第04話 ずっとそこに立っておけ
共にアルヴェンダール様を見送ってから、マイラさんは心底申し訳なさそうに呟いた。
「シーナ様、お役に立てず、本当に申し訳ございません」
「大丈夫です。私が作法を知らなかっただけですので」
「いえ、あれはっ……」
彼女は言い淀んだあと、悲しそうに続ける。
「すべて、戦争と、家督争いが悪いのです……今、こんなことを言っても、信じてもらえないかもしれませんが」
その言い方は本当に切実で、鬼気迫っていて、悲しそうで。私の目にはその様子が──
「坊ちゃまは本当は、とても心の優しいお方なのです」
──とても不思議に映った。
だってそれはわざわざ弁解したり、説明されたりする類のものではないように感じたからだ。
だから単に、こう答えた。
「存じております……よ?」
◇◇◇
「ロ、ロウデン師団長! 在室ですか!? 団長より伝令です!」
そう聞こえてきて、はっと我に返った。
執務室の扉がノックされている。
「入れ」
「失礼します! すみません、何度もノックを差し上げたのですが、返答をいただけず、ご不在かと」
「ああ、すまない。内容は?」
「え、すまない?」
「だから、内容はなんだ」
「……はっ! 来月の魔獣の掃討計画についてなのですが」
しまった。俺としたことが、物思いに耽っていた。
部下から資料をひったくって、計画とやらをぱらぱらめくる。
「すまない? え? ロウデン様が、すまない?」
部下も混乱させてしまったようだ。
仕事中なのに、俺の頭の中を支配していたのは、出かける前にマイラが言ったことだった。
──シーナ様は、今までのご令嬢とも、ロウデンの女とも、きっと、違います。
ロウデン家の跡取りである以上、いずれは妻を娶ることは必定だった。
しかし、血みどろの歴史を持つ我が一族と、俺がたまたま立ててしまった戦果が相まって、俺に近づいてくる女のことごとくが、悪意と意図を持った悪人とろくでなしばかりだった。
俺の手柄と地位だけに惹かれ、贅の限りを尽くそうと画策する令嬢。
この厄介な容姿に惹かれ、狂ったように愛を切望する令嬢。
屋敷の質素さと使用人の少なさを見て失望する令嬢。
それらはまだマシな方だ。単純な欲望などはわかりやすい人間の仕業の範疇。
中には俺が追い落とした一族の末裔や、敵国のスパイ、そして復讐としてロウデンの血筋を盗み、王国に仇なそうとする輩がいた。
そういう輩は決まって最後には、俺のかつての友や使用人、そして領民を巻き込もうとし、それで何人もが死んだ。
だからもう、俺は諦めていた。
当初ペンフィールドのミラベルという娘に縁談が行くことを止めなかったのも、もはやここまできたら魔法の血筋さえ良く、跡継ぎを残せるという最低限のみを考えたかったからだ。
しかし、やってきたのはあのシーナという娘だった。俺が承知した話ではなかったが、ロウデンの本家はそれを後から承認した。
何もかもが不可解な娘だった。
初対面のときからまるで意思が見えない。
マイラの言う通り、今までの令嬢たちのように、欲望に由来する喚き方をする様子はなかった。そして、俺の言うことには忠実に従う様子を見せ、威厳にも屈し、何か拙い意思表示をすることもない。指示の実行に躊躇も抵抗もなさすぎる。
あの域までくるのは、明らかに異常だった。
彼女の身のこなしと敵意への反応は、幼いころから厳しく訓練されて得られる類のもの。わざと選んでこういう手合いを送り込んできた、という誰かの意図すら感じる、人工的に歪められた人格とも言えた。
だから俺はあれを、心底不快に思った。
◇◇◇
書類仕事に加えて掃討計画の演習もせねばならなかったから、結局は丸二日かかり、帰路についたのは深夜だった。
騎士団にも見送りは不要だと告げ、いつもの王都の大通りを、馬を駆って走る。これなら小一時間で家まで着く。
──そういえば、あの娘に「立っていろ」と言ったな。
家が近づくにつれて、そんなことを思い出した。
あの娘があれをどう受け取って、どうするかを見るための思いつきだったが、すでに二日経っている。
時刻も深夜だ。これだと試すも何もない。
「……は?」
だが、はるか遠くに見えた別邸の門の前には、あの娘が立っていた。
馬の速度を上げる。門が近づく。やはりあの娘で間違いない。
俺を認めると娘は深々と頭を下げ、ちょうど馬を停めたときに、つらつらと言った。
「おかえりなさいませ。アルヴェンダール様」
二日前と服装がまったく変わっていないことに、すぐに気づいた。
それだけじゃない。皮脂のべたつき、汗の跡、結ばれた髪の歪み方。不自然な角度で体を支える、震えた脚。
戦場の経験があるから知っている。
これは、長時間耐え続けた、消耗戦の兵士のそれだ。
──この娘、まさか本当に、二日間立ち続けたのか?
──あれから、一睡もせずに?
家からマイラが出てくる。
彼女は娘を一瞥したあと、俺の方に目を遣る。
「おかえりなさいませ。坊ちゃま。遅いですが、夕飯ができてございますよ」
その視線が俺を責めるように刺してくるから、思わず目の前の娘の胸倉を掴んだ。
「意地の悪い女だっ! これ見よがしに身を削ってみせれば、俺が絆せると思ったか!?」
自分が思ったより大きな声が出た。
娘から何か反応が来ると思ったが、それが、来ない。それどころか一度、ふっと意志の重みが消えて、単に質量のそれが力となって俺の手にかかった。
俺は思わず娘を抱きかかえ、頭を支えた。
顔を覗く。何の反応もない。薄く目を瞑っている。
もう、意識がない。
「安心なされたようですね」
マイラが言った。
もちろん、暗に俺を責めていた。
「なぜ止めなかった」
「坊ちゃまが口を出すなとおっしゃったので」
「そういう問題ではないだろう!」
「もちろん私も、いつ諦めるか、倒れるか見ておりましたとも。しかしシーナ様は一歩もそこを動かず、坊ちゃまを待ち続けました」
どんなに鍛えた男であっても、二日間、椅子にも座らず、体を動かすこともなく立ち続けるなど不可能だ。
ましてや、多少訓練されていたとしても、貴族の娘になど。
──いったいなんなんだ、この娘は。
マイラは俺の心の奥底を見通したような目で、最後に言った。
「この方は、本当に、坊ちゃまのために死んでくれる方です」
俺はそれを、鼻で笑って返す。
「どうせ先に死ぬのは、俺だ」
***
翌朝まで眠ってしまって、その上でも、足腰がもう立たないほど痛かった。
それでも朝食には向かった。
マイラさんとは、しばらく朝食を共にするという話をした。ロウデンの妻に求められることを、断りなくこなさないなどあり得ない。
果たして、アルヴェンダール様はテーブルについて待っていた。前と同じく騎士団の礼服を着ている。
そして、私の朝食はまた、テーブルの上に置かれていた。
隣で控えるマイラさんの方を一瞥する。彼女は私に、何か意思の籠った強い目を返す。
彼女が何を言いたいのかわからなかった。でもとにかく、前の反省を活かすなら、最初から床で、手を使って食事を取らねばならない。
私は食器を持ち上げて、床に跪こうとした。
「いい。椅子に座れ」
アルヴェンダール様はそう一喝した。
「あれは俺が試しただけだ。普通に食え。毒見もいらん」
私はもちろん、指示に従った。
それからしばらく、やけに静かで誰も話さない、平和な朝食が続いた。




