2 初めてのメイドは狐
「それじゃあ早速仕事にとりかかってもらうわ。まずはメイド服に着替えて欲しいの。付いて来て」
アリスに言われ栗狐は彼女の後に続く。屋敷1階エントラスの東廊下へ歩く。無駄に長い廊下で部屋の扉が点在している。それらの部屋は物置だったり備蓄置き場にされていた。
また廊下の半分の所でトイレもある。
部屋の反対側からは朝日が差し込み、窓からは森林を見通せる。もっとも景観はそこまでよくない。何せ手入れもろくにされていない森なので雑草は伸び放題だ。
栗狐は周囲をキョロキョロしながら首を傾げた。
「思ったのじゃがここにはアリス嬢しかおらぬのか?」
彼女の言葉にアリスはドキリとしてしまう。
「ほかにメイドがおると思ったのじゃがな」
「え、えーと。まだ屋敷を建てたばかりでこれから雇うつもりなのよね~。あははー」
先日にメイドらが一斉退職したなど口が裂けても言えなかった。
「そうなのか」
栗狐が特に気にしてる様子もなかったので、アリスはほっと胸を撫でおろす。
廊下の一番奥には上へあがる階段があり、その手前の部屋に更衣室が設けられてあった。
アリスはその部屋に手で触れてあけた。
「ほう。指紋認証とな」
屋敷のオーナーということで調子に乗って作った機能である。彼女ならば全ての部屋を鍵なしで入れる。
更衣室へ入るとこれが広い。およそ40畳はあり、1人1人に与えられるロッカーは完全個室。部屋に窓はなくメイドのプライバシーを最大限に遵守されていた。大量のメイドを雇うつもりでいたのでこれくらいは必要だったのだろう。
もっとも今はその個室全て空いているが。
アリスは一番近くの個室を開けると、中には大きなロッカーに全身鏡、小さな机と椅子まで用意されている。電源ももちろん完備されている。
「ほう。中々よいではないか」
栗狐もこれには少し驚いて目を丸くさせた。
アリスはロッカーを開けて中から白と黒の純白のメイド服を手に取って彼女に押し付けた。
「あなたは今日からメイドなんだからメイド服着てがんばってよね」
「うむ!」
栗狐はそれを嬉々として受け取った。アリスは着替えの邪魔をしないように個室を出て待機する。のだが、急に個室から悲鳴があがった。
「アリス嬢! 服の着方が分からんぞ!」
「和服は着れるのになんでメイド服は着れないのよ!」
「着慣れた服と同じにするでない! 手伝っておくれ!」
アリスは頭痛を覚えたが必死に堪えて彼女が着るのを手伝った。
だがメイド服となった栗狐を見てその態度は一変する。白と黒のコントラストに茶色の髪と何よりケモミミが生えていたのだ。おまけに栗狐の見た目は幼い少女というのもあり、エリスは過去一番の映えていると思った。残念ながら尻尾はロングスカートで隠れてしまい、先っぽが少しだけ出ているだけだ。
「どうじゃ? 似合うかのう?」
「最高だわ。最高の人材よ、栗狐!」
この時ほどアリスはメイドを雇ったのに誇りに感じた。最早過去のメイド全てを置き去りにしたのだ。
「ふふふ。こんな美少女メイドと暮らす屋敷生活。いい、いいわ」
今までの鬱憤が消え去ったかの如く、にやにやした顔をする。
栗狐も彼女が満足してくれたので満更でもなく嬉しそうな顔をした。
「さて。メイドとなった栗狐は今日からメイド長になってもらうわ」
メイド長とは文字通りメイドの長であり、他のメイドを束ねる存在である。
威厳と卓越された技術で部下をサポートし、失敗もケアするという相当な熟練が求められる。本来ならばその道の経験を求められるが今はメイドが1人もいない状態なので彼女に任せる他なかった。
アリスは栗狐にこの屋敷のマスターキーを手渡す。
「それを使えば全部の部屋に入れるから、掃除する時は使って頂戴」
「分かったのじゃ」
当初では不安しかなかったアリスだったが、こうしてメイドが増えると不安が嘘のように消えていった。やはり持つべきはメイドである。
2人は更衣室を出て廊下を歩いた。
「それで儂はこれから何をすればよいのじゃ?」
その質問は栗狐にとって至極真っ当だった。何せメイド経験ゼロの完全未経験である。
掃除のあれやこれから、料理の逐一まで何も分からないのである。
だからこそそれを教えなければならない。
「えーと。雑巾かけ?」
アリスは適当に答えた。そもそも屋敷のあれこれは全て今までのメイドに任せていたので、どこにどんな道具があるか、どういう風に掃除をしていたかも知らない。
料理に関してもど素人だ。できるアドバイスなどほぼない。
「ふむ、了解した。要は屋敷を綺麗にすればよいのじゃろう?」
分かっているのか定かではないが、アドバイスもできないのでアリスも苦笑いしてとりあえず彼女に任せようと思った。
「あ。そうそう大事なこと言い忘れてたわ」
アリスは思い出したように手を叩く。
それで屋敷のエントランスに戻り、中央の大きな階段を上がって2階へ来る。階段を上がった先に立派両扉があった。ドアには『空室』の二文字のプラカードが垂らされている。
プラカードをひっくり返すと『使用中』の文字に変わる。
「ここは私が普段使ってる部屋なんだけど、これが使用中の時は絶対に入らないでよね」
アリスは絶対の部分を強調して言った。
「エッチなことでもしておるのか?」
栗狐が純粋に疑問に思って首を傾げる。
「そんなわけないでしょ! ここで配信してるの! だから配信中に邪魔されたら困るのよ! こう見えて結構な有名人なんだから」
栗狐にマスターキーを渡したので当然ながらこの部屋にも入れる。しかしそうなれば完全に配信事故となろう。
「承知承知。儂とて個人の時間を邪魔せんよ。それくらいのプライバシーは遵守しておる」
それを聞いてアリスはほっとした。
「私はこれから配信するから、栗狐は屋敷の掃除でもしてて頂戴」
「了解じゃ」
栗狐は返事をすると階段を降りてその場を後にした。アリスは若干不安になりながらも『使用中』に変えて部屋に入った。
中はダンスホールのようになっていて、壁も床も真っ白。一番奥は壇上になっていて大きなスクリーンとマイクやスピーカーが用意されている。
PCは最新、カメラやデュアルディスプレイ用にととにかく豊富に機材が揃っている。
部屋は完全防音対応。ネット環境は有線で速度も良好。
配信に不要な物は一切なく、それは彼女が配信時は仕事モードになるからだった。
アリスはゲーミングチェアにゆっくり腰を下ろしてデスクトップの電源を入れた。
「今日こそは配信しないと」
昨日はメイドの一斉退職という大イベントのせいで配信ができなかったのである。
とはいえ今から配信するのは完全にゲリラ配信となる。普通は宣伝をしてから配信するのが一般的で突発的な配信は余程な人気者でないと成り立たない。そう彼女のように。
アリスは準備を済ませて、深呼吸して目を瞑る。仕事モードに切り替えるルーティンだった。ゆっくり目を開けると特大なスマイルをつくった。
「ハロハロワンダー! 皆のアイドルのアリスちゃんだよ~」
彼女は配信中でもアリスを名乗っている。本来、こういう場で本名を名乗るのは危険極まりないが、アリスという名前と金髪慧眼という点で誰もが童話のアリスのコスプレだと信じてやまない。アリスという名前もありふれていたので問題はないと本人も思ったのである。
【わこつ】
【わこつです】
【わこつ~】
【ハロハロワンダ!】
【アリスちゃんだ!】
ゲリラ配信というのに一瞬でコメント欄が流れていく。だがアリスはその流れるコメントすらも目で追っていた。
【昨日はどしたん?】
【何かあったの?】
コメントで様々な憶測が飛び交う。
「心配かけてごめんね~。ちょっとショッキングな出来事があって1日寝込んでたの~」
ある意味嘘ではないがファンの前で不安な顔を見せないようにと愛想笑いを振りまいた。その笑顔は見る物のハートを掴むこと間違いなし。
【生きててよかった】
【話聞こか?】
【アリスの配信見れたらそれでいい】
そうしたコメントはアリスにとっても活力になる。だがその事情を話すわけにはいかない。
というか話せば一生ネタにされるだろう。ある意味界隈では正しいかもしれないが。
「もう大丈夫だから平気だよ~」
にこっと笑顔を見せる。実際新たなメイドを雇えたのでその言葉に噓偽りはなかった。
【今日は何するん?】
【ゲーム配信がいい】
【ダンス見たい】
【飯テロ希望】
彼女は人気になる為、色んな配信をした。1つ芸に特化してるわけではないが、年幼いという点、見た目のよさからファンにはそれも愛嬌として親しまれている。
「ん~。そうだな~。今日は歌枠にしようかなーって思ってるよー」
【歌ったの1月前だもんね】
【アリスの生歌助かる】
【歌枠キター!】
何をするかはある程度事前に決めているが今日は完全に気分だった。特に昨日の出来事を忘れる為に思いきり歌って忘れたいという気持ちがあったのだろう。
「何歌おうかな~。希望ある~?」
そしたらコメント欄に様々な曲名が勢いよく流れた。有名なのからマイナーなものまであったが、その殆どはアリスは知っていた。
何を歌うか悩んでいる彼女だったが、そんな後ろで扉が思いきり叩かれていた。
ドンドンドン! ドンドンドン!
強く叩かれる音は完全に録音されていた。
【何か音鳴ってる?】
【すごい音してる】
【親?】
【悲報、アリス様実家暮らし】
などとコメントが流れる。さすがに焦ったアリスは慌ててミュートボタンを押す。
「宅配かもしれないから出て来るね~」
そうコメントを残して席を立つ。両扉のロックを解除して開けると目の前には栗狐が息を切らして立っていた。
「アリス嬢、大変なのじゃ! この屋敷にカップ蕎麦がないぞ!」
手には大量の備蓄のカップ麺を抱えていて床にぼとぼと落としている。
「栗狐。今配信中だから入らないでって言わなかった?」
若干怒り気味だ。しかしそんな変化を気に掛けるほど、目の前の狐っ子は繊細でもない。
「そんなことよりも蕎麦なのじゃ! 儂は蕎麦がないと生きていけぬのじゃ! ラーメンは嫌じゃ!」
アリスはそもそも掃除はどうしたのかや、屋敷の物を勝手に食べようとしていたのかと様々な情報が頭に流れてツッコミを入れたくなる。だがここは冷静にならねばならなかった。今は配信中だ。
「部屋を無断で開けなかった点だけは褒めてあげるわ。でも、今は忙しいから適当にして頂戴」
マスターキーを持っているので開けようと思えば開けれたのだ。しかし栗狐はそれすらもどうでもよさそうに詰め寄る。
「ダメなのじゃ! 儂は油揚げか天ぷらの入った蕎麦がないと嫌なのじゃ!」
「知らないわよ! だったらコンビニでも行って買ってきなさいよ!」
「遠いのじゃー。面倒じゃー」
幼いメイド狐が駄々をこねる。見た目は可愛らしいだけに余計にたちが悪い。
アリスは彼女を配信に使おうか迷ったがやはり出すべきではないと脳内で即答する。
「もう。とにかく今は忙しいから後にし……」
アリスが扉を閉めようとしたが、栗狐は間に挟まって牽制する。あまりの俊敏さにアリスがギョッとした。
「待て! もう1つだけ! アリス嬢はどれが食べたいのじゃ?」
カップ麺を拾って笑顔で見せて来る。そもそも配信をしてるので食べてる暇などない。
「いらないから。勝手に食べてて」
「ダメじゃ! 儂はアリス嬢と一緒に食べたいのじゃ!」
最早子供である。
「ああもう! じゃあ豚骨でいいから勝手にしなさい!」
それを聞いて栗狐はにっこりして部屋を後にした。アリスはどっと疲れて椅子に戻った。
コメント欄には心配の声や憶測が飛び交っている。彼女はミュートを解除した。
「ごめんね~。大きな荷物が届いて時間かかちゃった~」
猫被りは彼女の得意技だ。そんな偽物の笑みに多くの視聴者を虜にしてきたのである。
【おつおつ】
【生アリス様を見られるとは何ともうらやま】
【何買ったの?】
【歌まだー?】
ドンドンドン! ドンドンドン!
また扉が叩かれた。
「あれ~今日はよく荷物が届くな~」
笑顔の彼女だったが目は完全にひきついっていた。
その日、結局栗狐が何度も邪魔をするので配信所ではなかったのは言うまでもない。