『神』は言いすぎたね、キミの国では意味が違ってくるもの……。造物主を神と呼ぶとするならば、彼女は――神の使徒――と、呼ぶべき存在だね。すなわち天使さ」
アレクサンドルの言葉に、亮輔は険しい顔をする。
「ごめんごめん。いきなり神や使徒なんて単語を並べられれば、誰だって警戒するよね。でも、嘘は言ってないんだ。で、ここからもキミの苦手とする。精神世界、いや宗教・哲学の話が中心となるんだ……心して、覚悟して聞いて欲しい」
アレクサンドルは虚ろな瞳を亮輔に向ける。その瞳は、ボゥと薄気味悪く青色に光っていた。
「この空間は落ち着くね。生まれつき目が見えなくて良かった。こんな醜い世界は、見なくて正解だと思うよ……」
「醜い……」
「あ、目が見えないのに醜美の区別が付くのか――って、今、そんな顔をしたでしょ」
亮輔は見事に言い当てられて、二の句が継げない。
「あはは、警戒しなくてイイよ。盲目のボクでも、物体や風景や感情をイメージとして脳で直接読み取れることが出来るんだ。ナターリャが居るだろ? あんな綺麗な顔してるのに……心根は腐って、腐臭を漂わせている」
この場所に居ない彼女の事を毒づく。
「流れ込んでくるイメージは、匂いに近い感覚なんだ。醜い心は腐敗臭、反対に美しい心は薔薇の香りが漂ってくる。美と醜、生と死、光と闇、善と悪、精神と肉体。相反する存在なんだけど、世界を形作る――構成しているんだ。これは、二元論だね。最古の宗教……拝火教。でも、誰もがその結論に容易に辿り着く。中華の思想だと、陰と陽かな。昼と夜、男と女。ボクとマリヤも相反する――が、対になっている存在なんだ。マリヤが光ならボクは闇。彼女が太陽ならボクは月に過ぎない。昼と夜の関係だね。マリヤが善とすることは、ボクには悪だと思えてしまう。マリヤが天使なら、ボクは悪魔……。ボクの中にも、一つの存在が眠っている……そいつの名前は『蠅の王』……マタイの福音書に登場するペリシテ人の神、バアル・ゼブル。キミたちには『ベルゼブブ』と言った方が分かりやすいかな」
「あ……」
言葉の洪水に圧倒される亮輔。
「バアル・ゼブルは、元々はペリシテ人の神様の名前だった。ペリシテ人とはカナンの地の近くに住まう海の民。彼らは、他の民族と少しだけ違っていた。勤勉であり勤労に勤しむ彼らは、ほんの少し芸術や文学を軽視したんだ。それだけで、周囲の民族から疎まれた。経済活動に関しては、優秀すぎたんだね。そして神『バアル』の熱心な信徒だった。豊穣な土地なのに、禁欲的な姿勢は他の民族からの嫉妬を買ってしまった。やがて難癖を付けられて、ペリシテ人は滅ぼされてしまう。一口に滅ぼされたと言ったけど、内容は悲惨を極めたよ。女は犯され、子供や老人は皆殺しにされてしまった。それでも神『バアル』の名を呼び続けていたんだ。信じていたんだ。残った男たちは奴隷とされ、死ぬまで過酷な労働が課せられた。それでも信仰をやめないので、神『バアル』を辱める侵略者たち……。ヤツらは崇高な王『バアル・ゼブル』を、蠅の王『バアル・ゼブブ』と侮辱したんだ。滅ぼされた神は、侵略者たちの宗教では悪魔と呼ばれる……」
怒りに満ちた表情でアレクサンドルは語る。しかし、静かな怒りだった。
「それが悪魔の中の悪魔、序列一位の蠅の王『ベルゼブブ』の語源なんだな?」
亮輔が辛うじて有している知識だ。
「そう……誰かが善なる存在なら、一方は悪そのものだ。でも、それは仕方の無い事なんだ。どちらか一つだけに満たされてしまった世界は、滅びたと同義。生と死、光と闇、精神と肉体。どれか一つだけの世界なんて、存在しないんだ。男ばかりの世界を想像してごらん。それは創造も破壊も無い、狂ってしまった不完全な世界。そもそも、むさ苦しくて美しくないだろ」
ニヤリと歯を見せて笑う。
「何が言いたいんだ? マリヤが善で、お前が悪だと言うのか?」
「だから、善悪の価値は絶対ではないと言ったでしょ。国家、民族、風習、宗教……それぞれの立ち位置が違えば、善悪の基準が変わる。マリヤ……の中の人物が、キミ、亮輔クンに語った内容は分からないが――彼女の言葉の全てを信じるのは危ない――と、ボクからは忠告をするよ」
「彼女が嘘をついているのか? そんな風には思えなかった……」
正直な感想を漏らす。
「ボクは、嘘つきだとは言って無いよ。でも事実を誤認して、間違った情報をだな――さも、世界の真理としてキミに語るのは、誠実な行動ではないだろう――と指摘してるんだ」
フン――と、鼻息を荒くして語るアレクサンドルだった。
更に続ける。
「彼女は様々な形を取って、人々の前に現れた。顕現した。それが、人々に混乱をもたらすんだね。とある宗教では天使と呼び、違う場所では魔女と呼ばれる。多神教の世界では、神や仏にも例えられるんだ。彼女の存在を表現するのに、正解なんて無い! 夜空の月を見上げてごらん。浮かび上がる紋様を、大きな蟹や、老婆、ライオンに例える場所もある。キミたちの国では餅をつくウサギなんだってね。面白いね。同じ物を目にしても、感じるのは人それぞれ、千差万別だ。そこには勝者も敗者も存在しない。善と悪にしても同じなんだ。マリヤとボクは双子だけど、最初から対立した存在なんだ。でも、力関係は拮抗している。だから、調和が保たれている。でも、人間は不完全なんだね。一見、不安定に見えるけど、押し合う力は同じで、バランスが美しく取れている。それなのに、それを不安に感じて、壊そうとする存在が出現する」
手振りをまじえて、熱弁を奮っていた。
「円香……綿奈部円香の属していた組織は、お前が操っているのではないのか!」
亮輔はこれまで考えたことを言葉にする。
「違うよ! 失敬だな。ボクは石波良明日花を始めとする特殊能力者を守るために、この組織を立ち上げたメンバーの一人なんだ」
ニヤリと不敵な笑みを亮輔に向ける。
「組織は俺の祖父が作り上げたと、聞かされていたんだが……」
真っ向から向き合う。
「だから、紙屋源太は創設メンバーの一人に過ぎないんだよ。世界中の大金持ちが出資したんだ。莫大なリターンが望めるからね。でも、ボクらは違っていた。ボクとマリヤは、たまたま居合わせただけなんだ。この目を治せる医者が居ると聞いて、この国のこの街を訪れた。その時に、この街、美里市に取り込まれてしまったんだ」
自分の目を指差すアレクサンドル・ドリナ。
「取り込まれた?」
「そう、その時は――明日花の祖母、石波良 翠子に能力が現れた時だった。今から百年前、ボクたち家族が美里市に住まう高名な医学博士の家を訪問した。その医者は、紙屋源太の屋敷に身を寄せていた。結局は、ボクの目を直すことなど出来なかったけどね」
少し哀しげに目を伏せていた。彼自身は、目が見える事に一縷の望みを託したのだろう。しかし、アレクサンドルの願いはかなわなかった。
「ボクの願いは違うところにある……」
「え?」
「だけど言えない……」
クルリと背を向けた。アレクサンドルは感情が顔に出やすい。それを嫌ったのだ。
「一つキミに忠告しておこう。ボクとキミの属する組織に敵対する存在……それを取りまとめているのは、ナターリヤ・イワノワ……副司令なんだ。口外は禁止だよ」
「チョット待て! お前は、裏切り者を――今もそばに置いているのか?」
亮輔は叫ぶ。
そして、舞台が転回した。
――グルリと足元の世界が180°入れ替わる。
「どうかしましたか?」
美里タワー、二四○六号室。玄関から廊下を進むナターリヤが振り向いて聞く。長い銀髪が一緒に揺れる。
「いや……何でもない」
女性のスーツの背中を掴み、ゆっくり歩いていた銀髪の少年の後頭部を、亮輔は睨みつける。
「促進剤だよ。安定している世界に耐えきれなくなった連中が、変化を欲しているんだ」
「?」
ナターリャは、少年の方に向く。
「ボクは見届けたい。彼女とキミがどんな選択をするのかとね……。見えない目で見届けるんだ。さあ、ナターリャ。ボクの部屋はどんな感じかい?」
冷えた微笑みを湛えた長身の女性が、ドアを開く。




