九八式中戦車
霧に濡れた草原が、かすかに蒸気を吐いていた。
夜明け前の平原は静かすぎた。静けさの中に機械油の匂いが混じり、空気がわずかに重い。遠くでエンジンの暖機運転の音が地鳴りのように響き続けている。
黒光りする車体の側面に、兵たちは手を置いていた。
鋼鉄の塊――それは九八式中戦車改。
初めて実戦に投入される「陸海共同設計」の機体だった。
車長の嶋田中尉は、砲塔の縁に手をかけたまま、じっと前方を見つめていた。夜露で濡れた鉄の感触が冷たい。砲身は薄い霧の中に伸び、かすかな光を反射している。
「……海軍の連中、よくこんな弾を作らせたもんだな」
砲塔内から、装填手の声がくぐもって聞こえた。
木箱の中で、黄銅色の薬莢が静かにぶつかり合う音がした。
──百一式徹甲被帽榴弾。
木箱の蓋に墨で記された文字が、嶋田の網膜に焼きついていた。
操縦手がエンジンの回転数を上げる。車体がわずかに震え、鋼の内部に生命が宿ったような錯覚を覚える。
「訓練場では……砲塔正面なら、抜けていたんだろう?」
誰にともなく発せられた言葉だった。
砲手が短く答えた。
「ああ。百メートル以内なら……な」
嶋田は、口を結ばなかった。
頭に浮かぶのは訓練場ではない。霧の向こう側にいる“実物”だ。
傾斜装甲。
砲弾を弾き、跳ね返し、こちらの常識を嘲笑う鋼の塊。
T-34――
参謀から聞かされていた名前を、胸の内で繰り返す。
砲塔の内壁を指で叩くと、乾いた金属音が返ってきた。
「……試されるな。俺たちも、この戦車も」
無線機が小さく唸る。
「第一小隊、前進準備。発動機、全機始動せよ」
嶋田は砲塔内へ身を沈めた。
砲閉鎖器の金属音が鳴る。
装填手の掛け声が狭い空間に響く。
「装填よし!」
霧の向こうの視界は、まだ白い。
誰も見たことのない戦いが、そこに待っていた。
霧は濃く、視界は十メートル先までしか届かない。
嶋田中尉は操縦席の暗い計器を一瞥し、エンジンの回転を微調整した。戦車の腹が地面を踏みしめるたび、鋼鉄の巨体が低く唸る。
前方、白くぼやけた霧の中に、何かがうごめいた。
砲手が小声でつぶやく。
「……動く影……!」
砲塔が瞬時に旋回する。目標は──やはり、戦車だった。
黒光りする車体、傾斜装甲、45度以上に傾いた正面……間違いない、T-34だ。
嶋田は息を止めた。
距離は百五十メートル。訓練場でのデータが頭をよぎる。百メートル以内なら貫通する。だが、霧で視界が悪く、正確な狙点は定めにくい。
「砲手、狙点を車体側面に切り替えろ! 徹甲被帽榴弾を頼む」
砲手は静かに頷き、照準を微調整した。砲身が滑るように回り、砲尾の機械式照準器がかすかに揺れる。
霧の中、T-34がゆっくり前進してくる。雪解け水でぬかるんだ地面に履帯が深く跡を刻む。
側面は40mmほどだが、傾斜は少なく、APCBC弾の最適射角だ。
「装填完了!」
装填手の声が響く。
砲塔内の空気が緊張で重くなる。全員が一瞬、呼吸を止めた。
「発射!」
砲口から閃光が飛び、炸裂音が霧を裂く。
弾は風帽をかぶったまま、T-34の側面に吸い込まれるように飛んでいった。
衝撃が戻り、砲身がわずかに跳ねる。
弾は側面装甲に命中、金属の音と共に凹みが生まれ、装甲板を貫いた。煙と鉄片が飛び散る。
「……命中。装甲貫通!」
砲手が短く報告する。砲塔内に微かな歓声が上がるが、嶋田はまだ警戒を緩めない。T-34はなおも前進してくる。
次の瞬間、敵砲塔が反応した。
霧の中、砲口が黒い影を作り、低い唸り音が聞こえた──
「避けろ!」
操縦手がハンドルを急旋回させ、車体が泥濘を蹴散らす。T-34の砲弾は車体正面をかすめ、側面をかすめて地面に刺さった。
霧と泥が舞い上がる。戦車隊はわずかに車列を崩しながらも、嶋田は冷静に次弾を装填させる。
「次の距離は……三百メートル。次も側面だ」
砲手の手が滑ることなく照準器を合わせる。
初めての実戦、初弾で側面を貫通した自信が、緊張の中にわずかに光を落とした。
しかし霧はまだ濃く、T-34は完全には視認できない。
戦いは、これから本格化する──。
霧はなお濃く、視界はほとんど二十メートル先までしか届かない。
T-34は側面を狙われたことに気づき、反転しつつ砲塔を旋回させる。低く唸る砲撃音が霧を震わせ、泥水が跳ねる。
嶋田は息を詰め、砲塔内の照準器に目を凝らす。
しかし、次の瞬間、霧の奥から鋭い閃光と轟音が飛び込んできた。
「……砲塔正面か!」
砲手が声を上げたが、間に合わない。T-34の75mm砲(設定上、史実よりも強化された架空の仕様)は、車体正面装甲に弾痕を刻む。
火花と鋼片が車体に飛び散り、車内の装備が揺れる。小型の機器が床に落ち、無線が一瞬途切れた。
操縦手がハンドルを切り、車体を急旋回させる。泥にタイヤが埋まる音が響き、車体はわずかにスリップした。
だが、T-34はしつこく追跡し、砲撃のリズムを崩さない。
「距離が……百七十メートル!次弾で反撃か!」
装填手が息を荒くしながら弾を持ち上げる。
砲身を徹甲被帽榴弾に合わせ、次の射撃準備を急ぐ。
しかし霧のせいで、目標の側面はほとんど確認できない。
T-34は巧みに車体を傾け、装甲の薄い部分を最小限しか晒さない。
砲弾は跳ね返り、泥と霧に消えていった。
嶋田の額に汗がにじむ。
「くそ……!百メートル以内でないと、貫けない……!」
霧の中、T-34が間合いを詰めてくる。砲塔正面に被弾すると、車体全体が揺れ、制御もわずかに狂う。
砲手は必死で照準器を保持し、装填手は弾を送り込む。息の合った作業が、ほんのわずかの勝機を生む。
突然、後方から味方の砲撃が霧を切る。
「援護!でも、間に合うか……!」
嶋田はわずかに眉を寄せ、車体を泥に沈ませながら進路を変更する。
T-34は停止しない。砲塔が旋回し、次の発射角度を探る。
側面を狙うか、正面を押しつけるか……戦場の霧の中で、嶋田たちは初めて、自分たちの戦車が完全無敵ではないことを思い知らされる。
車内の金属音が重く響く。砲弾の装填音と、エンジンの低い唸り、そしてT-34の砲撃音。
それらが入り混じり、戦場の緊張を増幅させる。
──この戦車の全能力を、今試されている。
霧が徐々に薄れ、朝の光が草原を淡く照らし始めた。
戦場には、砲弾で焦げた泥と、鋼片の散らばった跡だけが残る。
九八式中戦車改の車体は、側面にわずかな凹みと擦過傷を負っていた。
砲塔の縁には、T-34の砲弾がかすめた跡が黒く焦げている。
エンジンはまだ低く唸り、砲塔内の乗員たちは息を整えていた。
「……全機生還か」
嶋田中尉は呟き、砲塔の照準器を慎重に外した。
砲手が答える。
「側面なら……なんとか。でも、正面は……」
指先で砲塔正面の小さな傷を撫で、言葉を濁した。
操縦手は泥で濡れた操縦席から顔を上げる。
「逃げ切れたけど、あの距離で正面撃たれたら終わりだ。次はもっと慎重に動かさないと」
嶋田はうなずいた。戦闘中、初弾で側面を貫いた徹甲被帽榴弾の威力は確かに目を見張るものだった。
しかし、T-34の正面に対する限界も、身をもって理解した。
砲塔内の空気は、興奮と緊張の余韻で張りつめている。
装填手が静かに弾を整理しながらつぶやいた。
「……やっぱり、百一式徹甲被帽榴弾だけじゃ、正面は無理ですね」
嶋田は視線を霧の向こうに向けた。
戦場はまだ不安定で、T-34は遠くで停滞している。
だが、戦車の設計者と技術者たちが夢見た“新型戦車の力”は、現実の戦場で試され、確かな手応えとして乗員に残った。
「次は……側面から叩く戦術を徹底だな」
嶋田の声には、決意がこもっていた。
戦車の性能も、乗員の技量も、まだ十分ではない。だが、今日の教訓は、確実に次に生きる。
霧が消え、朝日が車体を照らす。
泥に埋もれた九八式中戦車改は、静かにだが確かな存在感を放っていた。
鋼の巨体の中で、乗員たちは初めて、戦車が生き残るための道筋を理解しつつあった。
──そして戦場の教訓は、これからの戦車開発に確かに刻まれる。




