知っている人には分かる
「泥だらけになって帰って来た時と城で報告を受けた時は何事かと思ったが、何も怪我もないようで良かったよ。でもそれだけ楽しかったという事なのかな?」
屋敷に帰って来た際、泥だらけになったヒナノを抱えて馬車から降りてくる僕の姿を見て屋敷の中が騒ぎになった。その騒ぎの原因は、僕が不用意にヒナノを抱いたせいなんだけど、あの時は急な御者のせいでそこまで頭が回らなかったし、引くに引けない理由があったからだった。でも、そのせいで誰かが大げさに父様に報告したらしく、慌てたように父様が帰って来てしまった時は、こっちが驚いてしまった。
今まで剣術の授業で服に土埃が付くことはあっても、学院にはしっかりと着替えが用意されているし、その服だって担当の人が洗っておいてくれる。バルドと町を散策したとしても、食べこぼしの汚れをべったりと付けて帰ったことなんてもなかった。それに、兄様の召喚獣が屋敷で暴れた時でさえも、物はよく壊れたりしていたけれど、泥に塗れた姿なんて見た事なかったようだ。だからこそ、僕がまた良からぬ事に巻き込まれたのではないかと、皆で心配したようだった。
「うん、楽しかったよ…!」
あっちで少しだけ問題ごとがあったり、キール達と一緒にいる所を見られてしまったけれど、僕の屋敷にいる客人だと説明していたのもあってか、御者から3人の事は報告されてないようだった。だから、みんなの心配を晴らすように、知らない町を散策できて楽しさを伝えるために元気な声で返事を返そうとするけれど、途中で嘘をついているという罪悪感が少しだけ混じってしまい、最後の方だけ声に変な力が入ってしまった。すると、その声の違和感を感じ取った父様の顔が再び不安げに変わる。
「どうした?泥のせいで、風邪でもひいてしまったか?」
「大丈夫だよ!そもそも、泥は服にしか付かなかったし!」
一緒に遊んでいたわけでもなく、ただ汚れたヒナノを胸に抱いただけだったから、乾ききっていない分の泥が服についただけで、他にはどこも汚れていない。だから、部屋に戻って着替えだけで僕は終わっている。でも、僕に泥を付けた元凶であるヒナノは、丁寧にブラッシングで乾いた泥を払い落とした後、メイド達に問答無用で全身を洗われている最中だ。
「アル。そんなに心配しなくても、男の子なんてみんなそんな感じらしいわよ。オルフェやリュカは歳が離れているからなかったけれど、バルド君とクリス君と歳が近くて一緒に遊ぶ事が多かったから、小さい時は泥だらけで帰って来る事が多くて大変だとラザリア様がおっしゃっていたわ」
「そういうものなのか…?私も授業の一環で大勢の魔物と戦った事があるが、その時でさえもあれほど汚れたりはしなかったと思うのだが…?」
「それはアル達だけよ…?私の時まで語り草になっていたけれど、同じように夜営をしているはずなのに、アル達だけは全く汚れてなかったって。私だって、当然無傷じゃなかったわよ」
「私としては、貴族として相応しい装いを保っただけなのだが…。今にして思えば、途中で見かけた者達が妙に薄汚れていたな…?」
母様が過去に体験した課外授業の件を出せば、父様の方も当時の事を思い出すようにして呟く。だけど、兄様も自分と同じようなものだったのか、チラリと視線を向けるけれど、何の反応も示そうとしない兄様の態度を見て、少し言葉を濁しながら答えていた。でも、いくら汚れる事を嫌っていて馴染みが無いといっても、魔物と戦ってでさえも汚れないのは凄いと思う。
「自分基準で判断して早とちりして、あまり周りの方に迷惑を掛けないようにしてね」
「……わかった」
僕も別に叱られていたわけではないけれど、なぜ自分が注意を受ける立場になるのかと、腑に落ちないような顔をしながらも、一部の仕事を放り出してきたのは事実だからか、素直に返事を返していた。だけど、そんな父様の様子を見ている僕の横で、兄様だけは僕の方をじっと見つめていた。
「本当は何処に行っていたんだ?」
食事を終えて自分の部屋へと戻ろうとする際、途中まで一緒に行くと言った兄様と並んで廊下を歩いていたら、暫く経ってから兄様がおもむろに口を開いた。
「な、何の話?」
全てを見透かした様子で言うけれど、知られているわけがないと、僕は何を言っているのか分からないという態度でとぼけた。だけど、兄様には効果がなかったようで、すぐに証拠でも突きつけるかのような言葉が飛んでくる。
「共に遊んだにしては、服に付いていた汚れが少なすぎる」
「えっ?」
「帰って来た際のヒナノの汚れを見たが、共に遊んだならばあの程度の汚れで終わるわけがない。つまり、あの汚れは少なからず乾いていたという事だ。だが、夏場でも表面の泥が乾くまで2、3時間は掛かる。それだけ長い間、リュカがヒナノの汚れを放置しているとは思えない。ならば、リュカ達はその時間に他の場所にいたという事だ」
「お、落とす場所がなくて…?」
騒ぎを聞き付けて、兄様が少し様子を見にやって来たのには気付いていたけれど、あの時に見たヒナノと僕の汚れの違いという僅かな証拠だけで、まるで実際に見ていたかのような推理をする兄様。だけど、それを素直に認めるわけにもいかず、僕は苦し紛れな事を言うけれど、そんな言葉が兄様に通用するはずがなかった。
「従魔を飼育、管理する場所で、そのような場所がないはずがない。それに、先ほどから罪悪感を感じているようだからな…」
人の心情とかを理解するのは苦手そうなのに、僕の心の機微だけは正確に理解しているかのように、ジロリとした目で的確に言い当ててくる。ここで言い訳したとしても直ぐに見破られそうだけど、これは僕だけの問題ではないために、どうしようかと迷っていると兄様が少し声を和らげて行った。
「リュカが言いたくなければ詳しくは聞かない。それに、聞いたとしても父上に今の事を報告するつもりはないから安心しろ」
「どうして?」
「先日の一件で、こちらが注意をしていても不測の事態一つで危険になる事が分かったからな。だから、リュカ自身の解決能力があった方が良いと思い、様々な経験をさせたいとは思っている。だが、危険な事をして欲しいわけではない」
いつまでも側にいて守れるわけではないとなら、僕が少しでも成長できるようにと今回の事を黙認してくれるようだった。父様を説得する時に僕の事を擁護してくれたのは、そういった思いがあったからなのかもしれない。だけど、僕が危険な目に遭うのは容認できてはいないようで、確認するように僕の腕へと視線を向けてくる。
「前に渡した腕輪は常に身に着けているな?」
「うん。それは持っているよ」
今は袖に隠れて見えないけれど、宿屋で別れる前に兄様から貰った腕輪は、あの一件があった後に父様達が僕に合わせて調整してくれて、その後はずっと付けているように言われて付けている。だけど、ネアも腕輪を常に付けているから、奇しくもお揃いみたいになってはいるけれど、そんな腕を見せながら言えば、それを確認した兄様は軽く頷く。
「それは、父上が改良を依頼して私達二人で魔力を込めた代物だ。それさえあれば大抵の事があっても守ってくれる。だから、それだけは決して外すな」
「うん。でも、よく泥の付き方だけで分かったね?」
泥とは無縁そうなのに、何でそんなに詳しく分かるのかと思ったら、兄様の機嫌が急に下がって、やたら低い声に返事が返ってきた。
「あの2匹は何かあると、証拠を土に埋めて隠そうとするからな…」
兄様に言われて、うっかり魔物を踏み潰してしまった際に必死に土に埋めて隠そうとしていた姿を思い出した。僕としては、そのおかげで今回も色々と助かっているけれど、兄様にとっては苦い思い出のようだった。
「その現場に何度か遭遇して、洗礼を受けた覚えもあるからな…」
「うわぁ…」
その時の事を思い出したかのように怒りを滲ませているけれど、きっと兄様が後ろにいた事や、悪事が知られてしまったこと。何より、その兄様に泥を掛けてしまったと知った時は、きっとあの時以上に悲壮感を漂わせていたはずだ。でも、それだけ周りが見えなくなるくらいに焦っていたんだと思うと、なんだか可哀想な気もしてくる。
「でも、父様はそんな話してなかったよ?」
「流石に泥が付いたまま屋敷に戻るわけにはいかないからな。だから、最初の頃は屋敷に入る前に魔法である程度の汚れを落とそうとしたのだが、余計に汚れが服に残ってしまってな。その度に服を処分し買い替えていたのだが、父上から母上と同じくらいに服を買う頻度が高い理由を聞かれてしまってな…」
男性も服を買わないわけじゃないけれど、女性よりは服を買う頻度が低い。それなのに、母様と同じくらいの頻度で何度も買い替えていたら、それは父様も不思議に思っただろう。
「父上には何でとは答えず、ただ汚れが付いたから捨てたとだけ伝えれば、その場は納得して下さったようだった。だが、同じ言い分は通じぬと思い、その後は色々と知識を蓄えはしたが、その経験があったからこそ今回の不自然さにも気付けた事を考えると、無駄な経験ではないということなんだろうか…」
「じゃあ、父様は本当に気づいてないの?」
何度も泥をかぶるなど貴族として外聞が悪いこともあり、手放しで褒めるような事でもないからか、兄様は何とも複雑そうな顔をしていた。だけど、それが理由で気づけたということは、全く気づいていなさそうだった父様の態度は演技じゃなかったのかと尋ねれば、兄様は暫し考えるような素振りをしてから言った。
「父上はそういった経験がない方だからな。どれだけの泥が付くかなどお分かりにならなかったのだろう。それに、母上も庭の手入れなどで多少は土に触れていると言っても、令嬢である以上は泥だらけの物を触った経験などないだろうから、今気づいているのは私だけだろう。それに、父上はリュカが嘘を付くと思っていないからな」
あまりにも現実的じゃないことなら、兄様の言う通り父様は僕の言う事を何でも信じてしまいそうではある。
「だが、相手が父上ならば、些細なことでも気付かれる可能性が高い。だから、明日もまた出かけるのであれば注意した方が良い」
「分かった!バルド達にもそう伝えておくね!」
冷静に状況を分析しながらも助言をくれる兄様に元気な返事を返せば、兄様は自分から言った言葉に複雑そうな顔をしていた。
「あまり染まらないで欲しいものだが、交流関係にまで口を出すのも何か違うからな。だが、何かあったら、私の都合など考えず直ぐに私を呼べ」
「うん!分かった!」
兄様の気遣いに感謝しながら甘えていたけれど、町で起こった騒動の事をこの時に話しておけば良かったと後になってから思った。
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