第20話 いつでも俺のことを想ってほしい
まだ春の遠い寒い日が、出征の日と相成った。
旦那様は騎士礼装を着込み、私たちが見送る中、雪原のようになった前庭に一歩踏み出す。
私はそれでたまらなくなってしまった。
戦いのことなんてなんにも知らない女が、覚悟を決めた御仁を止めようなどという失礼千万を、もう止めようがなくて、私は旦那様に後ろから抱き着いてしまった。
だって、戦争なのだ。
人と人が殺し合う、戦争。
旦那様はこの戦争で、死ぬかもしれない。
出征が決まって、ずっと堪えていて、どうか何かの間違いであってほしいなんて思っていたけれど、今日という日は来てしまった。
「わ、わたくしも、戦場に、行きます」
「……すまないシーナ。我慢を、させたな」
「わたくしなら! 旦那様がどんなお怪我をしても! その、治す、こと、が」
旦那様は振り返って、私を抱きしめてくれた。
礼装が皺になるのも構わず、強く強く、抱きしめてくれた。
そうして旦那様は腕を解くと、ふっと私の首に、何かをかけた。
それは小さな袋──ロウデン家の家紋が描かれている──のついた、一本のネックレスだった。
「母の形見だ。ロウデン家の妻が付ける首飾りになる。本当は新年会で渡そうと思っていて……いや、今日も渡そうとしていたんだがな。やはり、こう、タイミングがな」
旦那様は純粋に照れくさそうだった。
それで旦那様はいつも通りに、なあ、シーナ、と呼び掛けてくれた。
「子のことが、不安だったろう」
なぜ、今、その話なのか。
私はそれをずっと口にしなかった。けれど旦那様はそのことをわかってくれていた。
でも、なぜ、今なのか。
「もっと早くにこの話をするべきだった。でもな、こうなってしまった以上は、逆に話が簡単なんだ」
強く、強く、旦那様は抱きしめ返してくれる。
「俺はもっと偉くなる。出世する。今の師団長じゃ足りない。偉くなって偉くなって、騎士団長の、その上くらいまで行けたら。おまえも、きっと未来に生まれてくる子も、守ってやれる」
その目は確かに私を見ているのに、どこか遠い、遠い大きなものを見据えているような気がして、私の心はますますざわついて、我慢なんてできなくなってしまう。
「でも、でも、旦那様」
「大丈夫だ、シーナ」
「わたくし! 旦那様に戦ってほしくない! ずっと、ずっと一緒に」
旦那様はぱっと腕を離して、微笑んだ。
「大丈夫だよ。俺はもう、大丈夫だ」
雪の中に、一陣の風が吹く。私の周りの雪が丸ごとふわりと持ち上がって、ひと時の間、まるで嵐の目の中にいるかのような気がした。
それは決して激しくなどなかった。冷たい氷の風なのに、私の心を丸ごと包み込んでくれるような、そんな温かさすらあった。
風が止んで、目の前にいたのは、見たことのないほどの大きさの巨狼。
綺麗な毛並みをした、氷狼が、私の目の前で佇んでいる。
その狼は鼻筋を優しく私に当てて、私はそれがぜんぜん怖くなんてなくて、抱き締めさえした。
──いつでも、俺のことを想ってくれ。
どこかから、そう聞こえた気がした。
もう一度風が吹く。雪で視界が遮られる。気づいたときには、目の前には何もいない。
そうして旦那様は、戦争に行ってしまった。
***
一週間が経って、旦那様から、戦場に到着した旨と、なんと戦果の報告が一緒に送られてきた。
重要な拠点の防衛に成功したそうで、旦那様の第二師団は、この戦争で一番乗りの勲章を授与されたらしい。
***
一カ月経って、また戦果の報告が送られてきた。
今度は魔獣暴走の鎮圧についてのもので、これはロウデン領まで届いていたくらい有名な話だった。なんと隣国は魔獣の暴走を煽ることで、戦況の打開を図ろうとしたというのだ。その影響は王都中心に激しく及んでいて、このままでは戦争は継続できても民間人の犠牲者が出ることは必至と言われていた。
それを、第二師団が完全に鎮圧したそうだ。
その他にも戦果は多数あって、第二師団、引いてはその師団長アルヴェンダール=ロウデンは、戦場の象徴へとなりつつあった。
***
三ヶ月が経った。
近頃はロウデン本邸への客人が増えていた。旦那様が戦果を挙げるたび、真冬にもかかわらずたくさんの人が祝いの言葉を述べに来て、騎士団の関係者以外も毎日ひっきりなしにやってきていた。中には旦那様に命を救われた人、というのも多数いた。
誇らしかったか、嬉しかったか、と聞かれれば、よくわからない。
軍人である夫の活躍なのだから妻は喜んで当然だし、国のために旦那様が頑張っていることについてケチをつけるだなんてことを、できようはずもない。
でも私はそんなことよりも、旦那様に無事に帰ってきてほしいということしか考えられなかった。そういう意味で、戦果というのは、旦那様の無事を確認できる数少ない機会でもあった。
それで、ある手紙に、今までの戦果を凌駕する大戦果の報告があった。
なんと旦那様は、単身敵の本陣に乗り込み、敵軍の将と王子を捕らえてしまったそうだ。
その戦果を称えて与えられたのが、聖十字勲章。王国の中でも最高位の勲章であり、箔どころじゃない、英雄の証だった。
ロウデン本邸は歓喜に湧き上がった。
お義父様も、使用人たちも、みんなみんな、今までの不安の裏返しかのように喜んだ。
私はその最中にお義父様に尋ねた。
「お、お義父様。これで戦争は、終わるのでしょうか」
「……わからん。だが、聖十字勲章は戦争の勝利か終結にもっとも寄与した戦士に与えられる勲章だ」
お父様の言ったことは当たっていた。
その手紙を境に戦争は終結に向かう報道が増え始めたのだ。
そうして雪解けと共に、王国と隣国の休戦協定が結ばれた。
実質的には隣国側の降伏とも取れる内容らしい。
そして、銀狼卿の二つ名は、戦争の英雄として、歴史に刻まれることになった。
***
肌寒さが残るけれど、確かに春の陽気が差してきたころ、ロウデン本邸の門に、見慣れていたはずの影が立っていた。
そろそろとは聞いていて、毎日毎日私は部屋から門を眺め続けて、幻視すらして、それでようやく見られた姿だと思ったころには、私はもう駆け出していた。
階段を降りた。部屋着が引っ張られて破れそうで、でもそんなこと気にせずに、転けたとかもわからずに、目まぐるしい中をとにかく走って、玄関を出る。
そうしたら、開いて、閉じようとする門の前に、いた。
本当に、いた。
帰ってきた。
「旦那様!」
私は飛びつくように駆けて、旦那様を抱きしめた。もうどうしていいかわからないくらい泣いた。
「お帰り、なさいませ。旦那様」
「……ああ。帰ったよ、シーナ」
「お、お怪我は?」
「なんてことないさ。ぴんぴんしている」
旦那様は腕を広げて見せてくれる。頬には布が貼り付けられていたけれど、本当に、大きな怪我はなく見える。
私はそれでも涙が出てきた。
もうおんおんと声を上げて泣いていたくらいだと思う。
──本当に、帰ってきてくれたんだ。
抱きしめても消えない。
私を確かめるように、抱きしめ返しさえしてくれる。
──私の、旦那様。
後ろからお義父様と、使用人さんたちも駆けてくる。
そのあとはみんなで泣いた。それから笑った。
みんなで泣いて、笑ったのだ。
***
その一週間後に、ペンフィールドの実家から手紙が届いた。
ミラベルの夫のエルリックさんが、重症を負って帰還したそうだ。
容体自体は安定しているが、ある程度回復するまでにも数年はかかる見込みだとか。
少なくとも、二度と剣など握れないとのことだった。




