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第14話 好きな菓子を言え

 謹慎期間の間、私と旦那様はたくさん、とにかくたくさん話をした。


 昔からずっと屋敷の中で育ってきた私には、話せるようなことなんて何もなかったのだけれど、ほんの些細な私も、旦那様は見つけてくれた。


 たとえば、私は私のことを声では「わたくし」と言う。これはそう躾けられたからだったけれど、実は思い返してみれば、心の中では私は私のことを「私」と言っている。話しているうちに、そういうことがわかった。


 ──心の中まで躾けるなんて、何者にもできない。


 旦那様はそう言ってくれて、私は救われるようだったけれど。

 心に嵌った何かの枷が、私が救われることを阻止しているかのようだった。


 そんな折、旦那様が、


「シーナ。好きな菓子はあるか?」


と聞いてきた。


 私はそれに、


「停留所前のカヌレが、いいです」


と答えた。


「あのカヌレか? なぜだ」 


「旦那様がお好きだと聞きましたので」


 旦那様はそれを聞いて、パっと顔を伏せる。


「……俺の好みなどどうでもいい。おまえの好き嫌いを聞いている」


 最近の私は、こう言われたときに、謝罪をするべきではないと学んだ。

 本当に旦那様は、ただただ私の好みを聞いていて、きっと、そのお菓子を共に食べようと言ってくれているだけなのだ。


 つまり、聞かれているのは、私がどうしたいかということ。


 私という人間が何か。


 私にはどんな意思があるのか。


 それは私にとって、単に平謝りするよりずっとずっと難しいことだった。


「わかり、ません」


 だから、そう答えてしまう。

 旦那様は決して残念そうな顔などしなかったけれど、どうしたものかとは思案させてしまった。


 こういうことがある度、考えてしまう。


 ──あなた、そういう服の意味とか、なんにもわからないのにね。


 ミラベルが言ったあの言葉は本当だ。


 私には、なんの意思もない。



***



 マイラさんが停留所前のカヌレを買ってきて、私と旦那様と三人でお茶をすることになった。


 最近は庭にテーブルを出して、そこで食事をしたり、小さなお茶会を開いたりしていた。

 停留所のカヌレは、見目麗しい旦那様の好物と言うには意外なほど庶民的な袋に詰められていて、マイラさん曰く、買ってから四十分の今が一番美味しい、というタイミングで食べることになった。


 幼い頃の旦那様は、ご両親ともそのような時間を楽しんだそうだ。


 私はそのカヌレを渡された一つだけ咀嚼して食べた。


 齧る。中からチョコレートのクリームが出てくる。それが零れたり、舌ですくうと下品だから、齧って空いた穴を上の方に向け、たまに多くクリームを飲みつつ、ゆっくり食べていく。


「たいへん、美味しゅうございました」


 それで食べ終わって、微笑んでみせる。

 旦那様はほほ笑み返してくれる。

 私はこの時間が好きだった。なんにもない空っぽの私が、旦那様の優しさに触れて、何か、意味のある人間のようにいられる時間。

 この時間がずっと続けばいいのに、とすら思う。


 

「……嘘だな」



 けれど旦那様は、はっきりした声──決して冷たくはない──で、そう言った。



「正直に言え。おまえ、特にこれを美味いとは思ってないだろう」



 時が止まった。

 まるで心臓を射抜かれたようだった。


 喉から奥に空気が行かない。呼吸が苦しくなる。きっと私は目を見開いている。


「いや、違う。言い方が悪かった。すまない」


 旦那様が慌てて訂正して、恰好を崩すようにしてくれたから、私はようやく呼吸ができた。

 マイラさんが背中に手を置いてくれて、心臓の拍動を押さえて、息を整える。


 旦那様は私の準備が整うまでまってくれて、その上で、続けた。


「実のところおまえは、味の区別はついても、『美味い』ということがよくわからないのだろう?」


 それはまさしく、図星だった。

 私がずっとずっと、隠し続けてきたこと。


 料理はできる。味はわかる。


 けれど、自分が何かを美味しい、と思うことが、ない。


「で、でも、わたくし、お菓子が、嫌いなわけでは」

「わかっている。責めるつもりなどない」


 ミラベルの言葉が脳裏に響く。


 ──なんの意思もないお人形さん。


「ち、違うのです。わたくしは、わたくしは」

「すまない。俺はとかく言い方が悪い。おまえを責めたいわけじゃないんだ」

「そんなことは、なくて、悪いのは、わたくし、で」

「大丈夫だ。おまえはきっと、単に、少し当事者性を失っているだけだ」


 狼狽する私の手を、旦那様は握ってくれた。


「大丈夫。おまえは何も感じていないわけじゃない。感じることを自分のこととして受け止めてしまっては、生きていけない環境にいた。ただ、そういう原因があるだけだ」


 旦那様は私の口元に、もう一つのカヌレを持って、近づけた。


「もう一度、食べてみろ」

「でも」

「いいから。別に腹がいっぱいなわけじゃないだろう?」


 私はそれに従う。

 カヌレを受け取って、端を齧る。


「何を感じた」


 私は正直に答えた。


「甘味があります」

「……違う」


 旦那様はそれを否定する。


「それはおまえが、甘いと感じたんだ。甘味があるのではない」


 また、呼吸が止まる。


「大丈夫だ。大丈夫だから」


 旦那様が、カヌレを持っていない片方の手を握ってくれる。

 私はまた促されて、カヌレを齧る。


「食感は、どうだ」

「その、外が、硬い、です。思ったより硬い、です」

「そうだな。それは心地いいか、不快なのか言え」

「え、えっと」

「大丈夫だから、言ってみろ。それはおまえが決めることだ」


 浅い呼吸をする。そのたびに旦那様は私の手を強く握る。


「心地よい、気がします」

「そうか。中からチョコレートが出てくるな? それはどうだ?」

「こ、これも、甘い、です」

「苦くはあるか?」

「それはっ、えっと、えっと」

「大丈夫だ。大丈夫だから」


 旦那様は何度も大丈夫と言ってくれた。


「ちょっと、苦い、です」

「じゃあ、生地の部分と、チョコレートの部分と、どっちが甘い」

「それはっ」


 呼吸が乱れる感じが変わっているのが、自分でもわかる。


「どちらも、甘くて、でも、苦いのも、あるから」


 私の頬からは、いつの間にか。


「硬いのも、あって」


 信じられないほどの大粒の、涙が流れていた。


「美味しい、です」

「……そうか」


 旦那様は優しく微笑んで、私が食べ終わるまで、見守ってくれていた。

お読みくださり、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
"感じることを自分のこととして受け止めてしまっては、生きていけない環境にいた。" これは心に突き刺さる。この言葉の中には彼が自ら果てしない考察をしてその結果にたどり着いたんだという、まさに止まらない愛…
>信じられないほどの大粒の、涙が流れていた。 私も子供の頃、親の顔色を伺いすぎて自分の好みを押し殺してきていたため、ここでグッときてしまった。 自分の意見を人に言うのを躊躇ってしまうのだよね。 …
あまりにも心まで虐待されすぎて、可哀想すぎて、涙無くして読めません。旦那様に気づいてもらえて良かった
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