第25話 何も言わなくていい
壁も天井もすべて吹き飛んで、ただ、瓦礫と夜空だけがある。
やけに見晴らしがよくて、風がよく通ることがわかって、ようやく、屋敷までものすべてが壊されたことに気付く。
不気味で薄暗い礼拝堂から、何もかもが壊れて均され、開かれた空へ。
もうここには何もなかった。
私を閉じ込めて、縛って、抑えつけてきた屋敷も。理不尽に怒鳴り、傷つけ、命を奪おうとしてくる両親も。
そして目の前には、旦那様がいる。
──来てくれたんだ。
勝手にいなくなった私を、追いかけて来てくれた。
「シーナ!」
旦那様はまっすぐ私に駆け寄って、抱き締めてくれた。
私はもうそれだけで安心してたまらなかった。
「良かった。生きてて、くれて」
「……はい! わたくし、生きて、おります」
けれど少し経って旦那様は、私の顔を見つめて、頬に触れ、すごく怖い顔をした。
「誰にやられた?」
そう言われて初めて、私は掌で、自分の頬とか鼻とかを擦ってみる。
べったりと、血が付いた。
そうだ、さっきまでたくさん、殴られてたから。
旦那様は周囲を見回して、瓦礫の中で膝をついているミラベルの姿を見つけた。
「……貴様」
「ろ、ロウデン卿、違うの。これは」
瞬間に起きたことを、私は止められなかった。
私たちの頭上に氷塊が出現した。それは旦那様が作ったものだった。
その氷塊はミラベルのところに飛んでいって、彼女に衝突し、瓦礫の中に押し込めるように吹き飛ばした。
「がっ……! あっ! あっ!」
旦那様が、私を抱き締めた腕を解き、ミラベルの下に跳ぶ。
そして瓦礫の中から彼女の胸倉を掴み、引きずり出すように持ち上げた。
「貴様、俺の妻に何をしたか、言ってみろ」
ミラベルは頭から血を流しながら、恐怖に顔を歪めた。
「その薄汚れた手で、俺の妻に何をしたのか、言ってみろ!」
「だ、だから、ちが」
「何が違う。言えないのなら、殺す。それだけだ」
旦那様はもう本当に、ミラベルの首に手をかけ、絞め殺そうとするほどだった。
「旦那様! と、止まって、ください」
私はなんとか駆け寄って、旦那様の足元に縋った。
「み、ミラベルも、怪我を、して、います、だから」
旦那様はふっと力を抜いて、ミラベルを解放してくれた。
彼女は瓦礫の上にへたり込む。そして恐怖に顔を引きつらせながら、私にあの歪んだ笑みを見せつけてきた。
「ああ、お姉様。さすがね。あなたやっぱり、私のためのお人形さんなのね」
「貴様、いい加減に」
「ねえ、ロウデン卿? 冷静に思い出してよ。その女の一体どこがいいというの?」
激昂しようとする旦那様の袖を、私はまた引いた。
「その女、退屈だったでしょう? なんの感情も、反応もなくて、ただただ人の言うことにしたがっているだけの、人間未満。その醜くてなんの才能もない醜女と、私、どっちが良い女だと思う?」
ミラベルは怪しく光った目で滔々と語る。
「ねえ! 私を選ぶでしょ!? 選ばない理由なんてないもの! そんな、そんな、お姉様みたいなのに、この私がっ、私が負けるわけっ」
「いいや、おまえは醜い」
私はまだ袖を引いていた。
これ以上、何もするべきじゃないと思った。旦那様に手を下させることも、あってはいけないと、そう思った。
旦那様はただ、言葉だけで言う。
「おまえのような愚鈍で品性に欠け、性根が腐っている馬鹿な女など、シーナと比べるまでもない。反吐が出る」
聞いたことがないほど、冷酷で無慈悲な声。
ミラベルはそれでようやく肩を落として、臥せり、静かになった。
旦那様は私を抱き上げて、一刻でも長くここにいるべきでないと言わんばかりに、礼拝堂があった場所に背を向け、この場を発った。
しばらくの間、私たちの後ろからは、呻くようなすすり泣きが追いかけてきていた。
***
旦那様の腕の中で私は、ともすれば眠ってしまうかのような安堵感に満たされていた。それで却って私の本心が解きほぐされるようで、そして、旦那様にこうさせてしまったことの罪悪感も募った。
空が白んできた。そろそろ夜が明ける。
ほどなくして、別の、ペンフィールドにもレイヴンシェイドにも関係がない部隊が敷地に到着する。馬車から降りた彼らはただちに敷地に入り、エルリックさんやミラベル、倒れた守衛さんたちの拘束・保護を始めた。
「ロウデン卿。王宮特殊部隊ゼロハチです」
やってきた部隊の一人が、旦那様に敬礼した。
「……やはり、来たか」
「奥様の治療を我々が請け負うこともできますが」
「いや、自分で連れていく。どうせ事情は知っているんだろうが、あとで話す。シーナと一対一の聴取は許さん」
「了解です」
その人は事務的にそれだけ答えて、自らも他の隊員と同じように作業についた。
突然現れた部隊をぼんやりみつめて、私は事態が収束に向かいつつあることを理解した。
すべて瓦礫になった屋敷の跡を、旦那様はゆっくり歩んでいる。
もうじき、すべてが終わる。
「……旦那様、わたくしは、あの、わたくしは」
「いいよ、シーナ。何も、言わなくていい」
旦那様の優しくて穏やかな声に、このまま流されて包まれたいような気さえした。
「ごめんなさい。わたくしは、わたくしは」
でも、言わなきゃいけない。
ずっとずっと隠していた。頑張っている旦那様を邪魔するようなことなんて言ってはいけないと思っていた。
それを言ってどうなるでもない。解決策なんてわからない。
自分がどんな言葉が欲しいのかも、わからない。
いろんな感情と罪悪感と、全部がまとめて一緒に、涙と溢れて止まらなかった。
「旦那様がっ! わたくしと、子供の、ために、命をかけるのが、その、怖く、て」
「……そう、だったか」
「自分勝手だって! わかってる、けど。旦那様がわたくしのために、死ぬかもしれないなんて、耐えられ、なくて」
旦那様はふと立ち止まり、私の髪を静かに撫でて、苦笑した。
「やっぱり俺は、言葉が悪いな」
その微笑みは、呆れでも諦めでもなくて、どこか優しさを含ませていた。
「そうじゃない。そうじゃないよ、シーナ。俺はそんなに振りかぶって、おまえと、未来の子供のために命をかけようだなんて、大層なことを考えたわけじゃあないんだ」
「なら、なら! どうして!」
「ただ、おまえの笑顔が可愛らしかったからだ」
旦那様は、単にそう言った。
それが本当に理由のすべてなのだと、あっけらかんと示すようだった。
「シーナ、これはおまえが教えてくれたことだ。話はもっと簡単なんだ。人はそんな複雑なことに命をかけられやしない。命を懸けるみたいなことは、もっと純粋で衝動的で代償のないものだ。やり方が違うならもちろん変える。でも、これだけはわかってほしい」
あくまで優しく私の目を見て、旦那様は照れくさそうに続けた。
「俺はただ、おまえのことが好きなだけだ」
力が抜けるようで、そして、自分でもわからなかった、本当に欲しかった言葉がそれだったことが、ゆっくりとじんわりと、染みこむように腑に落ちた。
私は旦那様の胸の中で泣いた。
今日何度も何度も流した涙が、それでも足りないくらい溢れ出て止まらなかった。
けれどそれは、嫌な感じのない、辛くない、温かい涙だった。




