王子殿下の婚約者
自分の気持ちを持て余しつつも、日々成長し立派になっていくヴィルヘルムを見守るのは、ヘレナの生きがいで、気がつけばヴィルヘルムも成人を迎える日が近づいて来ていた。
ヘレナもすっかり古参の侍女だ。
上の弟も無事結婚が決まった。ヘレナが家にいては、弟の妻も気詰まりだろうから、自分の選択は正しかったのだと思う。
アルヴィとエルモも、ヴィルヘルム付きの騎士となり、「お世話係」もそろそろ解散の兆しを見せていた。
思春期の頃はそっけない態度をとることが多かったヴィルヘルムだが、ここ最近は以前のように笑顔も見せてくれるようになった。
ーーしかし気がかりなことはある。
年を経るにつれ、ヴィルヘルムの婚約の風向きがおかしくなってきたのだ。
まず、ヘレナが二十五歳、ヴィルヘルムがあと一年で成人という時に公爵家の双子の姉の方が婚約した。相手はヴィルヘルムではなかった。
この婚約はヘレナにとって非常に意外なものだった。相手もそうだが、そもそも王子の花嫁候補と目されていたのに、王子の婚約者が決まらない状況でこんなにあっさり他の者と婚約できるものなのだろうか。王子より二つ年上とは言え、現実的に考えて王子の妃候補はこの公爵家の双子のどちらかだと思っていたのだ。
「殿下、よろしいのですか」
だから、ヴィルヘルムと二人になった時、お茶を注ぎながらふと聞いてしまった。
「何がだ」
「ユリアナ様です。この度婚約が決まりましたでしょう」
ヴィルヘルムは不思議そうな顔をして、お茶の注がれたカップを持ち上げた。
「よいもなにもめでたいことじゃないか。俺にとっては幼馴染でもあり、親戚でもあるからな。お祝いを考えなくてはと思っているところだ」
そう言ってカップを口につける。この頃には十七になっていたヴィルヘルムは一層精悍になり、社交界でもヴィルヘルムに憧れる令嬢は多いのだが、何故か全く浮いた噂を聞かない。
公爵家の双子の姉ユリアナの婚約にも思うところはないようだし、では妹のヨハンナが本命なのだろうか。
「ヨハンナもこのまま行けばうまくいきそうじゃないか。そちらの祝いも考えなくてはならないな」
「え?」
「なんだ」
「ヨハンナ様もお相手がいらっしゃるのですか?」
「知らないのか」
意外そうにヴィルヘルムに聞き返され、はあと答える声は我ながら間が抜けていた。
おそらくカティは知っているぞ。と言われ、ヘレナは戸惑った。
この言い方だとおそらく相手はヴィルヘルムではない。
ヴィルヘルムやカティより二つ年上の公爵家の双子は昨年成人を迎えており、いつ結婚してもおかしくない。だが、来年に控えたヴィルヘルムの成人を待たずに、婚約してしまうとはどういうことだろう。
――まさか。
カップを置いて「美味かった」と部屋を出ていくヴィルヘルムに頭を下げながら、ヘレナには残った答えはそれしかないと思えた。
「まさか」
目の前の男性は、ため息をつくとカップを置いた。
ヘレナが相談したのは、ヨアキムだった。王子の側近を務めるヨアキムとは今でも日常的に顔を合わせている。幼馴染で同い年のヨアキムは、今でもヘレナが一番気軽に相談できる相手だ。ヴィルヘルムに対する自分の気持ちは相談したことがないけれど。
ヘレナが思い当たった可能性。
それは、ヴィルヘルムの相手は妹のカティなのではということだった。
これまで公爵家の双子を結婚相手だと思っていたのは、身分的に二人の方が釣り合うからだ。王家に比較的近い血統の公爵家とヘレナやカティの末端侯爵家では家柄が全く異なる。
でも、本当に?
事ここに至って、はっきりとヘレナは気づいてしまった。自分の気持ちに。それはとても恐ろしい事だった。
もし、結婚相手がカティだったら?
公爵家の双子と結婚したなら、職を辞して家に帰れば良い。王宮の侍女の職歴があるのだ。父や弟の迷惑にならないよう、自分の生活の糧を得ることくらいできるだろう。
そうすれば王子とは関係のないところで生きていける。
でも、王妃の姉になってしまったら、ずっと幸せそうな二人を見守っていかないといけない。
それに、自分は耐えられるのだろうか。
自分の浅はかな気持ちを自覚してしまった今では、それはとても耐えられないことのように思えた。
「――聞いてる? ヘレナ」
物思いに耽っていたヘレナは我に返った。いけない。自分がお願いして相談に乗ってもらっているのに。
そんなヘレナの様子を見たヨアキムは、ふっと笑った。
「結婚相手はカティじゃない。それはあり得ないからね」
「じゃあ、どうして公爵家のお二人じゃなかったの?」
「どうしてその二人だと思ったんだかは、今は聞かないけれど、結婚相手については、側近の間ではきちんと動いている。ただ、確かに公爵家のお二人だったら起きなかっただろう調整は必要なんだよね」
「じゃあ、お相手候補はもう決まっているの」
「うーん」
ヨアキムは、片眉を上げてヘレナを見た。
「ヘレナは殿下の結婚相手がどうしてそんなに気になるの?」
「え?」
ヘレナは動揺した。自分の気持ちをヨアキムに伝えていいものだろうか。ヨアキムはヴィルヘルムの側近だ。八つも年上のヘレナが、王子に邪な想いを抱いていると知ったら、どう対応するだろう。幼馴染としてか、側近としてか、それによって対応は異なるだろうし、その間で苦しむかもしれない。
「……だって、殿下も来年成人よ。それなのに、公爵家の二人が急に婚約されるから」
「ヨハンナ様の婚約はまだ決まっていないよ」
「そ、そうね。でも殿下はもうすぐとおっしゃっていたわ」
「……それ誰かに言った?」
「いえ、相手も知らないし、事情もわからないし、誰にも言っていないわ」
「ならいいけど」
ヨアキムが、表情を引き締めたので、ヘレナも緊張してしまう。
その様子を見て、ヨアキムはヘレナの方に体を傾けた。
「いい? 殿下の結婚相手には利権が絡む。公爵家の双子のような難癖の付けづらい相手でない限り、必ず反対勢力がいる」
「――ええ」
「だから、まだ正式決定ではないヨハンナ様の婚約も含めて、殿下の婚約に関係しそうな事項については、慎重に扱っている」
わかるよね。というヨアキムにヘレナも真剣に頷いた。
「――まあ、ヘレナは半分もわかってない気がするけれど、うん、まあヘレナがこの調子の方がこっちも都合がいいこともあるんだよ」
ヨアキムは、お茶をもう一口飲むと立ち上がった。
「とにかく、ヘレナは心を乱さず、毎日いつも通り過ごすこと。いい?」
「わかったわ。でも何か動きがあったら教えてね」
「もちろん」
ヨアキムはにっこりと笑うと、執務に戻っていった。