王子殿下の好きな人
「――さて、殿下。御覚悟はいいですね」
ヨアキムが怒っている。わかりづらいけれど、いつもの笑顔に見えるけれど、長い付き合いであるヘレナにはわかった。
事件の後、部屋に戻されたヘレナは一通りの診察を受けた後、大きな怪我はないとの診断を受けた。そして、部屋の外に騎士付きという体制でその日は休まされた。廊下だけでなく窓側にも兵士が付く徹底ぶりに恐縮したのだが、あんなことがあった後なので心強かった。
次の日、ヴィルヘルムに呼び出され、執務室に向かうと、笑顔で青筋を立てるヨアキムの向かいに、なぜかヴィルヘルムと並んで座らされたのだった。
「ヘレナもだよ」
「な、なんの?」
ヨアキムの見えない圧に恐る恐るヘレナが聞き返すと、ヨアキムは俯いて眉間を揉み出した。
「――話にならないな。ヘレナ。僕はしばらく迷子にならないようにと伝えたよね」
「ま、迷子にはなっていないわ。きちんと元来た道がわかるようにしながら戻っていたもの」
「なるほど。そうか、僕の言葉が足りなかったか」
ヨアキムは、ふうっとため息をつくと、今回の誘拐未遂の経緯を教えてくれた。
ヘレナが考えていたとおり、「大人」たちの間では、ヴィルヘルムの妃は公爵家の双子のどちらかになるだろうというのが大筋の見方だった。公爵家は、前公爵に王家から王女が降嫁した名門で、王子の妃を公爵家から出すとなれば、どの派閥の貴族たちも口の挟みようがなかった。
しかし、ここにきて双子が王子でない相手と婚約してしまった。
そして、残ったのが侯爵家とはいえ、大した力を持たないヘレナ姉妹だった。
こんな力のない侯爵家を本当に王家が妃に選ぶだろうか。
それなら我が家にもチャンスはあるのではないか。
そう考えた一部の貴族は、今なら王子に取り入る隙があるのではないかとヴィルヘルムに娘をあてがおうとし始めた。
ただ、急に降って湧いたようなうまい話に、適齢期で、さらには婚約者もいない娘がいる貴族は少なかったし、せいぜい夜会で強引にヴィルヘルムと踊ったり、娘をアピールするくらいのものだった。
しかも、ヴィルヘルムが全く誰にも靡かないのを見て、ここ最近はやはり侯爵家から妃を取るのではという意見が大勢を占め始めた。
しかし、それを善しとしない者がいた。
ある貴族が、王子に近づくように命じたその家の令嬢だった。
何故か、自分が王子に選ばれると思い込んだ令嬢は、父親が、やはり王子は諦めて婚約者を探そうと言っても納得しなかった。
父親に黙って急に王城に現れたり、自分がまるで王子の恋人であるような内容の手紙をヴィルヘルムに送りつけて来たりし出したのだ。
事態を重く見た王家は、父親に命じてそう言った行為をやめさせたが、そうすると次は、仲の良い幼馴染の文官に面会するという名目でやって来るようになった。
そして、王子の最も近くにいるヘレナに目をつけた。
「まあ、まだ実行犯と彼女のつながりが全て解明したわけではないけれど、十中八九間違いない。とりあえず今、父親同伴で取り調べ中だよ。大方、街で素性のよくわからない奴らを拾ったんだろう。何でそんな奴らを拾えるのかも含めて調査中だけど、元々素行は良くなかったみたいだね」
確かにヘレナを閉じ込めていた男たちは、ヴィルヘルムの顔を知らなかった。
「で。どうやって王城の中まで引き入れたのかは、早急に聞き出すつもりだけど、今回王城内でこんな事件が起きたことを陛下も重く見られている」
それはそうだろう。ヘレナは、国王陛下まで煩わせてしまったことに、身の縮む思いだった。
だが、ヨアキムは事件の概要を話し終わると、ヘレナのことはちらっと見ただけで、ヴィルヘルムに向き直った。
「じゃあ、殿下。今回、騎士を待たずにお一人で突入したことは後ほど騎士団長からお話しいただくことにして、ここでは不問にしましょう。二度とやっていただきたくはないですがね。で、先程申し上げた通り、さあどうぞ」
「――ああ。……うん、……その、そうだな」
なぜか、ヴィルヘルムは、しどろもどろだ。ヘレナが不思議に思ってヴィルヘルムの方を向いた瞬間ーー。
「あーーー!」
怒っている時でさえ、常に冷静なヨアキムの突然の大声にヴィルヘルムとヘレナは揃って肩を震わせた。
天井を一度仰いだヨアキムは、二人をもう一度見据える。前屈みになって膝の上で手を組んだヨアキムの目は完全に据わっていた。
「殿下。私が、廊下に出て100を数えます。いいですか。その間に終わらなかったら、私だけでなく、廊下で待機している護衛やメイドや書類の決裁を待っている役人や、その他諸々も部屋に突入させます」
――な、何? 戦闘が始まるの?
ヘレナは、なんのことだがさっぱりわからない。だが、ヴィルヘルムは、姿勢を正すと真剣な顔でわかったと頷いた。
その様子に満足した様子のヨアキムは、ひとつ加勢して差し上げましょう。と言ってヘレナに向き直った。
「いい。ヘレナ。カティも成人したし、近々結婚する」
「……ええ」
その話は、やはり胸が痛む。
「その相手は、僕だ」
「――? え?」
ヨアキムは、自分の胸を指差すと、殿下もご存じだと続けた。思わずヘレナがヴィルヘルムを振り返ると、戸惑いがちに頷いていた。
「――ああ。それはもちろん知っている。というか幼い頃からそうなると思っていた」
「え? ええ?」
戸惑うヘレナにはもう目もくれず、何故、今その話をというヴィルヘルムにも答えず、ヨアキムは「きっちり100ですよ」と言うと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「ヘレナ」
呆然とヨアキムの出て行った扉を眺めていたヘレナはヴィルヘルムに声をかけられて、その真剣な声音にびくりと肩を揺らした。
恐る恐る振り返ると、床に片膝を立てて跪いているヴィルヘルムがいて、ヘレナは仰天した。
「殿下! どうなさったのですか」
「ヘレナ、結婚してくれ」
「……え?」
ヴィルヘルムは、自分を立ち上がらせようとヘレナが伸ばした手を取った。あまりの優しい触れ方にヘレナはぞくりとして思わず手を引っ込めかけたが、それはヴィルヘルムが許さなかった。
ヴィルヘルムの顔は真剣そのもので、強い目でヘレナを見据えている。
「初めて出会った頃からヘレナしかいないと思っていた。愛している」
「どうして……? 私では……」
ヘレナは、花嫁候補ではなかったはずだ。こんな年上の薹のたった王妃などありえるはずがない。
「大丈夫だ。反対するものは、今回の事件をきっかけに一掃できる。ずっとこうしたかったんだ」
そう言うと、ヴィルヘルムは徐に立ち上がると、そのままヘレナをぎゅっと抱きしめた。
「結婚してくれ」
「殿下……」
いいのだろうか。自分のようなものが王妃になって。
「――いいから、もうヘレナはいいって言ってよ。どれだけ調整したと思ってるの」
部屋の入り口から聞こえた声に、二人は驚いて離れた。
「ヨアキム!」
「100だけと言ったでしょう」
ドアにもたれかかるようにヨアキムが立っていて、その後ろに気まずそうな顔の護衛騎士とメイドが控えていた。更に後ろには、ヨアキムが言っていた「書類の決裁を待っている役人」がいるのだろうが、考えたくなかった。
「いいですか。殿下。ヘレナは全く気づいていないと何回も忠告したはずです。そりゃあ殿下は頑張っていましたよ。でもヘレナの鈍感さは一筋縄じゃいかないんですよ。カティだって言っていたじゃないですか」
そして、ヨアキムはヘレナに向き直った。
「いい。ヘレナ。なんで歳が離れた僕とヘレナまで殿下のお世話係になったのか。それは、殿下がどうしてもヘレナと結婚したいと言ったからなんだよ」
「え?」
お世話係になった時、ヴィルヘルムはまだ四歳だったはずだ。
「もちろん、周りの大人たちだって、子どもの戯言だろうと思ったさ。だから同年代のカティや双子たちもお世話係にしたんだ。だけど、ヘレナありきの人選だったんだよ」
ぽかんとした顔でヨアキムを見上げるヘレナの手を、横からヴィルヘルムがとった。優しく握りながら、もう一度ヘレナと目を合わせる。
「ヘレナがいないならお世話係などいらないと駄々をこねたんだ。その時、大きくなったらきっと気持ちは変わるけれど、それでも小さい時からずっと面倒を見てくれたお世話係なのだから、ヘレナを邪険にしてはいけないと周りの大人に約束させられたんだ。だけど、俺の気持ちはずっと変わらなかった。いや。あの頃より、今の方がずっと真剣に愛している。こんな俺だけれど、どうかヘレナ、受け入れてほしい」
喉が詰まって、声が出ない。
「ヘレナ」
ヨアキムに、促されてヘレナはなんとか声を絞り出した。
「――はい。殿下、私もお慕いしております」
「本当か!」
「よし!」
ヴィルヘルムの声に、ヨアキムの大きな声が重なる。
揃って振り返ったヴィルヘルムとヘレナに対し、急に仕事用の口調で話し始めた。
「では、婚約発表と式の用意に関する書類を用意しております。陛下及びヘレナ嬢の父侯爵閣下は、この後、昼過ぎに応接間に揃われます。それまでに――」
パン!と手を叩くと、役人たちが入ってくる。机の上に、何枚もの書類が並べられ、役人たちは壁際に下がった。
「こちらの婚約誓約書、婚姻予定書、更に、殿下には今回の事件に関する調書、その他諸々お目を通していただいて、サインをいただければと存じます」
――幼い頃から、お世話係のまとめ役だったヨアキム。彼に、はい! 時間がないので急いで! と急かされ、甘いムードが飛散した二人は慌てて、書類に取り掛かったのだった。
次回エピローグで完結です。