同じ顔
寝起きのコーヒーを飲みつつテレビの電源を入れた。糸を張るような音がして、パッと画面が明るくなる。一人暮らしにしては贅沢な五十インチのテレビは、映画好きの八恵が、こだわりにこだわり抜いて選んだものだ。
今日は休日だが午後から約束がある。それに間に合うように準備をしなけばならないが、そう急ぐこともないだろうと呑気に構えている八恵は、ゆっくりと朝食をとっていた。こんがり焼けたトーストをかじりつつ、気のない視線をテレビに向けた八恵は、
「え……」
唖然と声をこぼした。手からトーストが滑り落ち、カーペットの上に音もなく着地する。たっぷりと塗られたジャムが長い毛に絡みつき悲惨なことになっているだろうが、今の八恵にはそちらに気を回す余裕がなかった。
「なによこれ」
魂の抜けた問いかけが空気と共に吐き出された。見開かれた八恵の目は、煌々と光を放つ液晶画面にはりつけにされている。テレビの中では、八恵と同じ顔、同じ髪型、同じパジャマを着た女が、同じ所作で朝食を食べていた。ガラス張りのテーブルの上で、ブラックコーヒーを並々と注がれた北欧柄のマグカップが湯気をたて、シンプルな白磁の平皿の上には溶けたバターの染み込んだトーストが一枚乗っている。女はイチゴジャムがたっぷりと塗られたトーストを口に運び、なんとはなしにテレビへ目を向けた。女の手にあるトーストが床に落ちている状況を除けば、今現在の八恵の家とそっくりそのまま同じ状況だった。
[え……]
唖然と落とされた声が、半開きの口から落とされる。スピーカーから流れ出たその声を聴いた八恵は耐えられなくなって、乱暴にリモコンを掴み、テレビの電源を落とした。シン……と、不気味な静寂が訪れる。握りしめたリモコンは小刻みに揺れていた。
電源の落ちた大きな液晶画面は、ぽっかりと空いた暗い穴だ。なんでもない日常を突如侵食しはじめた異常な事態を前に、八恵の思考力は奪われていた。辛うじて残ったその一片が、リモコンを掴んでいない、空の腕を持ち上げさせる。八恵は無意識の内に自身の頬をつねっていた。短く切り揃えられた爪が蒼白い頬に食い込む。
「いった!」
短い悲鳴が静けさを打ち破った。我に帰った八恵は、今しがた自身の頬をつねった手の、その平を信じられない思いで見つめた。この奇妙な現象は間違いなく現実だった。
その後八恵のとった行動は、怖いもの見たさ故の蛮勇の類だったかもしれないし、真実を求める知的欲求の賜物だったのかもしれない。
八恵は震える指をリモコンの電源ボタンにかける。おそるおそる力を込めて赤いそれを押せば、細い糸が張りつめるような気配を発した後、テレビはまばゆい光を放った。知らず知らず生唾を呑みこんだ八恵が見たのは、
[本日のニュースをお伝えします。本日未明、〇〇県△△市で……]
かしこまったアナウンサーが淡々と読み上げる事件の報道だった。
緊張の糸が切れ、全身から力が抜ける。ソファの背もたれに背中を預け、
「……なんだ」
八恵は気の抜けた呟きを落とした。先程見えたあの映像は、きっと寝ぼけていたために脳が勘違いして見せた幻に違いない。
安心した八恵は、今しがた食べていたトーストが手元にないことにようやく気付き、それが自分の足下に落ちているのを認めると、情けない悲鳴を上げた。
*
昼前に家を出た八恵は、カーペットをクリーニング屋に預け、その足で最寄り駅の電車に乗った。時間帯が良かったのか、はたまた偶然なのか、電車の中は空いていて、八恵は出入り口付近の席に座ることができた。
着席するなりコートのポケットからスマートフォンを取りだしてメッセージアプリを起動する。友人から新たな連絡が来ていないのを確かめるとすぐさまアプリを閉じた。これからの予定というのは、大学時代の友人に会うことなのだ。卒業以来かれこれ一年近く会っていなかったため、八恵は予定の決まった先週から、この日を待ち遠しく思っていた。
[次は□□駅~、次は□□駅~]
車内アナウンスを聞き流しつつスマートフォンを操作する。友人に指定された待ち合わせ場所は、ここから五つ先の駅の最寄りにあるカフェだ。到着まで少し時間がある。暇を持て余した八恵は、映画のレビューサイトを開き、現在公開中のタイトルのページを確認することにした。
まずあらすじを読み、監督やキャストを確認する。それで少しでも琴線に触れたならば、その後、評価の高いレビューのいくつかに目を通す。そしてなんとなく概要を掴んだ八恵は、その映画が自身の好みに合うか否かの結論を出し、前者ならばメモを残して次のタイトルへと移動する。この方法で次に観る映画を決定するのが常だった。
記事の内容を吟味しつつ、小さな液晶画面を熱心に見つめる八恵。その耳に、
「フェアマジの新作コスメめっちゃ評価高いじゃん」
少女の声が飛びこんでくる。ハイトーンの声に集中力を乱された八恵はスマートフォンから顔を上げた。そして愕然とする。向かいの席に、八恵と同じ顔、同じ髪型をした、セーラー服の女が座っていた。
シールやラインストーンでデコレーションされたスマートフォンを、かわいらしいネイルで装飾された指先で操作しながら、
「あたしも買わなきゃ」
女は笑みを浮かべる。女は忙しなく指を動かし、絶えず画面を操作しては、一人でにこにこと楽しげな空気を放っていた。
一方八恵の頭の中には、今朝の出来事が蘇っていた。あの異常な現象を思い出すと全身が震えだし、力の抜けた手からスマートフォンが滑り落ちた。狭い車両の中に硬質な音が響き渡る。周囲の目が一斉に自分へ向けられても、八恵は動くことができなかった。いや、彼らの顔を見ることが恐ろしかったのだ。
もし、もしも、視界に入った彼らの顔が、また自分と同じ顔をしていたら? その想像は、八恵の行動を抑えつけるだけの力を持っていた。気だるい朝の空気に包まれ室内に、突如ぽっかりと口を開けたあの暗い穴が、今また目の前に現れたような錯覚を覚えて眩暈がした。
くらりと上体がかしぐ。気を失うかもしれない……そう思った八恵の思考を、現実へ引きあげる者がいた。
「スマホ落ちましたよぉ?」
少し間延びした、けれど好感の持てる声。我に帰った八恵が顔を上げると、セーラー服の少女が目の前にいた。ごてごてしたネイルの主張が激しい彼女の華奢な手には、八恵のスマートフォンが握られている。それを見た八恵は「あ……」と口を半分開き、しかし、すぐに口をつぐんだ。先程の光景がフラッシュバックし、どう対応したものか答えが出てこない。
八恵が考えあぐねていると、少女は表情を曇らせた。
「大丈夫ですかぁ? 具合悪いです?」
見ず知らずの自分の身を案じてくれる心優しい姿勢に心動かされ、八恵はようやく少女の顔を見た。
不似合いな濃いめのメイクすら愛嬌を感じさせる要素に仕立てあげる、小綺麗に整った、あどけなさの残る顔立ち。目尻の垂れた柔和な目元は、猫目の八恵とはまるで逆である。鏡で見馴れた自分の顔とは似ても似つかぬ顔だ。それを認識した八恵の胸に、生きた心地が戻ってくる。
鼻から深く空気を吸い込み口を開く。
「心配してくれてありがとう。大丈夫よ」
スマホを受け取った八恵はぎこちなく微笑み、安堵の吐息と共に謝礼を述べた。少女はまたにこやかな笑みを浮かべる。どことなく友人に似た雰囲気を持つ彼女に、八恵は好感を抱いた。
「そうですか。よかったぁ」
「スマホも拾ってくれて、本当にありがとう」
「いえいえ、これくらい当然です!」
少女は心ばかし胸を張ってそう言い残し、元の席へと戻っていった。そして何事もなかったかのように、再びスマートフォンと顔を突き合わせる。またコスメの情報を集めているのだろうか。それともSNSでもチェックしているのだろうか。真剣な表情で画面を注視する彼女の姿を見ていると、八恵の脳裏には、先程発生した二度目のおぞましい現象が、影のように曖昧な輪郭を持って立ちのぼる。ぞっと血の気の引く思いのした八恵は、人目もはばからず頭を振った。そうすると不思議なことに、幻影は霧のごとく散っていった。
なんとか平静を取り戻したものの、しかし、また元のようにスマートフォンをいじる気にはならない。八恵はすぐさま機械をしまいこみ、代わりに窓の外へ視線を向ける。早送りされたビデオテープのように流れていく近くの建造物と、一ミリも動かず同じ場所で地上を見下ろし続ける太陽を、奇妙なほどに凪いだ瞳で眺めていた。
*
目的の駅に到着して電車から降り約束の場所へ向かう道中にも、八恵は自分と同じ顔をした人間に何度となく遭遇した。
例えば、歩道の真ん中に落ちたゴミを見て見ぬふりをしたとき、すれ違ったスーツの男。または、通りがかったブランド衣料品店のショーウィンドウにうつった、物欲しげな表情の女。そして極めつけが、長い信号待ちで思わず貧乏ゆすりをしていたとき、周囲にいた年齢も性別も異なる複数の名も知らぬ人々。数えあげればきりがない。
はじめこそ気が動転し怯え慌てふためいた八恵だったが、こう何度も同じことが続けば次第に慣れてくる。思い起こせば近頃は、新規プロジェクトのチームに編成され根を詰めていた上に残業続きだったため、精神的に参っているのかもしれない。それが要因となり過度なストレスが生じ、幻覚のようなものが見えているのだろう。精神医学には明るくないが、このご時世、そのような話はそこここで耳にする。おそらくそれだろう。
根拠のない自己判断だが、原因がはっきりしたところで納得した八恵は、心中で「よし!」と気合いを入れて、しっかりとした足取りでカフェのある通りへ踏み込んだ。これ以上悪くなるようなら、精神科を受診しよう。そう心に決めた彼女の脇を、また同じ顔をした誰かが通り過ぎていく。生気の抜けた顔で途方に暮れたようにふらふら歩むその人の行き先は、一体どこなのだろうか。
*
待ち合わせのカフェは、メインストリートから外れた横道の脇にひっそりと看板を掲げていた。スマートフォンを確認すると、待ち合わせの十三時まで残り三分をきっている。慌てて引き戸を押し開けば、取り付けられたベルがチリンチリンと歓迎の音色を奏でた。どこか懐かしさ感じるその音が途絶えた途端、
「八恵ちゃんこっちだよ」
待っていたとばかりに(実際そうなのだろうが)聞き馴染みのある声が呼びかけてきた。そちらに顔を向ければ、すでにテーブルに着いた友人の香菜子が、子どものような笑顔で手を振っている。八恵は気恥ずかしくなって少しうつむいたものの、一年前と変わらぬ香菜子にほっとして、ほんの小さく手を振り返した。
「久しぶり。八恵ちゃん変わらないねぇ」
対面の席に腰を落ち着けるなり、香菜子はそう言ってきた。彼女は指輪やネイルで華やかに飾った指で、手元のティーカップをもてあそんでいる。半分ほどになった紅茶が湯気をたてていないところを見るに、店に着いてからそれなりの時間が経過しているようだ。八恵は後ろめたさを感じると同時に、今朝の失態を思い出して情けなくなった。クリーニング屋に寄っていなければ、もう少し余裕を持ってここに来られただろう。
眉を垂らし微苦笑を浮かべた八恵は、
「カナもね。待たせちゃってごめん」
と、しおらしく返す。すると香菜子は、淡いルージュの引かれた唇をゆるめ、ふんわりと人好きのする顔をした。言葉こそなかったものの、柔らかな表情から彼女の言わんとすることを汲み取った。
せっかちなタチである八恵にとって、おおらかな気質のこの友人は尊敬するに足る人物だ。物事は勝ち負けではないと知りつつも、一生かかってもかなわないと思っている。
「とりあえず、なにか頼んだら?」
「そうね。……どうしようかな」
香菜子に薦められるままメニュー表を手に取った。紅茶やコーヒーをはじめとした飲み物から、パンケーキやスコーンなどの菓子類、そしてサンドイッチといった軽食など、定番の品目が並んでいる。どれも気になるものの、あいにく腹は空いていない。無難にコーヒーを頼むことにして、八恵はテーブルに備え付けられたベルを鳴らした。軽快な音が急かすように店内を駆け回り、すぐさまウェイターがやって来る。
「ブラックコーヒーをホットで一杯、お願いします」
「それとバニラアイスを乗せたパンケーキも。生クリームたっぷりでお願いできますか?」
注文を伝えた八恵に続き「はい!」と元気に手を上げた香菜子が注文を追加する。八恵には無茶な内容に聞こえたが、ウェイターは文句もなく「承知しました」と頭を下げて、すぐさま厨房へと引きあげていった。その背中を見送った八恵は、手持ち無沙汰にテーブルの上で手を組み正面に向き直る。
「この店よく来るの?」
たずねると、香菜子は二重の瞳を微かに見張り、
「よくわかったね!」
感心したように肯定した。その驚きようはやはり一年前と同じままで、八恵は笑いをこらえるのに苦労した。
「どうしてわかったの?」
「なんとなくよ。あなたって、誰とでもすぐに仲良くなるじゃない」
これまでにも飽きるほど投げかけられた問いをなぁなぁに受け流し、八恵は頬杖を着いた。そのまま、大学時代に想いを馳せる。
二人が学生の頃、人当たりがよく穏和な香菜子のそばには常に人の姿があった。生来気が強く頑固な気質の八恵は孤立しがちであったので、そんな友人を、内心羨望の眼差しで眺めていたものだ。うらやましい……が、我を曲げることもできない。確固とした自己と屈折したプライドに苛まれ苦悶する八恵を、しかし、香菜子だけは「かっこいいね!」と肯定してくれたのだ。彼女にとっては何気ない一言だったかもしれないが、それは間違いなく、八恵にとっては救いの言葉だった。だからこそ、香菜子との関係を大切に思っていた。八恵にしてみれば、彼女こそ「かっこいい」に価する存在なのだ。
しかしその香菜子は、八恵の言葉を受けてたちまち表情を曇らせた。テーブルに乗り出していた上半身を引き、ストンと椅子に腰を降ろしてうなだれた彼女は、
「そうかな……」
と、消え入りそうな声で呟いた。暗澹とした空気が、山肌を下る雨雲のようにどんよりとテーブルの上を辿り、香菜子の並々なる沈みようを肌に伝えてくる。いつも朗らかな友人のらしくない姿に、即座に頬杖をやめて八恵は居住まいをただした。
「なにかあった?」
こういったとき、どう対応するべきなのだろうか。経験の浅い八恵にはとるべき手段が浮かばず、単刀直入にたずねた。だが香菜子はすぐには答えてくれなかった。
重苦しい空気が場を支配する中、耐えがたい沈黙がしばらく続いた。その間、他の客達のおしゃべりの声や食事をする音が周囲から紛れ込んできて、その無神経さにやきもきした。もう一分も沈黙が続いていれば、テーブルの下で貧乏ゆすりをはじめていたかもしれない。それほどの絶妙な間を置いて、香菜子はついに重い口を開いた。
「実はね、会社の人達とうまくいってなくて……」
ぽつりと言葉が吐き出された。その内容に驚いたものの表情に出すことはなく「そうなの?」と八恵は相づちを打った。コミュニケーション能力に問題を抱える八恵ですらそれなりにうまく立ち回れているというのに、香菜子に限ってそんなことが本当にあるのだろうか? うつむく香菜子のつむじを見つめ、八恵は用心深く返答を待ち構えた。
「私、ミスが多くって。迷惑ばっかりかけてるの」
「ちゃんと改善してるんでしょ?」
「うん。後から反省したり、自分なりに勉強したり、挽回できるように頑張ってるつもり」
「それなら大丈夫じゃない。それすらできない人はいるんだから」
「そうかなぁ。でもね、先輩達の中には、私のことが許せない人がいるみたい。私聞いちゃったの。『満足に仕事もできないくせに、ヘラヘラしてふざけてる』とか『若いからって調子に乗ってる』とか『顔だけのグズ』とか、たくさん。就業時間中も、私にだけなんだか冷たいし……」
「それはその人達がおかしいのよ。気にする必要なんかないわ」
友人に対する酷い仕打ちを耳にした八恵は、怒りに任せてきっぱりと言い捨てた。その先輩方というのは、容姿も性格もいい香菜子をやっかんで、つらくあたってくるのだ。なんという理不尽だろう。
香菜子は決して顔だけの女ではない。彼女が努力家だということを自分はよく知っている。いまにこの友人は、その先輩達を追い抜くに違いない。八恵はそう核心していた。
「見返してやればいい」と言おうとした瞬間、香菜子は気配もなく顔を上げた。憔悴しきった面差しは、これまで一度も見たことのない表情だった。弱りきっていながら、何故か威圧感のようなものが感じられて、八恵は閉口する。すると彼女の言葉を引き継ぐかのように、香菜子は問いかけてきた。
「ありがとう。……ところで、八恵ちゃんの方はどう?」
ドキリとした。心臓がいやな速さで脈打ちだす。目の前に鎮座する気の置けない友人のことを、これほど恐ろしいと思ったことはこの瞬間まで一度としてなかった。
八恵はこれまでの人生で一番といっても過言ではないほどに脳みそをはたらかせ、慎重に口を開く。
「私の方は、まぁ、そこそこよ。……もちろん、先輩にダメ出しされることはよくあるわ。その度『なにクソ!』って思いながら気合いを入れ直してる。だけど先輩の指摘はいつも的確だから、ただ突っぱねるんじゃなくて、素直に勉強させてもらってるわ」
「そっかぁ」
「だからって、カナのとこの先輩が正しいって言ってるわけじゃないわよ? 明らかに異常だし、なに言われてもされても、絶対に間に受けちゃダメよ?」
口を動かせば動かすほど、墓穴を掘っている心地がする。手の平にじんわりと汗がにじんでくる。周囲の無神経な音にすがりたくなるほどに、テーブルの上を支配する陰鬱とした空気は、彼女に緊張を強いていた。一方の香菜子は、身動ぎ一つせず、凪いだ眼差しをただただ八恵に向けてくる。
香菜子はこれ以上自分に何を言わせようとしているのだろう。どう振る舞うことが正解なのだろう。はやく何か言ってほしい。八恵の胸の内で、焦燥感がとぐろを巻く。
……はたして、願いが通じたのだろうか。暗い表情をしていた香菜子は不意に、ふんわりと、いつもの微笑を浮かべた。それを見た八恵はにわかに緊張をほどく。だが一瞬で、再び身を硬くした。
「やっぱり八恵ちゃんはすごいなぁ」
ぼんやりとした声で呟いたかと思えば、香菜子の輪郭が陽炎のように揺らぎだした。ゆうらゆうらと波打つ輪郭は目まぐるしく様相を変え、激しく渦巻いていく。やがて渦の中心部には暗い穴がぽっかりと口を開けた。自身の理解が及ばない現象を目の当たりにして、八恵が呆気にとられている内に、底の見えない暗闇から真っ白な霧が這い出してくる。霧は明確な意思をもって不気味に蠢き、渦巻を包み込んだ。まるで走馬灯のごとく瞬く間の出来事だったが、体感としては永遠にも感じられるほど怖気のする光景だった。
濃い霧が晴れとき、友の体には新たな顔が乗っていた。それは飽きるほど見てきた、よくよく見知った人間の顔だった。
「香菜子……」
正面の席に座る自分と同じ顔をした女を呆然と見つめる。何が起こったのか理解できずとも、今朝から続く奇怪な現象の原因を、八恵はそこはかとなく悟ってしまった。
「ごめんね。おかしな話しちゃった。今のは気にしないでね」
鏡映しの女はおどけて言う。しかし返す言葉が浮かばない。かなしみともおそろしさとも異なる、失望の皮を被ったむなしい感情が、八恵の口をふさいでいた。
「どうかした?」
女が問いかけてくる。自分と同じ顔に、薄ら寒い笑みを乗せて。なんてひどい幻だろう。自身の在り方を根底から覆されるような、起きながらに見る悪夢だった。無力感とは、このような感覚をいうのだろう。
押し黙る八恵の元に、助け船が現れた。
「お待たせしました。ご注文の品をお持ちしました」
ウェイターだった。テーブルの上に、コーヒーカップと大皿が一つずつ配膳される。カップからたちのぼるかぐわしい湯気を浴びた八恵は、今日何度目とも知れぬ意識の覚醒を体験する。幻惑の世界から帰還した彼女は、テーブルの上に視線を走らせ、横に立つウェイターに顔を向け、そして最後に正面へ向き直った。そこには、
「わぁ! おいしそう!」
歓声をあげ、パンケーキの乗った皿を子どものように見下ろす香菜子がいる。無邪気な反応に、ウェイターは表情がゆるんだ。
「ホットコーヒーが一つと、パンケーキが一つですね。ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます。アイスもクリームも、ほんとにたっぷり乗せてもらっちゃって……いいのかなぁ。イチゴも普段は一つなのに、今日のは二つある」
「オマケだって。香菜子さん食いっぷりいいから、マスターもうれしいんですよ」
「そう言われると照れちゃうなぁ」
「褒め言葉として受け取っちゃうんです、それ?」
「違うんですか?」
「あはは、どうかなぁ」
香菜子とウェイターが気安く言葉を交わす横で、八恵は親に置いてけぼりにされた幼子の気持ちを味わっていた。しかし口を挟む気にはならない。黙りを決め込む八恵に代わり、隣のテーブルから呼び鈴の音が割って入った。
「……それじゃあ、ごゆっくりどうぞ」
「はぁい。ありがとうございました」
テーブルから離れていくウェイターの背中を見送った香菜子は、ようやく八恵へ視線をくれた。
「八恵ちゃんも一口食べる?」
そう言って首をかしげる香菜子の両手には、フォークとナイフがそれぞれ握られている。照明を反射して怪しく煌めく銀のカトラリーに物怖じした八恵はぎこちなく首を振る。
「ううん。私はコーヒーだけで十分」
「そう? じゃあ、遠慮なくいただきます!」
香菜子は慣れた動きでパンケーキを切り分けると、生クリームたっぷりのそれを大きく開けた口に放り込んだ。彼女の視線の先で、閉じられた唇が一度、二度……五度動き、最後に喉が大きく隆起する。香菜子はナイフを手放した右手をゆるんだ頬に添え、
「しあわせ~」
と、口にした。どこからどう見ても、いつもの香菜子だ。それが逆に、形容しがたい居心地の悪さを生み出していて、視線の置き所を失った八恵は目を伏せる。
「そんなにおいしい?」
「ものすごくおいしいよ。本当にいらないの?」
「遠慮するわ」
そっと言葉を落として、放置されたカップに手を伸ばす。華奢な取っ手に指先を引っかけると、黒々と波打つコーヒーの温度が薄い陶器を通して伝わってくる。まだ湯気のたつ中身を口に含めば、たったの一口で、後を引く苦味が舌先を焼いた。
ただ苦いだけの液体を胃の腑に落としている間にも、向かいの席では、笑顔の香菜子がパンケーキを頬張っている。
「本当に、幸せそうに食べるわね」
「そうかな? ……そうだといいなぁ」
曖昧な言葉の裏側に、八恵は気づかないふりをする。並々と残ったコーヒーから目を背け、噛みしめるように問いかけた。
「この後の予定は決めてるの?」
「なんにも考えてなかったなぁ」
「それじゃ、映画を観に行かない? カナが好きそうなのやってるの」
「映画かぁ……いいね!」
「決まりね」
「うん! 八恵ちゃんはポップコーンって食べる? それともチュロス? 飲み物はなににしようかなぁ」
「まだ食べるつもりなの?」
パンケーキを切り分けながら、食べ物の話ばかりする友人に呆れた視線を寄越す。
「当たり前でしょ。甘い物は別腹なんだから」
「当たり前って……」
ムキになって言い返してくる香菜子に反論しかけたものの、寸前で思い留まった。思い返せば、学生時代にはこんなやりとり日常茶飯事だった。まさか社会人になってまで続くとは思いもよらず、口角が自然に上がる。
カップを持ち上げた八恵は、
「本当に変わらないわね、あなた」
笑い混じりの言葉を投げて、陶器の縁に唇で触れた。
*
帰宅した頃には、とっぷりと日が暮れていた。洗面台で化粧を落とす八恵の顔には、うっすらと微笑みが浮かんでいる。車窓越しに大きく手を振る香菜子の姿が、閉じたまぶたの裏側に、鮮明に浮かび上がっているからだ。
起き抜けからおかしなことばかりが起こった一日だったが、久しぶりに過ごした友人との時間は、なんだかんだで充実したものになった。最終電車を待ちながら意味もなく手を繋いだりなんかもして、無邪気な学生時代に二人して想いを馳せたりもした。あの頃ほどには頻繁に会えなくなったが、これからもきっと、細く長く関係は続いていくのだろう。
ぬるま湯でクレンジングを洗い流した八恵は、すっきりした面持ちで鏡を見た。薄氷のようなガラスの向こう側で、自分と同じ顔をした女がすっぴんを晒している。
「間抜けな顔ね」
思わず吹きだせば、女もまた相好を崩した。
【後書きという名のゲロ】
江戸川乱歩先生の「目羅博士の不思議な犯罪」に感銘を受け、スティーヴンソン先生の「ジキルとハイド」を読むかたわら、それぞれを拡大解釈し、パクr……影響を受けてできあがったのがこちらになります。
「目羅博士の不思議な犯罪」は不気味さと月の持つ美しさと神秘性が同居した独特な雰囲気のお話です。「ジキルとハイド」は現在読んでいる最中なので、感想は控えさせていただきます。