692. ワン・ワン・ワン(3)
12月3日、日曜日。
早朝の事だった。その日はライアンが日本の朝霧邸にリリアナと行くことになっていた。
僕は特にすることがなく、部屋でレポートに役立ちそうな書籍がないかタブレットを使い、ネットで検索をしていた。ベッドの横のキャビネットの上にスマホを置きっぱなしにしていたのだが、それに音声メッセージが残っていることに気づいたのはイタリアでの午前6時頃のことだった。
『以前ボランティアをしていただいていたアニマルシャルターの者です。面倒見ていただいていたサムの飼い主から、一度会ってお礼が言いたいとの伝言です。一度ご連絡ください。』
アニマルシェルターのスタッフからの連絡だった。
ボランティアをしていた頃が遠い昔の様だ。少し悩んだが、平日の午後4時であればアニマルシェルターに行くことが可能だとメッセージで返事をした。
当時、僕は何と言ってボブの所を訪問しただろうか…。『天使の遣い』とか言ってしまった気がする。
まぁ、大丈夫だろう…。
アニマルシェルターから日時の指定があった。12月6日水曜の午後4時に来て欲しいという内容だった。
三日経ち、約束の日となった。僕は午後3時には大学を出て、一度家に着替えに戻った。
ニューヨークの冬はかなり寒い。外を出歩くときはアンジェラが用意してくれたキャメル色のダッフルコートを着て、少し長いごげ茶色のブーツを履き、クリーム色の毛糸でリリィが編んだマフラーを首に巻いた。
リリィが編んだマフラーはすごく長くて、ぐるぐる巻くと顔が半分くらい隠れるのだ。
いつもは転移で移動しているのでコートなどはあまり着ないが、今日はさすがに徒歩での移動が多いのでいたしかたない。場所はニューヨークのにぎやかな場所に近いところだ。まだ雪は積もっていないが、街中がクリスマスのデコレーションでにぎわい、ショーウィンドウにはツリーやサンタが所狭しと置かれている。
事前にアンジェラに許可を取り、ライエン・ホールディングスのビル内の社長室に転移して、そこから3ブロック程離れたアニマルシェルターに徒歩で向かった。
アニマルシェルターには約束の時間の少し前に到着した。
連絡をくれた担当者がすぐに出て来てくれてミーティングスペースへと案内してくれた。
そこで椅子に座って待っていると、別の場所に案内されていた4人の人影が近づいてきた。
ジェイミーを養子として迎えたボブ兄妹とベンとジェイミーが『サム』を連れてきたのだ。
サムは部屋に入るなり僕に飛びかかってきた。いや、飛びかかっている様に見えるほど激しく僕に近づいてきたのだ。
『くぅ~ん、くぅ~ん』
甘えた声を出して僕の足にしがみつく。
「サム、よかったな。」
ボブがそう言った。サムが千切れそうなくらい尻尾を振っている。そしてサムが僕に言った。
『ねぇ、いつも食べてる赤い缶詰は嫌いだから、青いやつにしてくれって言ってくれない?』
僕は思わず吹き出しそうになった。
「あはは…それを言ってほしくてここに来たわけじゃないよね?」
僕が笑いながらサムに話しかけていると、いつのまにかジェイミーたちが僕のすぐ側まで来ていた。
「あの、ボランティアでサムのお世話をしてくれていた方ですか?」
「あ、そうです。でも僕だけじゃなくて他の人も一緒にやっていたんですよ。」
「はい。実はアニマルシェルターのスタッフの方にサムが一番懐いていた人に会いたいとお願いしたんです。」
「え?」
「車でこの辺りに来るたびに、サムが車から出てここに来ようとするんです。でも連れてくるとがっかりしたように帰ろうとするので、いつもいる人じゃない人に会いたいのかと思って。」
「そうですか…赤い缶詰は嫌で青いのがいいらしいですよ。ふふふ」
「サムの言いたいことがわかるんですか?」
「いいえ、なんとなくそんな気がしただけです。な、サム。」
「ウォン」
僕とジェイミーがそんな会話をしていると、後ろでベンが顔を赤くしていた。
「あ、立ってるのが辛かったら、その椅子に座って下さい」
僕がミーティングスペースの壁際の椅子を指さすと、ベンが首を横に振って言った。
「あの、ライル・アサギリさんですよね?」
「…あ、はい。」
「えーーー、CMに出てるあのライル・アサギリ?」
ジェイミーが大きな声で驚いている。
顔を半分マフラーで隠しているつもりだったのだが、バレてしまった。ベンは少し声を詰まらせながらも言いたいことがあると言って話し始めた。
僕が彼らの家にサムを連れて訪問した時に、インターフォンのモニターで僕を見ていたそうだ。
先日のジュエリーのCMがシリーズもので放映されたため、僕の顔を見て思い出したらしい。
「まさか本当にタレントのライルさんがアニマルシェルターのボランティアをしていたとは思いませんでした。」
「ははは、僕、ただの学生なので…。」
僕の苦笑いを見て、ジェイミーもベンもボブもボブの妹のデイジーも楽しそうに笑った。
ボブは過去に戻った時の記憶を少し持ったままのようで、帰る際に小さな声でつぶやいた。
「神よ、全ての事に感謝します」
ベンの希望で、四人とサムと僕の写真を撮った。ベンもジェイミーもとても嬉しそうだった。
僕も彼らが幸せな家族になったことをとてもうれしく思った。
ここ数日、色々な犬関連のハプニングに巻き込まれている気がするが、たまにはこんな楽しいハプニングもいいな。僕は帰り道、ライエン・ホールディングスのエントランスに入りながら顔がにやけてしまった。
「ライル、どうした?何にやけてるんだ、こんなところで。」
横から僕にそう声をかけたのはアンジェラだった。サングラスをかけ、毛足の短い黒の毛皮のロングコートを肩にかけ、なんだかいつもの雰囲気とは違って見える。
「え?アンジェラ、今日はこっちだったの?つーか、にやけてなんかないし、アンジェラこそいつもと違うじゃないか。」
そう言う僕の頬にいきなり手を置いてアンジェラが僕の顔を覗き込んだ。
「少し顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」
「やめてよ、そういうの。絶対誤解されて大変なことになっちゃうんだからさ。」
「誤解?」
「そうだよ、僕とアンジェラがただならぬ関係だとか思われたら困るだろ?」
「何を言っている。実際ただならぬ関係ではないか。」
「いや、それ、多分意味違うから。」
そこにタタタッと走ってきて僕の空いている方の頬に手を置いた人物がいる。リリィだ。
「どうしたの?熱出た?」
「いやいや、やめてって夫婦で同じことするの。自分の姉妹にそういうことされるのハズイし。つーか何やってるの二人で。」
「あ、ごめんごめん。今日から一週間、アンジェラはクリスマスシーズンのワールドツアーなの。今日はニューヨークでの初日で、これから会場に移動なのよ。一応危険な事があったら困るから私も同行することにしたのよ。」
「そうなんだ。知らなかった。」
「すまん、忙しくて伝えていなかったな。悪いがなるべく週末は子供達を頼む。」
「わかった。週末だけじゃなくて夜も家に帰るよ」
「じゃ、行ってきまーす。」
アンジェラ達とライエン・ホールディングスのロビーで別れ、僕は社長室のある最上階へエレベータで移動してからイタリアの家に転移した。
イタリアでは夜の11時を過ぎており、家の中はシーンとしていた。
ニコラスと僕の共同の部屋へ行くとニコラスはベッドの上でスマホを操作中だった。
「ニコラス、まだ起きてた?」
「ライル、おかえり。珍しいね平日にこっちに来るなんて。」
「あ、うん。さっきアンジェラとリリィに偶然会ってさ。今日からツアーで家にいないって言うから手伝えることあれば言ってくれよ。」
「ありがとう。お手伝いさん達もいるし、夜はリリアナ達もいるから大丈夫だとは思うけど、そう言ってもらえると心強いよ。」
「ワールド・ツアーって聞いてなくて、ちょっと驚いちゃったんだけどね」
「アンジェラがライルは忙しいからって黙ってたんだと思うよ。この前リリースした曲が、ものすごく売れちゃっているらしくて、無視できない状態になっちゃったらしいよ。」
「でも急だよね」
「あぁ、それは…元々アンジェラのとこの事務所に所属しているロックバンドがやるはずだったワールド・ツアーが、ボーカルの急病で中止になってしまったそうなんだよ。その穴埋めに会場を使ってやることにしたらしいんだ。結構クリスマスが近いいい時期で、会場を押さえるだけでも相当なお金を使ってるみたいで、仕方なかったんじゃないかな。」
「なるほど、そんなことがあったんだね。うまくいくといいな」
「大丈夫さ、リリィもついてるし、チケットは発売初日に数分で完売したらしいからね。」
「そうなんだ…。すごいな、アンジェラ。」
僕はパジャマに着替えてからすぐに就寝した。翌日も普通に大学の講義があるからだ。




