89. 欠落した記憶
アンジェラと僕が無事に戻ってきて数日、僕たちは次第に日常を取り戻しつつあった。
八月十八日木曜日。
今日は、アンジェラが東京で仕事があるというので、一度日本の家に行ってから打ち合わせの時間の午後一時に指定のスタジオまで送って行った。
待っている間、日本の自室で大学受験の勉強をする。
部屋には内側から鍵を必ずかけるようにしている。部屋にチェーンもつけた。
用事があるときは事前にスマホへメッセージが届き、それに応じて部屋を出る。そんな風に最近はルールを決めた。
徠人向けの対策であるが、注意は怠らない。
自分の家なのに、自由がないのはおかしい気がするけれど、こればかりは予測不能だ。
午後三時、お迎えに行くまであと一時間という時、ドアを誰かがノックする。
「はーい。誰?」
「…。」
返事がない。そういう時、僕は出ない。
一旦イタリアに帰る。念には念を…。
僕は一度イタリアに帰り、気持ちを落ち着かせる。
「大丈夫、大丈夫。僕にはアンジェラやアンドレ、父様もいる。」
僕はイタリアから日本の家のセキュリティカメラを操作して、さっき部屋にきた人物を確認する。
徠人だ。やはり、徠人が僕がいることに気づいて部屋に来たんだ。
心臓が鼓動を早くして、爆発しそうになる。
僕は来年の春に、徠人に刺されて死ぬ。
そう未来の父様が言っていた。それだけじゃない。同じ家に住んでいる家族も父様以外は死んだと聞いた。どうやってそれを回避するのか、まだ何も決まっていない。
果たして回避できるのかもわからない…。
そんな不安だらけの日々から逃れるために、最近はあまり日本に帰っていない。
しかし、僕にはまだやらねばならないことがある。あと二人いる帰還者を回収して、正常な日常を送れるようにすることだ。
そういえば、不思議な事がある。
朝霧家では僕が一番最後に生まれた。ライラは実際には江戸時代の人物になるはずだったのに細胞分裂の段階で奇形となり生まれることがなかった。
しかし、僕の肉体の中に同じような腫瘍と化した双子の残骸を発見すると、それを我が物とするため憑依してきたのだ。
そして、現在日本の朝霧家で生活している他の者達も全員僕の家の血縁者だ。
ところが、一番最初の能力者と思われるニコラスと、ユートレア小国の国王であったアンドレは、僕たちの血縁に結びついている様子はない。
ここが謎だと考えられた。
この二人が結婚もせず、子ももうけていないのだから、子孫もいるはずがない。ちょっと不思議である。
そんな想いを巡らせていると、アンジェラから迎えに来て欲しいとメッセージが来た。
送って行った時と同じスタジオの控室に転移する。
仕事を終えたアンジェラが撮影の衣装のまま待っていた。
「アンジェラ、お疲れ様。撮影は全部終わったの?」
「あぁ、ありがとう、リリィ。今日だけで全部済みそうでよかったよ。」
「最近って、仕事あまり入れないようにしてるの?」
「いや、以前からこんなものだ。」
そんなやり取りをしながらイタリアに転移する。
「あれ、日本の家に寄ると思っていたんだが…。」
「あ、うん。一時間くらい前に徠人がドアをドンドンたたいてたから、こっちに戻って来てたんだ。」
「そうか。」
「アンドレも迎えに行ってくるね。」
五百年前の城に王位を返上する手続きや後始末に行っているアンドレを迎えに行く。
戻ってきたら、丁度アンジェラの着替えが終わって、頼んでおいた夕食が運び込まれた。
「おなかすいた~。」
三人で今日はスペイン料理を食べる。
「おいひいね~。このパエリヤとアヒージョ、結構いけてる。」
真剣にモグモグしてると、アンドレがふと話し始めた。
「今日、城で私の身の回りの世話をしている者から聞いたのですが、ニコラスはあの儀式に至る一年くらい前に半年ほど失踪していたそうなんですよ。」
「失踪?」
「はい。何でも司祭たちを伴い地方へ行く途中で盗賊に遭い、他の者は怪我を負い、ニコラスは行方不明だったらしいです。それが、約半年後に失踪中の記憶を失くした状態で戻って来たということです。それを、司祭たちが噂していたのを聞いたらしいのです。」
「え、その失踪中に何があったかわかんないってこと?」
「気になるな。」
「はい、とても。」
僕たちは三人でニコラスの失踪について探ることにした。
翌八月十九日金曜日。
五百一年前のニコラスの教会に転移し探る。
例の物品庫になっている小部屋に潜んで話を聞いていると、どうやら一行は巡礼教会を目的地として三日後に出発するようだ。何かの修行かな?
僕らはその三日後に転移し、一行を背後少し離れたところから、見守る。
旅が始まって五日目、人通りの少ない街道で盗賊に襲われた。
致命傷とまでは行かないが、皆、多少の傷は受けたようだ。こっそり、同行者たちの傷を僕が癒しておいた。
ニコラスは身ぐるみ剥がされ、傷も負ってしまい、下着姿でふらふらと崖の方へよろめいている。
その時、ザザザーと音がしてニコラスが崖から滑り落ちた。
「おっこっちゃった。」
見てこよう…。みんな翼持ちなので、そーっと飛んで様子を伺う。
「あ、起き上がった。あ、また倒れた。」
そこへ、多分全然関係ない村人の女性が通りかかった。あんな獣道みたいなところ通る人いるんだね?なんて言いながら見ていたら…。
「「「え、えええええ?」」」
村人の女性が、転がってるニコラスを背中背負うと、鹿に変化し背に乗せて走り去った。
遠くから観察しつつ、村に到着。鹿が体を低くして人間に戻った。
その女性がニコラスを室内に連れて行く…。
僕たちは建物の裏手に周り、窓から様子を探った。
ニコラスの怪我を手当てしてくれている様だ。
「どうする?」
「彼女が落としたわけではないからな、このまま見守ろう。」
その女性はニコラスに着いた汚れもきれいに拭いて、ベッドに寝かせてくれたようだ。
また、次の日も見に来た。ニコラスはまだ気が付いていない。
その次の日に気が付いたようだ。
しかし、自分が誰か思い出せないようだ。
何もしないでお世話になるのは申し訳ないと言い、畑仕事や水汲みなどを手伝い始めた。
一週間後、状況は変わらない。
「ん?あれれ、ニコラスが…。」
「キスしてますね。」
「「えーーー。」」
その後、一か月後、二か月後、三か月後、帰る様子が全くない。
六か月後に行った。げーっ、女性が妊娠している。
「ニコラス、妻も子もいないって言ってなかったか?」
「「言ってた、言ってた。ドヤ顔で。」」
え?あれ、女の人が鹿になって、眠らせたニコラスを崖の上の道まで運んでる。
あの、女の人は鹿の姿そのままで、家を捨てて、どこかに行ったきり戻って来なかった。
崖の上に置き去りにされた眠ったニコラスを、僕らはニコラスの教会の前に転移で連れて行った。ほどなく、教会の人がニコラスに気づき中に運んでいた。
僕たちは、一度家に戻った。
これは結構重い内容だ。
ニコラスは自分が記憶を失った状態で女性と恋に落ち、子供までもうけていたとは全く
知らないようだ。
「ねぇ、アンジェラ、これって言った方がいいのかな?」
「どうなんだろな…。どう思うアンドレ…。」
「いやぁ、参りましたね。本来なら次期国王になるかもしれない子供が、知らずにどこかで生まれてるということになりますよね。重いなぁ…。」
僕たちの話し合いは堂々巡りだった。
「じゃあさ、夜寝ている時にこっそり夢で今日見たことを見せて思い出すか試すとか、どう?」
「微妙ですよね…。本人に自覚がないし…。」
「リリィ、その子供の行く先を探してからの方がいいんじゃないか?」
「あ、そうだね。いい事言うね。アンジェラ。」
僕たちは、あの鹿に変化して去った女性を探すところから再開すると決めた。




