第09話 他人行儀はやめろ
その日は仕事がいまいち進まなかったが、夕食の時間にもなったので、書類を家に持ち帰り、夜に書斎で処理することにした。
しかし、自室に移動したとて、作業を邪魔する直接の原因が晴れるわけではない。むしろ今日の夕食でもまた、その悩みが脳裏をチラついて仕方がなかった。
そう、最近俺の頭を悩ませている、一つのことについてだ。
「──あいつが、笑わん」
盆の上にポットとカップを載せていたマイラが、大きなため息をついた。
「坊ちゃま。それは相談ですか?」
「……そう受け取ってもらっていい」
二度目のため息が聞こえてきた。
ばつが悪くなって、手元の書類に目を落とし、確認もそこそこにサインをした。
「大事なのは会話の量ですよ。坊ちゃまはとかく言葉が足りませんから」
「それはわかっている。何を言っても駄目だから聞いている」
書類のページをめくる。
もう読んでいられないので、ぱらぱらぱら~と指で弾き、必要なサインを数える。
「本当になんでも言ったのですか? 『綺麗だ』とか『好きだ』とか『可愛い』とか『愛してる』だとか、そのような類は」
「……飯の味は、その、褒めた」
「それについては、シーナ様も喜んでおられました」
「ならいいのだが」
「それだけでは不満ですか」
笑え、と言えばあいつは笑顔を見せてくれるだろう。
だがそれは違う気がした。きちんとした自然な言葉の応酬で、誰にも強制することなく笑うことを習慣づけないと、それは以前の彼女の無表情とさほど意味が変わらなくなってしまう。
俺の考えを汲み取った上か、マイラは「なるほど」と呟いて続けた。
「坊ちゃまは俺が一言『飯が美味い』と言えば、シーナ様が泣いて喜びとびきりの笑顔を見せてくれると思っていたわけですね」
「……なあマイラ。おまえ、最近物言いが激しくないか?」
「それが許されるようになったんですもの」
机の上に紅茶の入ったティーカップが置かれる。
マイラは心底楽しそうにほほ笑んで言う。
「最近の坊ちゃまはすっかり、憑き物が落ちたようです」
そう言われて、不思議と悪い気はしなかった。
「ですが、そもそもですね。誰かに自然に、心の底から笑ってもらう、というのは、一般に非常にむつかしいことです」
「……そういうものか」
「ましてやシーナ様はおそらく、育った環境に相当の問題を抱えておられます。自然に笑うということまでには、相当の距離がある」
「それについてはすでに調査を出してある」
釣書にはもうとっくに目を通し、個人で調べてわかることは調べ、通り一遍の情報は知っている。
シーナ=ペンフィールド。現ペンフィールド伯爵家当主、ガーウィン=ペンフィールドと彼の前妻、リウェン=ペンフィールドの娘。リウェンの旧姓はデンヴィア。こちらは騎士爵位を持つ商家の娘だ。
だが、シーナ本人についてのそれ以上の情報はまったくと言っていいほど欠落していた。八歳以後、どこの学校に在籍していた記録もなければ、社交界に出たことも、貴族の目撃証言すらあやふや。ペンフィールド家はミラベルの一人娘であると認識している者も多かった。
シーナは八歳のときにリウェンと死別している。
その直後に、父親のガーウィンは現在の継母であるロウェナ=ハークライスと再婚し、彼女は六歳のミラベルを連れていた。
端的に、何もかも妙だった。そしてこれが、“裏魔法規則”に支配される命の魔法と無関係なわけがない。
彼女がペンフィールド家で受けてきた扱いについても、なおのこと。
断定は禁物だ。今は想像しかできない。本人が未だに実家の意向を大切にしている以上、聞くことには慎重になった方がいい。だが今、彼女がもしかするとそういう目に遭っていたかもしれないと思うだけで。
──腸が、煮えくり返りそうになる。
息を吐いた。
いかん。最近落ち着いてきたのに、また変に熱くなって魔力が暴走するようでは本末転倒だ。
「となると、情報が出そろうまでは待機だな……」
「なーにを馬鹿なことを言ってるのですか、坊ちゃまは」
「ば、馬鹿? おまえ、いい加減に主人を──」
「過去は過去です。確かな今なくして過去の清算などできません」
マイラはしずしずと歩いて執務室の扉に手をかけ、去り際に言った。
「お二人はいい加減、きちんと夫婦になるべきです。話はそれからです」
***
私がロウデン別邸に来て、三ヶ月が経った。
相変わらずアルヴェンダール様は一日三食を別邸でお召しになる。最近は話すことも増えてきて、基本は私が「はい」と相槌を打つだけだけれど、それでも会話らしい会話を、まるで普通の家庭かのように、毎日行っている。
けれどここ二週間ほど、なんだかアルヴェンダール様の様子が変だった。
何か言おうとしてるけれど、途中でやめてしまうような。
その隣ではマイラさんがこめかみに青筋を浮かべ、頬をひきひくさせていたけれど、触れるべきではない気がした。
「……おい」
それでとうとう、ある朝に、アルヴェンダール様の方から話が切り出された。
「はい、なんでしょうか、アルヴェンダール様」
「……その」
「はい」
「その、だ。そもそも俺とおまえは、一応、入籍しているわけだが」
「はい」
「おまえはその……答えづらかったろう。たとえば、俺との続き柄を聞かれたときなどに」
「それは」
「原因は俺だ。俺が、前に嫁に来ようとした娘を追い返したり、家に無理やり入籍させられた折に、無理やり離縁して縁談を有耶無耶にしたりなどしていたから、対外的にも、おまえに対しても、中途半端な状況にしてしまっていた」
アルヴェンダール様は少し間を置いて、つっかえたものを出すように続けた。
「だが、ロウデンの本家が、おまえを家系図に入れると言ってきた」
「……え?」
「つまり、俺の実家が、おまえを正式に俺の妻と認めた。もう入籍から三ヶ月も経っているからな。おまえの実家、ペンフィールド家への援助も始まっている」
それは、とても良いことだ。
そもそもこの縁談は、お父様が、ミラベルの結納金を拵えるために誂えたもの。
その目的が達成された。私は家のために役目を果たしたのだ。
だけど、それだけじゃない。
それだけじゃない気持ちが、私に確かに芽生えている。
「だから、名実共に、おまえはシーナ=ペンフィールドではなく、シーナ=ロウデンであり、俺の妻だ。今度から、確とそう名乗れ」
「は、はい!」
シーナ=ロウデン、と言われて、すごく不思議な気分だった。
少し前まで私は、自分がシーナ=ペンフィールドであることすら忘れていたくらいなのに。
それが、もう一度変わって、シーナ=ロウデン。
私は膝に手をついて、深々と頭を下げた。
「だからな、その、それにあたって」
「はい」
「その、他人行儀な感じはやめろ」
「他人行儀、ですか。わたくし、何かまた粗相を」
深々と下げた頭を、そのまま床につけようと椅子を引く。
それが止まった。マイラさんが後ろで待機して椅子の背を押さえていた。彼女は青筋を立てて前を見たり、視線を戻して穏やかな顔をしたりを繰り返していて、表情が読めない。
私はまた、話を取り違えたようだった。
最近こういうことが多くて、自分が嫌になる。すぐにアルヴェンダール様に目線を戻して座り直す。
「そうではない。その……例の騒ぎでおまえが病棟に来たことと、騎士団本部にも連れ立ったことで、俺が妻を迎えたらしいということ自体は知れ渡っているわけでな」
「はい」
「実家もおまえを妻と認めたことだし、この関係にしばらく変化はないだろう。それに伴い、その、なんだ」
「はい」
「これから夫婦として出向くことも増えるやもしれぬ。式典の類で、妻がいるのに伴わない、というのは、何か体調を疑われるようなことだ」
「そう……なのですね」
「それにあたってだな、その、つまり、なんだ」
アルヴェンダール様は、口の前で両手を組んで言った。
「互いの二人称を整えることは、周囲からも、関係性の証、となる」
「……?」
私は言葉を待った。
でも、続きはなかった。
つまり私は、アルヴェンダール様の話を理解できなかったのだ。
「申し訳ございません。アルヴェンダール様。わたくしの頭が悪いばかりに、ご意思を汲むことができませんでした」
ああ、やはり私は駄目なのだ。
さっき浮ついた気持ちがしぼんで、落ちるようだ。
視線を下に落とすと、横でちょっとした足音が聞こえたのち、前からぱこーんと乾いた音が聞こえた。
また前を向き直す。でも何も落ちていない。気のせいだったようだ。
それに、アルヴェンダール様は別に怒ってなどいないようだった。
「違う。おまえは悪くない。自分の頭が悪いなどと言うな」
「いえ、悪いのはわたくしで」
「いい。つまり、互いの呼び方を変えよう、ということだ。それだけだ」
「……呼び方、ですか」
「アルヴェンダール様、という言い方が悪いわけではない。だが、家の者でない者もそう呼ぶからな。夫であることを示すようなものがいい。何かないか?」
妻による、夫の呼び方。
さすがに呼び捨てにするのは駄目だ。かといってあだ名とか、あなた、などと言うのもきっとよくない。
少なくとも、『様』は残すべきだ。その上で呼ぶとなれば。
「では、旦那様、などでしょうか」
「……ああ。それでいい」
アルヴェンダール様は、机の上で組んだ両手に、深く沈み込むように口元を隠す。
そこからちょっと沈黙があった。それで、今までずっと黙って青筋を立てていたマイラさんが、もう諦めたかのように、深い深いため息をついた。
「──で、坊ちゃま。互いの呼び方ですよね? 坊ちゃまからは、シーナ様を、なんと呼ぶようにするのですか?」
「それは、その、おまえ、と」
「坊ちゃまはシーナさま以外も『おまえ』としか呼ばれませんよね?」
「う」
「いつまで『あの娘』だとか『おまえ』とだけで呼ぶおつもりで?」
テーブルの上に置いていた肘を外し、アルヴェンダール様はごほん、と咳払いをした。
「単に、シーナ、と呼ぶことにする」
私はそれに、さっき言われたとおりに答えた。
「はい、旦那様」
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