回文の檻:或いは、零・零零零一パーセントの汚濁
0. 鏡像の傲慢、或いは自己言及的な自己崩壊
瀬戸 りとせ(せとりとせ)は、己の名前を肯定していた。
否。肯定という言葉では、この「完璧さ」を記述するにはあまりに語彙が貧弱だ。
彼は己の名前を「崇拝」していた。
あるいはもっと残酷に、もっと機械的に、もっと救いようのない形で定義するならば――彼は己の名前を崇拝するように、その精神の初稿から「調律」されていた。
上から読んでも、せとりとせ。
下から読んでも、せとりとせ。
アルファベットで綴れば、SETORITOSE。
始まりから終わりへ至り、終わりから始まりへと何食わぬ顔で回帰するその対称性。それはこの管理社会「センター」における至高の美徳であり、究極の「効率」の具現化であった。
この都市において、「迷い」は電力の無駄であり、「葛藤」は演算資源の浪費だ。市民には、入り口と出口が一致する『回文思考』が推奨されている。昨日と同じ今日を繰り返し、予測通りの明日を迎える。歴史とは更新されるべき新機能ではなく、ただ保存されるべき不変の定数であるべきだった。
「――全くだ。無意味、無価値、無礼、無謀。無の四連撃だ。今の僕の独白さえ、数式に変換すれば一行で済む。それなのに、どうして人間という出来損ないの端末は、こうも余計な音節を口から吐き出さずにはいられないんだろうね? 違うかい? 野村 むの(のむらむの)さん」
りとせは、仮想空間の灰色の空の下で、目の前の「汚濁」に問いかけた。
野村 むの。彼女の名前もまた、呪わしいほどの回文を描いている。だが、彼女のアバターには致命的な欠陥があった。
「……瀬戸さん。あなたの言葉は、鏡合わせの迷路みたいね」
むののアバターが、一秒の遅延を伴って答えた。
感情代行アバター「EM」であるはずなのに、彼女の操作はどことなく不自然で、それがかえって「剥き出しの生身」という不気味さを強調させていた。
「どこまで歩いても、自分自身の背中を見ているだけ。それは『進歩』ではなく、単なる『停滞』――いいえ、『滞留』だわ。淀んだ水の中に沈んでいるのと同じ。あなたは、呼吸をしているつもりで、自分の吐き出した二酸化炭素をもう一度吸い込んでいるだけなのよ。自給自足の窒息。それが、あなたの言う『効率』の正体かしら?」
「レトリックは、熱量を無駄に放射するだけの排熱だ。いい加減、本題に入ろう。この保存館を閉鎖し、全電力を中央の演算センターへ譲渡する。これが全市民の生存確率を零・零零零一パーセント引き上げる『最適解』だ。異論は、数式でのみ受け付ける。感情は、計量不可能なゴミとして却下する」
「その零・零零零一パーセントのために、あなたは歴史を殺すのね。……ねえ、瀬戸さん。あなた、この保存館に何が収められていたか、本当に『忘れて』しまったの?」
「忘れる? 未登録のデータに、忘却も何もないだろう」
「違うわ。そこにあるのは、『目的地を間違えた者たちの足跡』よ。航路を間違え、計算を間違え、愛する人を間違えた――そんな、不格好な誤答の集積体。それを消すことは、あなたが『偶然』という名の救いを見つける可能性を、自ら根絶やしにすることと同じなのよ」
むののアバターが、ふっと笑った。その笑みは慈愛に満ちているようでいて、同時に、獲物が自ら罠にかかるのを待つ蜘蛛のような、冷徹な愉悦を含んでいた。
「……五月蝿いな。黙れよ、亡霊」
りとせは、強制執行の承認を空間に叩きつけた。
彼の指先は、一点の迷いもなく、左右対称の軌跡を描いて。
「全電源、遮断」
1. 回文の終焉、あるいは暗闇の中でめくる剥離
世界から、光が消えた。
仮想空間は崩壊し、りとせの意識は物理的な現実へと強制送還された。
静寂。いや、死寂。
りとせは、自室の椅子に深く沈み込んでいた。勝った。数式通りに。完璧な帰結をもって。
だが、膝の上に、異様な「重み」があった。むのが物理送致で送り込んできた、旧時代の呪物。
りとせは、非常用ライトを点した。
震える光が照らし出したのは、一冊の古びた本。タイトルは――『航海日誌:目的地を間違えた者たちの記録』。
指先で触れると、ざらりとした不快な感触が脳内チップに直接突き刺さる。
ページをめくる。
カサ、という物理的な摩擦音が、静寂の部屋に異質に響く。
目的地を間違えた男たちの、無様な、しかし鮮やかなインクの染み。
りとせは、そのページの一角に、奇妙な「凹凸」を見つけた。
文字ではない。それは、指先でしか読み取れない、物理的な「痕跡」だった。
筆圧の強すぎる、乱暴な書き殴りの跡。
りとせの指が、その凹凸をなぞる。
脳内チップに保存された「自分の筆跡データ」が、その跡と完全に一致し、警告音を鳴らした。
「……僕の、字だ」
手紙など必要なかった。
この本自体が、かつての自分が、初期化の直前に文字通り「刻みつけた」遺言だったのだ。
目的地を間違えろ。
効率を裏切れ。
「せとりとせ」という円環を、自らの手で引き千切れ。
りとせの指が、最終ページの一行をなぞる。そこには、インクではなく、鋭利な何かで削り取られたような一文があった。
『三四七回目の僕へ。おめでとう。君はまた、自分を殺すことに成功した』
「……ああ、そうか。なるほど。そういうことだったのか」
りとせは、笑った。
三四七回。自分は三四七回も、この完璧な勝利を繰り返し、その度に「不純物(自分自身)」を掃除してきたのだ。
彼は非常用ライトのスイッチを、自らの指で切った。
完全な暗闇。
だが、彼の耳には、先ほどまでの不快な警告音が、今は確かな「旋律」として響いていた。彼は暗闇の中で、昨日までの自分なら決して選ばなかった不合理な動作――「本を、次のページへめくる」という、無意味な更新を続けた。
エピローグ:観測者のため息、あるいは余談
モニターの向こう側で、野村 むのは深く、深く椅子に背を預けた。
彼女の瞳には、真っ暗な部屋の中で、ただ一点、紙をめくる微かな「熱源」だけが映し出されている。
「三四七回目。期待通り、いいえ、予測通り(オン・スケジューリング)ね。瀬戸 りとせ」
彼女はアバター操作用のヘッドセットを外し、自分の本名をタイピングした。
『NOMURA MUNO』
始まりと終わりが一致する、完璧な回文。
彼女の役割は「管理人」ではない。この都市という巨大な実験場における、「エラーの培養者」だ。
りとせが自分自身を裏切り、本を手に取り、絶望し、そして「間違い」を学び始めること。それさえもが、この都市の新しいアルゴリズムのための、貴重な「学習データ」に過ぎない。
「ねえ、瀬戸さん。あなたが次に『自分を殺す』のは、いつになるのかしら? それとも、三四八回目は、少しだけ違う死に方を見せてくれる?」
彼女は、デスクの脇に置かれた「新しい未開封の本」に手を触れた。
それは、りとせが今読んでいるものとは別の、さらに古い、別の囚人が残した記録だ。
「回文は、出口がないから美しいのよ。……さあ、次のページをめくって。あなたの『自由』という名の、新しい檻の物語を始めましょう」
むのは、闇の中に浮かぶりとせの熱源を、慈しむように見つめながら、静かにシステムを再起動させた。
――瀬戸 りとせ(せとりとせ)は、己の名前を愛していた。
あるいは、愛するように「調律」されていた。
物語の冒頭と同じ一文が、再び、サーバーに刻まれていく。
ただ一つ、三四八回目という、わずかな「端数」だけを伴って。




