初めての王城
ヘレナが王城にあがることとなったのは、十二歳の春だった。
そういえば、ヘレナが初めて王城で道に迷ったのもあの日だった。
その日、ヘレナはただの付き添いだった。
四歳を迎えたばかりの国の第一王子の「お世話係」候補を集めて、顔合わせのお茶会が開かれた。王子殿下と同じ年の末の妹とその二つ上の弟を連れて、ヘレナは王宮の遊戯室にいた。
第一王子の「お世話係」となれば、我が子の将来は安泰ではないか。そう考えた大人たちの中には目をぎらぎらとさせてこの日に臨んだものもいたが、純粋に王子に同じ年頃の友達を作ってあげたいという王妃の意向と、ある事情によって、この遊戯室には子どもしか入れないこととなった。各家の付き添いの侍女も禁止だ。しかし、王家側の侍女はいるとは言え、集まったのが幼児ばかりでは収拾がつかないので、上に兄姉がいる場合は、成人していない場合に限り付き添いとして同席することを許されていた。
中には、親から弟妹をしっかりアピールしてくるように厳命を受けている様子の子もいたが、そこは王妃や周りのものがうまく対処し、遊戯室は本当に幼児の遊戯室となっていた。
侯爵家とはいえ、重要な役職に就いているわけでもなく、特に大きな野望もないヘレナの両親は、今日は子どもたちが王宮を見学できる良い機会だくらいにしか思っておらず、ヘレナにも弟妹が怪我をしたり、させたりしないように注意しなさいとだけ伝えていた。
今も、少し離れたところで顔見知りの伯爵家の次男と騎士ごっこをやっている弟を横目に監視しつつ、妹のおままごとの相手をしている。三十人ほどが集められた室内は、遊戯室というよりはホールに近い大きさで、子どもたちの笑い声や騒ぎ声がそこここに響いていた。
第一王子はその中を順番に遊びながら回っているようだが、当時の王子には一つ問題があった。
「うえーん!」
……まただ。
大きな声を上げて泣き始めたのは、弟と同じ年頃の男の子。その様子を見てヘレナは同情を禁じ得なかった。
おもちゃの剣を傍に落とし、尻餅をついて泣いているその子の隣には、その子より頭一つは小さい男の子が同じおもちゃの剣を手に仁王立ちしている。
周りの子らもお付きの侍女もオロオロするばかりで遠巻きだ。
「なんだ。よわいな」
四歳の妹と変わらない年頃のあどけない顔から辛辣な言葉を吐いているその子こそ、この国の第一王子ヴィルヘルムだった。
そう、剣術にも長け、齢四つにしてかなりの学問を理解する天才と言われる王子は、相手に対する手加減というものを知らなかった。不幸にも三代続けて王子の教育係を務めていた老執事が半年前に亡くなってしまった。王子を日頃から愛情かけて育てていた一番の功労者が突然いなくなったことで、王子の苛烈さは一層増し、侍女や果ては王妃が咎めても言うことを聞かないそうだ。
困り果てた王妃が、同世代の子どもたちと交わる中で社交性を養って欲しいと開催したのが今日の集まりなのだ。
大人を入れない事情と言うのも、王子が暴れたりそれに対して誰かがなんらかの反応をしてしまい、万が一「不敬」にあたることが起こってしまっても大事にならないようにするためだった。
この調子だと、こちらに王子が回ってくるまでにはまだだいぶ時間がかかりそうだ。ヘレナは一旦立ち上がると屈んで妹の耳元に口を寄せた。
「――ねえ、カティ。まだお時間がかかりそうだから、一回、お花摘みにいくにはどうかしら」
「行かない。カティ、おしっこしたくな――」
大きな声で答えるカティの口を慌てて塞ぐ。
四歳と言う年齢を差し引いても、カティは貴族令嬢にしては真っ直ぐすぎるきらいがある。
「……わかったわ」
ヘレナは諦めてもう一度腰を下ろす。
ふと手元に影が降りてきたのに気づいて顔を上げた。
「ヨアキム!!」
同じく影に気づいたカティが嬉しそうに影の主に飛びついた。
「やあ、カティ。今日もかわいいね。――ヘレナも久しぶり」
幼なじみのヨアキムは伯爵家の長男で、ヘレナの弟のアルヴィの相手をしているエルモの兄だ。ヨアキムはヘレナと同い年だが、伯爵家の跡取りとして教育されているせいか、ずっとしっかりしていてそつがない。どちらかと言うといかついタイプのヘレナの弟たちと違って、スラリとした王子様のような風貌で、カティはヨアキムが大好きだ。
「ヨアキム、一緒に遊ぼう」
今日もヨアキムの手をひき、せがみはじめた。
「ああ、もちろん。――ヘレナ、しばらく僕が遊んでいるから少し外しても平気だよ」
「……ありがとう。ヨアキム」
さすがだ。「お花摘み」に行きたかったのは、ヘレナの方なのを察してくれたのだろう。ヘレナはありがたく部屋の外に出る。王宮付きメイドがやって来て、案内してくれた。用事を済ませて出てくるまで待っていてくれて、また部屋まで送ってくれる。さすが王宮。至れり尽くせりだ。
――と思いながら、部屋のドアが見えてきた時、部屋の中から泣き声が聞こえた。
ヘレナは嫌な予感がした。
まだしばらくかかりそうと思ったヘレナの読みが外れたのかもしれない。ヨアキム一人で三人の面倒は荷が重いだろう。
ヘレナは、無作法でないギリギリの速度で部屋に急いだ。
――嫌な予感は的中した。
部屋の中で、件のヴィルヘルム王子とカティが向かい合っている。カティの肩に手をかけたヨアキムと、一歩離れたところに肩を寄せ合っているヘレナの弟アルヴィとヨアキムの弟エルモ。
そして、泣いているのは――。
「殿下!」
なんと泣いているのは、ヴィルヘルム王子だった。カティは、王子と向かい合って、腰に手を当てて仁王立ちだ。どうやらカティがこれ以上前に出ないようにヨアキムが抑えてくれているらしい。
「姉様!」
いち早くヘレナに気づいたアルヴィに期待を込めた声で呼ばれて、ヘレナは肝が冷えた。
しかし、そんなヘレナの気持ちを幼児たちが理解できるはずもない。
泣いていた王子も含めて一斉に皆の目がヘレナに向けられた。
近くで見た王子は、四歳とは思えない完成された美しさだった。金色の髪に藍色の瞳。吸い込まれそうなその瞳と目があって、一瞬時が止まる。
「ねえさま!!」
カティの声に我に返る。こちらへ駆けてくるカティは未だ怒りが冷めやらぬ顔をしている。ヘレナはへその上がぎゅっと縮こまるのを感じた。カティが部屋に響き渡る声で叫ぶ。
「ねえさま、きいて――」
そのカティの「きいて」は今ここではどうしても聞けなかった。ヘレナはカティの口を塞ぐと、片手でカティの口を押さえたまま王子に挨拶をする。
いつの間にか泣き止んだ王子は、いまだヘレナのことをポカンとした顔で見つめていた。その顔は年相応に可愛らしく、先程のは目の錯覚だったのかのように、あどけない表情だ。
「はじめまして、ヴィルヘルム第一王子殿下。お目にかかれて光栄です。――私、あの、ちょっとお花摘みに……!」
口を押さえられたカティはバタバタと暴れていて、押さえつけるのに限界を感じたヘレナは咄嗟にそう言うとカティを抱えて部屋を飛び出した。