お妃様の手作りばれんたいん教室
念願のイベント企画、やっと当日にアップできました。
世の中にはバレンタインというものがあるそうで‥‥。
「姉様!」
突然、部屋に飛び込んできた妹に、ヘレナは仰天した。
「カティ。ここは王城なのよ」
ヘレナは時の王子妃だ。ヘレナに会おうとしたら、幾つもの面倒な手続きが必要なはずだ。そもそも事前に知らされていない客がいくら妹とは言え部屋に飛び込んでくるなんてありえない。
「わかってるわ。今日は王城に上がる日だったのよ。ヨアキムに、王子殿下は公務で手が離せないから姉様の相手をするようにって言いつかったのよ」
夫である王子に仕える側近ヨアキムはヘレナの幼馴染で、同時に妹カティの夫でもある。
概ね、カティが姉に会いたいと言ったのを、ヨアキムがうまく調整したのだろう。そうでなければ幼い頃からお世話係として登城しているとは言え、警備の騎士もメイドも、誰も動じず、止めないなんてことはありえない。
ヘレナはため息をついて「用事はなあに」と聞いた。
「姉様。バレンタインって知っている?」
「ばれんたいん?」
「そうよ! その日には女性が意中の男性にチョコレートをあげるのですって?」
「え? どうして? なぜチョコレートなの? 他のお菓子ではだめなの?」
「もう姉様ったら。そんな細かいことはどうでもいいのよ」
そうかしら? どちらかというと根本的な疑問だと思うけれど。
ヘレナはそう思ったが、妹の勢いには勝てない。
「だから私たちもバレンタインしましょう!」
と言うカティに、ただ苦笑を浮かべることしかできなかった。
とは言え、今や王家と伯爵家に別れて暮らしている姉妹がどうやって一緒にチョコレートを用意するのだろうか。
「じゃあ王家に呼んでいる商人からあなたも買う?」
「違うわ! 作るのよ!」
「――作る?」
ヘレナは目を丸くした。
「姉さま、いらっしゃい!」
「ようこそ。お妃様を我が家にお迎えでき、光栄でございます」
その日は、王子妃であるヘレナが妹の婚家に遊びに行くという名目で、ヘレナは外出した。
出迎える使用人たちに笑顔で応えながら、ヘレナは内心冷や汗をかいていた。
まさか今回の訪問の目的が「ばれんたいんの手作りチョコ」だとは、完璧に身なりを整えたこの執事には言えそうもない。
曖昧な笑顔で応えながら、ヘレナは案内されるがままにカティの部屋に向かった――が。
「ええと……、ここは」
「厨房でございます」
ヘレナが通されたのは、なぜか厨房だった。
実家でも王家でもヘレナが厨房に立ちったことはない。しかし通りかかった際に中を見るくらいのことはあり、ここの厨房はそれに比べて随分と整えられている印象だった。
「僭越ながら、本日、菓子作りの指南役を務めさせていただきます料理長のテルホでございます」
帽子をとって深々と頭を下げるテルホのほかにも、菓子作りを得意とする者たちですと言って数名の料理人が並んでいた。
カティはヨアキムと共に、公爵邸の別邸に暮らしている。
夫婦二人だけで暮らす別邸に菓子作りを得意とする料理人がこんなにいるとは思えないから、ヨアキムの父伯爵の住む本邸からも呼び寄せたのではないだろうか。
――これは、思っていたよりも本格的だわ。
ヘレナは内心冷や汗をかいた。
「テルホの作る料理はとってもおいしいのよ! デザートも絶品だから、菓子作りの先生には最適よ!」
どうやらカティの暴走は伯爵家に嫁いでからも続いているらしい。
ヘレナは、巻き込まれている料理人たちに同情した。
「それは有り難いことだわ。感謝します。今日のお料理は大丈夫なの?」
「妃殿下にお言葉をいただけて恐悦至極に存じます。奥様が無理のないようにとおっしゃってくださったので、本日の夕食はマリネや煮込み料理などあらかじめ作り置きできるもので対応させていただいております」
「そ、そう。カティが悪いわね。必要があれば王城の料理人から取り寄せることもできると思うから次回からは相談してね」
ヘレナは、連れてきている侍従に声をかけて、次回以降はお土産に見栄えもする料理を持参したいと伝えた。
料理人たちは感激していたが、ヘレナは妹の暴走に対するお詫びの気持ちだった。
「では妃殿下こちらを」
伯爵家の侍女が差し出してきたのは、どうやらドレスの汚れを防ぐエプロンのようだった。
「これもカティが?」
「いえこれは主人から言いつかりました。奥様には、内密にお願いいたします」
声を潜めてささやく侍女にヘレナも小さな声で答える。
「――そう。わかったわ」
主人というのは、カティの夫ヨアキムのことだ。そうだろうなとは思ったが、カティの企みはヨアキムには筒抜けのようだ。
こっそり用意して夫を驚かせようと思っているカティをがっかりさせたくないという気持ちはヘレナも一緒なので、侍女の言うとおりカティには黙っておくことにした。
おそらく今日、ヘレナが着ているワンピースもヨアキムの手配だろう。朝の支度の際に侍女が持ってきたワンピースは、私的な訪問だからという理由で妃としては最大限簡素なものだ。差し出されたエプロンにもぴったりであらかじめ決められていたとしか思えない。
「姉様、準備はいい?」
見れば、カティもヘレナのものとよく似たエプロンを付けている。くるくると回って、自分のエプロンを披露している。
「姉様! どう? ヨアキムに内緒でお菓子作りをして驚かせたいって言ったらみんな協力してくれたの」
もうすでに内緒ではなさそうよとは言えないヘレナは、使用人たちを伺ったが、皆表情を変えない。
さすがだ――。
カティはご機嫌で料理長と話している。
「では、妃殿下、奥様。バレンタインの菓子製作をはじめさせていただきます」
「よろしくね」
帽子をとって挨拶をする料理長とご機嫌に返事をするカティ。
ヘレナはとりあえず難しいことは考えないことにした。
菓子を作るのは初めてだが、きっと良い経験になるだろう。
菓子作りは順調だった。
順調になるように料理人たちがかなり下準備をしてくれたことにヘレナは途中で気づいた。料理長に視線を送ると、料理長はヘレナの言いたいことに気付いたようだ。そっと片目を閉じて、人差し指を口に当てた。気づけば、皆、ご機嫌で菓子作りをするカティをにこにこと見つめている。
ヘレナは妹が婚家でこんなにも大切にされていることに胸が熱くなった。
「ねえ、料理長。あとは焼いたら出来上がり?」
「ええ、奥様。ただ熱いと形が崩れやすいので、しばらく冷まさないといけません」
「そうなのね!」
「オーブンから出すところをご覧いただいて、冷ましている間に妃殿下とお茶をお召し上がりください」
いつに間に用意したのか、厨房のテーブルがティーテーブルに整えられて、お茶の用意がされていた。
「まあ! どうもありがとう!」
カティは、にこにことテーブルについた。厨房でお茶をするなんて、貴族の家の女主人としては、どうなのかと思うが、カティは全く気にしないらしい。この気さくさと天真爛漫さが使用人に愛されているのかもしれない。カティのわがままは、人を傷つけないのがいいところだとヘレナは思っている。
いかがなさいますかと聞いてきた侍従に、自分もここでいいわと伝えて、ヘレナも席についた。
オーブンから出したものを置いておくこともあるこのテーブルは、オーブンから焼き上がる菓子を見る絶好の場所だった。
ヘレナとカティの残した材料で手早く焼いた焼きたての菓子とお茶が出されて二人は歓声を上げた。
「先ほどの材料をそのまま使っていて、厨房から直接ですので、毒はありません。……一応、私が毒見も兼ねて味見はしてあります」
若いシェフの言葉にヘレナは思わず吹き出した。随分とお気楽な毒味役だ。
オーブンから菓子を取り出すのをカティがやりたがったが、流石に許可は出なかった。少しでも危険があることを、カティを溺愛するヨアキムが許可するわけがない。何かあると妃殿下にも危険が及びますからと言われてカティも渋々諦めた。
出てきたお菓子に身を乗り出したカティは歓声を上げそうになったが、「冷めてからが完成」というシェフの言葉を思い出したのだろう、ふうっと息をつくと背筋を伸ばして座り直した。
「冷たい水を張ったたらいに濡れないように深い器に入れて浮かせておきます。きちんと冷えたら完成ですよ」
失敗は許されない工程なのだろう。料理長は説明しながらも、カティやヘレナには触らせず、自分でたらいに菓子を浮かべた。
「奥様、今のうちに包装を考えましょう」
冷やしている菓子に今にも駆け寄りそうなカティをタイミングよく侍女が引き止める。
なるほど、カティの扱いをよくわかっている。この伯爵家別邸の侍女を取り仕切る侍女頭は、ヘレナが幼い頃から伯爵家にいて、ヨアキムと幼馴染であるヘレナとも顔見知りだったが、今カティについている侍女は歳若く、ヘレナは会ったことがなかった。
だが、さすがヨアキム。使用人全てによく教育が行き届いている。しかも皆、カティの世話をするのが楽しそうでカティを好いてくれているのがわかる。
侍女が広げた布や色紙に、カティは浮かせかけた腰を再び下ろした。
「まあ! どれも素敵ね。姉様はどうする? 殿下の髪のような金糸の入ったこの布なんかいいんじゃない? 私はヨアキムの瞳に合わせて濃い色にしようかしら。でもこれだとお菓子が美味しそうじゃないかしら」
「いえ。とてもシックでご主人様にお似合いになりそうです」
「そう? じゃあこれにしようかしら。姉様は?」
「そうね。私もカティのおすすめにしようかしら」
ヨアキムならカティが選んだものならばどんなものでも喜びそうだが、我が家も人のことは言えないなとヘレナは思った。
夫は毒見をしないものを食べてはならない立場だが、誰かに食べさせることも嫌がりそうだ。
「姉様。殿下の毒見用もあるわよ。同じ材料で料理長手作りよ」
「まあ」
ヘレナが思いつくような夫の行動なんて、長年同い年の幼馴染として夫と過ごしてきたカティにはお見通しというわけだ。
この菓子がヘレナの手作りと知ったら、おそらく、毒味役にすらやきもちを焼くだろう。
気の毒な毒見役にカティからの気の利いたプレゼントということだ。
菓子が冷めて侍女の指導の元、丁寧に包装が終わった。
「さあ、姉様。これで完成よ!」
得意げなカティがヘレナはおかしかった。
使用人たちもにこにことヘレナとカティの様子を見ている。
「ええそうね。――皆さん、素敵な思い出になりました。どうもありがとう」
ヘレナが立ち上がって、礼をとると、料理人たちは慌てはじめた。
「そんな! お妃様、おやめください。私共、奥様にはいつも気さくに接していただいて、妃殿下の妹君なことを忘れがちだったかもしれません。ご無礼どうかご容赦を」
「いいえ。カティがこの屋敷で皆さんと一緒に楽しく過ごしていることがわかってよかったわ。これからも仲良くしてやってくださいね」
ヘレナは、綺麗にラッピングされたチョコの焼き菓子を持って、城に戻った。もちろん夫に菓子の存在を気取られるなどということのないよう注意した。
「ヘレナ、カティは元気だった?」
出迎えた夫がヘレナの頬にキスを落としながら聞く。ヘレナだって最近ではこれくらいのスキンシップには慣れてきた。
「もちろん! あの子に元気がなかったら、こんなふうに戻ってきません」
「確かに一大事だな。まずはヨアキムに知らせて、侯爵家と伯爵家にも使いをやらねば」
「うふふ。ヨアキムが慌ててしまうわね」
ヘレナは、笑いながらラッピングされたお菓子を夫に手渡した。
「ハッピーバレンタイン!」
「ばれんたいん?」
キョトンとする夫に、ヘレナは、片目を瞑った。
「異国の風習で、今日は意中の男性にチョコレートを差し上げる日なのですって。カティと作ったのです。チョコレート味の焼き菓子ですよ」
「意中の男性に? ヘレナが作った?」
夫は、壊れ物を扱うようにヘレナからのプレゼントを受け取った。
「小さいものは毒見用です。料理長が気を利かせて別に作ってくれたのよ」
「では、ヘレナが作ったものはすべて私のものというわけだな。さすが、カティ。私のことをよくわかっている」
夫は、満足そうに言うと、ヘレナを部屋へといざなった。
部屋には既にお茶の用意がされていた。
「ヨアキム様に申し付かりました」
と、部屋付きの侍女が言うのだから、ヨアキムには何もかもお見通しなのだろうが、きっと伯爵家の別邸も今日は幸せな空気に包まれているだろう。
ヘレナは、嬉しくなって、手ずから夫にお茶を供したのだった。
ハッピーバレンタイン!