いけすの目
ジャンプが死んだのは、僕が七歳になる少し前のことだった。
ジャンプは僕が生まれる前から家にいた。茶色と白の混ざった毛並みで、走ると耳がばたばたと揺れた。名前のとおり、跳ねるのが好きな犬だった。
玄関のチャイムが鳴るたびに、届かない高さのドアノブに向かって何度も跳んだ。
僕が帰ってくると、いつもその跳ね方で迎えてくれた。
そのジャンプがある朝、玄関のたたきで動かなくなっていた。まだ温かかった。
僕は何度も名前を呼んだ。ジャンプは跳ねなかった。
母親が泣いていた。父親も珍しく目を赤くしていた。僕はどうしていいかわからなくて、ジャンプの耳をそっとつまんだ。いつもなら、それを嫌がって首を振るのに。
「ジャンプはね」
母親が、しゃくりあげながら言った。
「きっと生まれ変わって、また会いにきてくれるよ」
「生まれ変わるって?」
「死んだら別の何かに生まれ変わってもう一度この世界に戻ってくるの。ジャンプはきっとまた犬になってみんなに会いにきてくれる」
僕はその言葉を信じた。七歳の僕には信じる以外の選択肢がなかった。
犬は犬に生まれ変わるものなんだと僕は覚えた。
それから一年が経って、母方のじいちゃんが死んだ。
八十九歳だった。大往生だと誰かが言った。僕はその言葉の意味をよく知らなかったけれど、大人たちがそう言うならそうなんだろうと思った。
じいちゃんはいつも縁側に座って、僕に飴をくれた。口数の少ない人だった。
最後に会った時も、縁側でただ手を振っただけだった。
葬式は長かった。お坊さんがお経を読んで、みんなが頭を下げて、またお経を読んでまた頭を下げた。僕は何度も正座を直した。足がしびれて痛くてでも我慢した。
じいちゃんが死んだことより、足のしびれの方が僕にはずっと現実だった。
葬式の後の食事会は駅前の和食屋だった。座敷が二間続いていて、大人が二十人くらい集まっていた。最初はみんな神妙な顔をしていたのに、お酒が入るとだんだん声が大きくなった。じいちゃんの思い出話をしているのかと思ったら、そうでもなかった。誰かの仕事の話、子どもの受験の話、去年の旅行の話。笑い声も上がっていた。
大人たちは、じいちゃんが死んだことを忘れてしまったみたいだった。
僕は座敷の隅に座ってお茶を飲んでいた。テーブルの上には、僕には名前のわからない料理がいくつも並んでいた。どれも少しずつしか減っていなくて、誰も本当はお腹が空いていないんだな、と思った。
退屈だった。僕は座敷を抜けて、廊下に出た。
廊下の突き当たりに、いけすがあった。大きなガラスの水槽で、中には魚が泳いでいた。鯛と平目と、あと何か細長い魚。底には貝もいて、水がぶくぶくと音を立てていた。僕はしゃがんで、じっと見ていた。
魚はゆっくりと泳いでいた。尾びれをひと振りするたびに、水がきらきらと揺れた。
そのうちの一匹の鯛が、僕の前で向きを変えた。その顔には、目の少し上あたりに白っぽい傷跡があった。古い傷みたいに、鱗が少しだけめくれていた。僕はその傷を、なぜか覚えた。
その時、僕はジャンプのことを思い出した。
そういえば、と僕は思った。どうして両親は、犬は犬に生まれ変わるってわかったんだろう。生まれ変わるのは、犬じゃないかもしれないのに。ジャンプが、もしかしたら魚に生まれ変わったのかもしれない。それとも、全然違う何か。花とか虫とか風とか。
じゃあ、じいちゃんは。
死んだばかりのじいちゃんは、今どこにいるんだろう。もしかしたらこのいけすの中にいるんじゃないだろうか。この目の前を泳いでいる魚のどれかが。
僕は水槽に顔を近づけた。魚は動かなかった。僕のことを見ているのかどうかも、わからなかった。魚の目はいつも同じ形で、まばたきもしないから。
「あなたは人間でしたか」
小さな声で言ってみた。魚は動かなかった。
そうか。水の中だから、聞こえないんだ。
僕はポケットから、母親が持たせてくれた小さなメモ帳と鉛筆を出した。このメモ帳は、僕が退屈した時に絵を描くためのものだった。僕はそのページに、丁寧に文字を書いた。
『あなたは人間でしたか。』
『はい、なら右へ。いいえなら左へ。』
僕はそのページを水槽のガラスに貼りつけた。
しばらく、何も起きなかった。魚はゆっくりと、水槽の端から端へ泳いでいた。
僕は待った。メモ帳を押さえている手が、少しだけ汗ばんでいた。
その時、あの傷のある鯛が、進む方向を変えた。
ゆっくりと右へ。そして止まる。
僕は息を止めた。偶然だと思った。魚なんて右にも左にも泳ぐ。たまたま右だっただけだ。水槽の中では、他の魚も勝手に泳いでいる。僕は自分にそう言い聞かせた。
それでも、確かめずにはいられなかった。僕はメモ帳をめくって、次のページに書いた。
『あなたは男性でしたか。』
『はい、なら右へ。いいえなら左へ。』
傷のある鯛は、しばらくその場で尾を振っていた。それから、また右へ動いた。
僕の背中が、すうっと冷たくなった。
指が震えて、文字が少し曲がった。
『あなたは。』
そこで僕は少し迷ってそれから続きを書いた。
『おじいちゃん?』
傷のある鯛は、しばらくメモ帳の前で止まっていた。尾びれが、ゆっくりと揺れていた。
それから、左へ動いた。
いいえ。
僕は、ほっとした。安心したのか、がっかりしたのか自分でもわからなかった。でも、体から力が抜けていくのがわかった。じいちゃんじゃない。よかった。そう思った。同時に、じゃあこの魚は何なんだろうと思った。
じいちゃんが死んだのは三日前だ。このいけすの魚は、こんなに大きい。じいちゃんが死ぬ前から、ここにいたはずだ。それなのに、この魚は僕の質問に答えた。右に動いたり、左に動いたりした。まるで質問を理解して、答えを選んでいるみたいに。
じゃあ、この魚は、誰なんだろう。
僕は、メモ帳を新しくめくった。鉛筆を握っている手が、うまく動かなかった。それでも、なんとか書いた。
『あなたは誰ですか。』
僕はそのページを水槽に貼りつけた。
魚は、動かなかった。
右にも、左にも。
ただ、傷のある鯛は、水槽のガラスに顔を向けていた。僕の方を、見ていた。
さっきまでとは違う向きで、まっすぐに。
魚の目はまばたきをしない。水がぶくぶくと音を立てているだけだった。
僕は、その目を見ていた。
目が、離せなかった。
魚は、僕を見ていた。ずっと。動かずに。まるで、僕が次に何か質問するのを待っているみたいに。
僕は、立ち上がった。メモ帳をポケットに押し込んで、廊下を走った。
座敷に戻ると、大人たちはまだ笑っていた。母親は親戚のおじさんにビールをついでいて、忙しそうだった。
「ねぇ」
僕は母親の袖を引いた。
「あのいけすの魚がね、僕の質問に答えたの」
母親は、おじさんの方を見たままだった。
「魚が? 何を言ってるの」
「あのね、『おじいちゃん?』って聞いたら、違うって動いて。じゃあ誰なんだろうって」
母親は、やっと僕の方を見た。それから、少し笑った。疲れた顔だった。
「魚が質問に答えるわけないでしょ。疲れてるのよ、今日は」
「でもメモを見せたら右に動いたり左に動いたりして」
「はいはい。あっちで大人しくしてなさい」
母親は、またおじさんの方へ向き直った。おじさんは僕のことを気にしていない様子で、笑いながら何か話していた。
僕は座敷の隅に戻った。でも、座っていられなかった。いけすのことが頭から離れなかった。あの目が、まだ僕を見ている気がした。
その時、廊下の方で人の気配がした。大将が大きなお盆を両手に持って、座敷の方へ歩いてくるところだった。お盆の上には長い皿が載っていた。僕の背では、その上に何が乗っているのかよく見えなかった。ただ、きらきらと光るものが見えた。
大将は座敷の入り口を通り過ぎようとして、僕に気づいてにっと笑った。
「活きがいいの入ったよ」
そう言って、座敷の中へ入っていった。
僕はそのあとを追わなかった。いけすのことが気になっていたからだ。
廊下に出て、いけすの前にしゃがんだ。
さっきまで泳いでいた魚が、何匹かいなくなっていた。
あの傷のある鯛の姿もどこにもなかった。
僕は立ち上がって座敷に戻った。大将が、テーブルの真ん中に皿を置いたところだった。
皿の上で、魚の身がまだ動いていた。尾の方の身が、ぴくぴくと跳ねていた。
端には、魚の頭が載っていた。
僕は、その頭を見た。白っぽい傷跡が、目の少し上にあった。鱗が少しだけめくれていた。さっき、いけすで見たのと同じ傷だった。
魚の口が、パクパクと動いていた。
何か言おうとしているみたいに。
「おお、すごい」
「活きがいいねえ」
大人たちが、歓喜の声を上げた。誰かがスマホを向けて、写真を撮っていた。母親も少しだけ笑っていた。
僕は、皿の上の魚と目が合った。
魚の目は、まばたきをしなかった。いつもと同じ形で、僕を見ていた。口だけがパクパクと開いていた。
僕は、動けなかった。尾の方の身がだんだん静かになっていくのを、ただ見ていた。それでも口はまだ開いていた。
誰かが言った。
「ジャンプ、って犬がいたよね」
別の誰かが笑った。
「ああ、いたいた。よく跳ねる犬だった」
その声を聞きながら僕は思った。あの魚はじいちゃんじゃないと答えた。じゃあ誰だったんだろう。僕の質問を理解して、答えを選んでそして最後にはじっと僕を見ていた。あの口は、あの目は何を言いたかったんだろう。
僕は、皿の上の魚をまだ見ていた。
魚の口が、ぴたりと止まった。
何か言おうとしていたのに、もう聞くことはできない。
あの魚が誰だったのか、僕は今も知らない。
短編ホラーです。ぞっとしていただければ幸いです。




