逃げることは
屋敷に帰って来てから今日で2日目だけど、未だに父様が屋敷に帰って来る気配がない。僕達みたいな移動手段がないから、この前の件の報告も王都にまだ届かないのだろうと兄様が言っていたけど、帰ったら屋敷に戻っていると言われて期待してしまっていた分、どうしても落胆は大きい。だから、僕達が向こうに行った方法を知る前に言った言葉だったとしても、それを言ったアドさんの事を恨みそうになる。
「とうさま…いつ帰って来るかなぁ…」
「そんなの知らないわよ!」
僕が誰ともなしに呟けば、僕の分のお菓子を食べていたティから機嫌が悪そうな声が返って来た。
「まだ怒ってるの…?」
「当然でしょう!人の事を置き去りにして帰っておいて、こんなので許されると思わないでよ!!」
今日の分のお菓子も譲っているのに、お菓子で頬を膨らませながら、まだ僕達が宿に置いて行った事を怒っていた。
「でも、あの時のティはよく寝てて起こすのも悪いかと思ったし、アドさん達も宿に残っているなら、後は1人でも問題なく帰って来れるでしょう?」
空を自由に飛べるティには、町の周囲を覆っている大きな塀も関係なく、簡単に森を通って帰って来れると思って言えば、まるで見当違いな事を言われたかのような反応が返ってきた。
「そういう問題じゃないわよ!目が覚めたら特に親しくもない奴等しかいなかったうえ、アンタ達が先に帰ったって聞かされた私の気持ちが分かる!?」
バルドの知り合いというのもあったけど、本人と少し話した事があったから、そこまで知らない人という認識はなかったけど、その会話をただ聞いていただけで、あまり人間に関わりたくないと思っているティに取っては、初めて会ったような人しかいない場所に置いていかれるのを苦痛だったようだ。だけど、もし自分が逆の立場だったらと考えて、ようやくティが怒っている理由が分かった。
「……ごめんね」
「悪いと思ってるなら、明日の分のお菓子も私に譲りなさいよ!!」
「うん…いいよ…」
「それなら良いわ!」
何度目かの謝罪を口にすれば、さり気なく明日の分のお菓子まで強請ってきた。でも、それでティの機嫌が治るならと思って肯定の返事を返せば少しだけ機嫌が持ち直したようで、満足そうな声を上げながらお菓子を食べていた。機嫌よくお菓子をまた食べ始めたティの邪魔をしたら、また機嫌が悪くなるんじゃないかと思って黙るけれど、特に部屋ですることもない。かといって兄様の邪魔をするわけにもいかないし、学院から送られて来た課題の山と格闘する気にもなれない。
僕達の勝手な行動を怒った母様も、叱ったからこそ僕達の見本になろうとして落ち着いた様子を見せていた。でも、馬車の姿が見えないかと、門が見える何時もと違う部屋で1日過ごしているようだった。だけど、僕がその事に気付いたのは昨日の事があったからだ。
帰って来た事を知らせる手紙をその日のうちにバルド達へと出していた僕は、次の日のうちにやって来てくれたバルド達2人を玄関まで迎えに行ったけれど、門から馬車が入って来たのを見て、父様が帰って来たのかと様子を見に来た母様のがっかりしたような姿を見て、2人は何だが申し訳なさそうな顔をしていた。だから、今日はやって来るのを遠慮してくれているみたいだけれど、兄様と違って何も出来る事がない僕は、ただ父様が帰って来るのを待つしかない。だからこそ、暇を持て余したようにボンヤリとしながら部屋で過ごしていると、その扉をノックする音が聞こえて来た。誰だろうと思いながら部屋の扉を開けると、そこには忙しいはずの兄様が立っていた。
「どうしたの?」
「少し良い知らせがあって呼びに来た」
「?」
「あまり時間がない。だから、急ぐぞ」
わざわざ僕の部屋まで兄様自身が呼びに来るような事ってなんだろうと思いながらも、今回も少し急いでいるような様子の兄様の後を付いて行けば、何時も母様達が一緒に過ごしていた一室の前で足を止めた。すると、自身は脇に避けて僕が扉の前に立つような位置に立つと、その部屋の中が見えるようにしてその扉を開いた。
「父様!何時帰って来たの!?それに、もう良いの!?」
「つい先ほど帰ったばかりだよ。それに、容疑の方も2人がしっかり晴らしてくれたからね」
僕が興奮気味に尋ねれば、少し落ち着きなさいとでもいうような苦笑を浮かべながらも、どこか子供の成長を喜ぶような父様がの姿があった。そんな僕達の様子を先に来ていただろうドミニクが控えるように見ていたけど、真っ先に此処にいるはずの人の姿が部屋にない事に気付いた僕は、その人物の名前を呼ぶ。
「あれ?母様は?」
「私も真っ先に会いに行こうとしたのだが、ドミニクが呼んで来たオルフェに何故か止められてしまってね」
「先に母上を呼んでしまうと…リュカが父上と落ち着いて話せないと思ったんだ…」
不思議そうな声を上げる父様を前に、僕が兄様へと視線を上げれば、それに気付いた兄様からは歯切れ悪い答えが返ってきた。だけど、そんな兄様の様子に嫌な予感を感じた僕は、恐る恐る聞き返した。
「じゃあ…母様はいつ此処に来るの…?」
「奥様と仲の良いメイドに呼びに行かせていますので、もう間もなくいらっしゃるかと……」
黙り込む兄様に変わってドミニクが真剣な面持ちで答えると、僕の嫌な予感が当たっている事が分かってしまった。僕達が揃って黙ってしまい、そこからただならぬ気配を感じたのか、父様が警戒心を滲ませたような声を上げた。
「もしかして…エレナは怒っているのかな…?」
「非常に心配していましたので、無事に帰って来たと知れば安心した分だけ、その…」
ごく僅かな希望にでも掛けるような父様に、兄様も言葉を詰まらせたようにその先を口にしない。その様子に、父様は全くの希望がないことを悟ったような顔をしていた。
「普段から周囲に隠し事ばかりしているからですよ」
「なるべく不安にさせないようにするための私なりの配慮だったのだが…」
「それは配慮なのではなく、ただ信用されていないと取られるだけで逆効果かと…」
「うぅ…」
どこか突き放すように警告するドミニクにそう言われて、父様はうめき声に似た声を上げながら睨むような視線を向けるけれど、そんな目で見られても怖くなどないとでもいうような涼しい顔をしていた。でも、母様の事に気付いて隠れて帰って来たわけじゃないなら、どうやって母様に見つからずに屋敷に帰って来たのかと、その方法が気になった僕は父様へと尋ねた。
「そういえば、父様は馬車を使って来たんじゃないの?」
「いや、少し所要があってね…。城でも表ではなく裏の道を使って出て来たんだよ…。だから、馬車も使っていないんだ…」
それを聞いて、父様が帰って来た事を母様が知らない理由が分かったけど、それを聞いたドミニクがいち早く声を上げた。
「では、向こうへと連絡を入れなければなりませんね。私は先に失礼します。ご武運を…」
「お、お前…」
不吉な言葉だけを残して、我先に部屋を去って行こうとするドミニクの背に、父様の笑みが少しだけひきつった笑みを向けながら、怒りを滲ませたような声を上げていた。だけど、それを聞いてもドミニクは歩みを止める事もなく、兄様もそれに続くように声を上げた。
「父上…申し訳ありません…。私達もそろそろ…」
「も、もう…行くのか…?」
「「……」」
部屋に1人で取り残されそうになっている父様が僕達に戸惑ったような声を掛けてくるけれど、母様が心配していた事をしているうえに、ギリギリまで教えてくれなかったことに対する怒りも少しだけあったので、僕達は幸運を祈りながらも無言で答える。
僕達にまで見捨てられると思っていなかったのか、どこか悲壮感を漂わせ始めた父様を置いて部屋を出ようとするけれど、まだ触れてもいないはずの扉がゆっくりと開いて行く。それが誰か直ぐに察した兄様は、入って来ようとしている者の邪魔をしないよう、そっと壁際の方へとその身を動かしながらも、僕のこともさり気なく自信の身体で隠してくれた。
「アル。お帰りなさい」
「あ、あぁ…た、ただいま…。随分と心配と不安を掛けてしまったようだね…。すまない…」
静かな怒りに火をつけないよう、慎重に言葉を選びながら話す父様だったけれど、その答えは母様にとっては不正解だったようだ。
「心配させた事を謝るくらいなら、私達に先に相談するくらいしてくれても良かったんじゃない?」
「す、すまない…」
母様が低い声で問いただすようにして尋ねれば、父様は心配を掛けた罪悪感もあるようで、目線を下へと下げながら再び謝罪の言葉を口にしていた。だけど、父様が事前に対策を練っていたような様子があった事をこの前の時に母様に話してしまった兄様も、一緒になって罪悪感を感じたような表情をしており、部屋を出る機会をすっかりと逃してしまった僕と一緒に、気まずい思いで母様がこんこんと父様を叱る声を聞いていた。そんな時、救いとなるようなノックの音が部屋に響き、誰が来たのか期待を込めて視線を向ければ、少し前に部屋を出て行ったドミニクだった。
「アルノルド様。こちらからご連絡を入れる前に、既に陛下がお見えになったようです。取り込み中とお伝えして何とかお待ち頂いていますが、何時こちらに来られてもおかしくないぼど興奮されております…。如何致しましょう…」
「そ、そうだなぁ…」
父様へと問い掛けているようで、母様の事を伺っている様子のドミニクに父様も直ぐに気付いたようで、母様にチラリと視線を向けながら言葉を濁せば、母様もため息混じりに答えた。
「はぁ…陛下がいらしているのならば仕方ないわね…」
「そ、そうか。では、早急に向かわなければな!」
母様からの許可が出たうえに、今回の追求から逃れる事が出来る理由を得たからか、普段なら嫌がってなかなか行こうとしなさそうな事でさえも、今日は積極的に行くようだった。だけど、そんな事で母様が許してくれるわけもなく、背を向けて歩きだそうとする背中に静かな声が響く。
「夜にでも話しましょう?簡単に寝れると思わないでね?」
「……はい」
その身の毛も立つような何とも恐ろしい言葉に震えそうになるけれど、僕以外の人も同じ感想なようで、恐怖を感じたような顔をしていた。だけど、いくら父様でも母様から逃げることは出来ないようだった。
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