第22話 私の夫と取り換えてよ
音楽が止んで、ミラベルはバルコニーの方に消えた。
旦那様にはたくさんのお客様が続々とやってきていた。中には大泣きで「息子はあなたに命を救われた」なんて感謝してくださる方もいて、だんだんと私の入る間もなくなって、それで旦那様に、少し席を外すと言った。
最後にちょっとだけ、抱き締め合った。
私はその足でミラベルを追って、広いバルコニーに出た。
彼女は奥まった人気のない方にいたけれど、その姿はすぐにわかった。
ミラベルは多少やつれたって、それでも私なんかじゃまるで敵わないくらい綺麗だった。
夜ではともすれば喪服にも見えてしまうような、深い、深い紅のドレス。月明かりによく映えている。首まで肉が削がれて、私ならきっと貧相になってしまうけれど、彼女は劇場の女優みたいに艶やかさを残してる。あのふわりと広がる金色の髪は透けるように透明でもあって、アメジスト色の瞳は、未だに宝石のように輝いたまま。
やっぱり、ぞっとするほどに恐ろしく、美しい。
私はゆっくりと歩みを進めて、ミラベルの前に立つ。
彼女は静かに、力ない声で「お姉様」と呟いて、言った。
「……エルリック様が、大怪我を、したの。二度と剣を握れない。意識もたまにしか、戻らない」
虚ろに、独り言ちるように彼女は続ける。
「レイヴンシェイド家はあの方がすべてだった。お父様もお母様も全部をあの方に懸けてた。おかげで何もかもめちゃくちゃよ」
エルリックさんが若くして爵位を継ぎ、公爵家の当主となったのは、ご両親が早逝されたからだ。そういう家に嫁に行けば、公爵家の権力により強く入り込めるという目算は、きっとミラベルたちにもあった。
「傷病手当だって、遠い親戚だとかいう人に持っていかれたの。エルリック様が何もできないからってみんな、ハイエナみたいだった。勲章なんて意味なかった。誰も助けてくれない。この家にもう、未来なんてない」
けれど、裏を返せばそれは、レイヴンシェイド家というのはエルリックさんという傑物だけで持っていたということでもある。エルリックさんが動けなければ、あとは公爵家という地位を利用しようとする敵しか残っていない。
ミラベルはうわ言のように自らの惨状を口にしていた。全部既に聞いていたことで、手紙に書き殴られていたことで、もはや私の方を向いてなどいなかった。
そして彼女は、途中でかっと目を見開いて、ようやく私の方を向いて、異常なくらい明るい声に切り替わった。
「だからね、私、考えたの。お姉様、なんでもするって言ったわよね。じゃあ──」
ああ、そうだ。
私はなんでもすると書いた。もちろんそれは、ただただ、曲がりなりにも共に育った妹を助けたいという一心だった。
「──お姉様の命の魔法で、エルリック様を治して」
──やっぱり、そういうことなんだ。
そう言われて、私はむしろ合点するかのようだった。
「……エルリックさんがそんなことを望む方には、見えませんでした」
私がそう言うと、ミラベルは私を打った。
「勝手なこと言うのね。あの方は剣がすべてなの。誰の命より。あなたの命より、私の命よりもね」
「……でも、わたくし、旦那様を、残して、行きたくは、ありません」
またミラベルが私を打つ。
次は一回だけじゃなかった。何度も、何度も、打たれた。
「黙りなさいよ! あんたが私に口ごたえすんじゃないわよ! 私、あんたのそういうとこ、ほんっとに! 嫌い!」
髪の毛を引っ掴まれて、また、打たれて、綺麗な顔を近づけられて、叫ばれる。
「全部あんたが悪いのよ! あの結婚式から、最初から全部おかしかった! あの方は私を見てなんてくれなかった! ちっとも愛してなんてくれなかった! あの方が見ていたのは私じゃなかった! 全部! 全部当てつけだったの!」
あんまりにも打たれるあまり、立っていられなくなって、転げて、そしたら、足蹴にされて。
「おかしいじゃないこんなの! なんてあんたばっかり幸せになるのよ! 馬鹿じゃないの人形の癖に! 醜い醜い、愚図で、不細工な、お姉様ばっかり! 馬鹿じゃないの!? なんであんたはそんなにずっと被害者ヅラなの!? 全部! 全部あんたが悪いのに!」
途中から、私の目からは涙が出てきていた。
それは痛かったからじゃなかった。
ミラベルの声があまりにも悲痛で、可哀想で、受け止める私の心まで辛くなったから。
私が泣く度、それを嫌悪するかのようにミラベルの暴力は激しくなった。
「……ああ、そういうこと。私、納得したわ」
暴力は途中で急に止んだ。
ミラベルはふと力を抜いて、何秒か制止した。
「お姉様は、ペンフィールドが戦争の英雄である、ロウデン卿との繋がりを失うことを、恐れているのね?」
「……え?」
「さっすがお姉様。そうよね。あなたは家のためにお嫁にいったのよね。でも、そういうことなら大丈夫。私、今、いいこと考えたの!」
その声色はまた、異常なほど明るくなっている。
「私が代わりにお嫁に行き直してあげる! だから、そう! 夫の取り換えっこよ! お姉様はすぐ死んじゃうけど、エルリック様には貸しができるし……あの銀狼卿も、私の美貌なら文句ないでしょ!」
ミラベルの語りは、先ほどとはまた別のうわ言のようで、私はそれでもう、彼女が正気じゃないということがわかった。
それはただただ、可哀想なことだと思った。
真実を知っても、私には家族を憎むことなんてできやしなかった。
それは、ずっとどうにかして気に入られようと思っていただとか、もしくは、何かふとしたときに、何も言わずに物を受け取ってくれたことを、認められただなんて錯覚して、嬉しく思ったりとか、そういうことの積み重ねから、逃れられてないだけなのかもしれない。
でも、私にはどうすることもできない。
私はミラベルにも両親にも逆らえないし、逆らおうだなんて思えない。
だって私の妹のミラベルは、こんなにも悲しんで、こんなにも可哀想なんだから。
「じゃあ行きましょう、お姉様。準備はしてあるわ」
伏した私の周りで、重い足音がした。
それは男性の足音だった。たぶん、レイヴンシェイド家の人なんだと思う。
私は悲しくってたまらなかったけれど、納得することだってあった。
本当は最初からこうなるべきだったのだ。私はもうとっくに死ぬべき人間で、そもそも今、幸せにあったことの方が間違いで、何かの拍子に消えてなくなるべき人間だった。
だって私が妻で、私が子供なんて産んでしまったら。
そのために旦那様は、頑張ってしまうから。
旦那様はお優しい方だ。私がこう考えてることにすら、きっと怒ってくれるだろう。
でも、そういうことも全部含めて、諦めてしまうのが良いように思えた。
「ねえ、ミラベル」
──あなたが旦那様の、新しい妻に、なってくれるというのなら。
「ミラベルは、旦那様の子を、産んでくれますか?」
「……は?」
喉が詰まる。呼吸が浅くなる。
本当は、ずっと苦しかった。
幸せなのに、苦しかった。
「わたくしは、この命の魔法を継がせたく、ありません。けれど、後継ぎは、絶対に、必要で。でも、だから、もう、どうにもできなかったの」
戦果なんて聞きたくなかった。
戦争の英雄とか、どうでも良かった。
旦那様が私と、子供のために戦うと言ってくださることが、心のどこかで納得できなくて、そうさせてしまう私自身がずっと嫌だった。
そういう苦しみと未来の不幸が今、あるべき形で終わってくれるというのなら。
それが一番いいと、思ってしまった。
「わたくしは旦那様を、縛りたく、なかったんです」
ミラベルは、とびきりに歪んだ笑みで応えた。




