第06話 旦那様に尽くしなさい
「ガアアアアアアアアアアアア!!!!!!」
半狼に変身したアルヴェンダール様の周りには数多の氷塊が浮いて揺らぎ、不規則に動いている。暴力的な質量が振り回されていた。
カンカンカン! という甲高く不快な鐘の音が鳴った。どこからともなく武装した集団がやってくる。
礼装のような模様が見える。騎士団員だ。
集団の先頭に立った騎士が、盾を構えて大音声を上げた。
「師団長! 我々がわかりますか!?」
答えの代わりに氷塊が飛んでくる。
先頭の騎士は盾でそれを受け止め、あっけなく後ろに大きく飛ばされる。
どこからかまた鐘の音が鳴る。
「退避ぃいいいいい! 退避ぃいいいいい!」
呆然とする私とマイラさんの肩を、主治医の先生が掴んだ。
「退避します! 氷狼の血が目覚めました! このままでは周囲が危ない!」
私はそれで、ここが王都病院の”特別棟”である意味がわかった。
こういう事態が想定されていたのだ。
「先生。アルヴェンダール様は、どうなるのですか」
「意識が戻ったのは良いことです。ですが、あれでは結局、治療は」
先生に引っ張られて避難させられる傍ら、横目で見えた中庭で、騎士団と半浪が戦っている。
「殺ス!!!!!」
数多の魔法と氷が行き交う。
「オマエは! 俺が! 殺ス!!!!!」
狼の牙と爪、剣が交差する。
「俺が!」
その武力は圧倒的で。
「俺が!」
騎士の誰をも寄せ付けぬほどだったけれど。
「俺が、殺したんだ」
とても、可哀想に見えた。
ある間隙に、騎士団が半狼と距離をとった。
膠着状態に見える。半狼も騎士も、体勢を立て直そうとしているのか。
私の目にはそれは、好機に映った。
だって今、アルヴェンダール様の周りには誰もいない。私がしくじって死んだって、誰にも迷惑がかからない。
主治医の先生の誘導を振り切り、私は中庭に駆けだした。
「シーナ様! どこへ!?」
私が逆方向に走り出したことに、マイラさんは気づいた。私はちょっとだけ会釈をして、そのまま走る。
すぐに騎士団も気づく。彼らが飛ばしていた魔法の刃も一気に止む。
私は騎士団の前に躍り出て、半狼となったアルヴェンダール様に、正面から相対する。
半狼は私を認め、少し静止したあと、叫んだ。
「来るナ!!!!!」
「……大丈夫です」
「オマエは! 俺が! 殺ス!!!!!」
「落ち着いて。アルヴェンダール様」
「殺したんだ! オレ、ハ……」
「大丈夫。私が、治しますから」
私は歩きながら、両手の指の腹を合わせた。
「『荒ぶる御魂を今、我が命を賭して、鎮め奉らむ』」
一小節目を唱え終わって、ちょっと不安になる。
でもほどなくして、掌から粘度のある光が放射され始めて、たくさんの蛍みたいに指の間から漏れ、浮かび上がった。
──ああ、よかった。ちゃんと、発動した。
「『水はめぐりて命を養ふ。雨と成りては天より降り、川と成りては地を潤し、海となりては、また空へと還りゆく』」
唱えながら、前へ歩んでいく。
これは、“命の魔法”。
ペンフィールド家における私の存在意義の、最後の砦。
術者の命と引き換えに、あらゆる生命と精神の損傷を治癒する。
私が唯一、お母様から受け継いだもの。
「来るナ!!! 殺ス! 殺ス!」
半狼は叫ぶ。
氷塊が飛んでくる。
でもそれを敢えて避けない。アルヴェンダール様が誰かを傷つけたがっているわけがない。
氷塊は私のギリギリ横を通過する。頬を掠ったけれど、ぜんぜん痛くない。
──ほら、やっぱり。
アルヴェンダール様は私が近づくたび、まるで恐れおののくようにして威嚇をして、引き下がる。
「『斯くして我、常世の道に身を委ね、穢れを祓ひ、罪を解き、静かなる光の裡に帰りなん』」
印を解く。右手に緑の光の、魔力を集める。
光が瞬き始める。
もう半狼は目の前にいる。
「ヤメロ! ヤメロ! 来るナ!」
でも、彼は吠えるばかりで、抵抗もできず手を頭に当てて、ただふらついている。
これを心臓に打ち込めば。
きっと、アルヴェンダール様は、元に戻る。
「『これの命、清き御前に捧げ奉る』」
光の瞬きが頂点を迎える。術者の私自身も目を開けていられなくなる。
私は思いっきり右腕を振りかぶった。そして、まさにその無防備な心臓に魔法を打ち──
「やめろ」
──込もうとした右手を、人間の左手が、掴んだ。
何が起きたかわからなくて、私はぽかんとした。
しかしそれはやはり、何度見ても、人間の、アルヴェンダール様の左手だった。
氷塊が地に落ちている。さっきまで吠えていた半狼は、まるで置き換わったように、一人の、ボロボロの騎士団礼服を来た長身の男性へと収縮している。
「それは、なんだ」
「い、命の、魔法、です。これで、アルヴェンダール様のお体が、その、少しだけ、鎮まるかも、しれ、なくて」
「そんなことはわかっている!」
氷狼の血が鎮まり、アルヴェンダール様は元に戻っていた。
それを見て安心してしまって、私は精一杯集中させていた魔力を解いた。同時に掌の緑色の光は霧散した。
「答えろ! なぜそんなものを! 俺に!」
彼は昂ったままで、自分の状況がわかっていなかったようだった。
「どいつもこいつも! みんなそうだった! 俺のために死んだ! どうして俺だけ生き残った!? 俺だけ生き残って、どうすればいいっていうんだ!!!!!」
ただ、私に、今まさに命の魔法を使おうとした私に、彼にとってもっとも重大なわだかまりを、ぶつけてくれていた。
「おまえまで、一体なんなんだ! 家の命令か!? それは命を懸けるほどのものなのか!?」
「そ、そう、です! で、でも」
私は正直に答えた。
そうだ。私は家の命令で嫁に来た。それ以外に道なんてなかったから。意思も。何もない。
私には、なんにもない。
でも、そう言い切ろうとしたときに、私の心に、強く引っかかるものがあった。
「……け、けど、それだけじゃなく、て」
「それだけじゃないなら、なんだ! 言ってみろ!」
「だって、その、旦那様は、初めて会ったときから、とても、優しくしてくださった、から」
「優しい!? 俺がか!? いつだ!? 俺はおまえを虐げるつもりだった! 今だってそうだ! なんなら殺してやってもいいくらいだ!」
「あの、えっと」
だって。
「えっと」
だって。
「それは」
だって。
「わ、わたくしの名前を、聞いてくださった、から」
「……は?」
アルヴェンダール様は握りしめた私の手を放して、立ち尽くした。
「き、聞いてくださいました。ペンフィールドではなく、わたくしの、名前、を」
「そんな……こと、で?」
彼はただ茫然として、私と、私のずっと後ろにある何かを見つめていた。
それからふっと力を抜いて倒れこんできたので、慌てて支えた。
長身の男性の体など、とても重くて持てやしなかった。私はあえなく膝をついて、肩でアルヴェンダール様の胸を支える。
大丈夫かしらと思って、なんとか首をねじって横からのぞき込むと、どうも、目を瞑っている。
でもその顔に、さっきまでのような不健全な色も、狼のようなギラつきもない。
ただ疲れ果てて、眠ったようだった。




