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690. ワン・ワン・ワン(1)

 12月1日、金曜日。

 大学の寮で目覚め、食堂で食事をとり、午前の講義を終えカフェテリアで一息ついている時だった。

 アンドレからメッセージが入った。親戚一同のグループチャットに送られたメッセージは今年の最後を締めくくるクリスマス休暇についてだった。

『今年は聖マリアンジェラ城にて集合とする。

 日程は12月22日金曜、業務を終えた者から順に現地へ移動する。

 滞在は2029年1月5日金曜まで。個人の予定を優先とする。

 移動はリリアナ又はアンドレまで移動の依頼をするように。

 従者の慰安を兼ね、基本的には全員参加の上、業務は半数ずつの交代で行うように。

 但し、諸事情を知っている従者に限る。なるべく全員の参加を願う。

 アンドレ・ユートレア』

 この前アンジェラに言われてたクリスマス休暇の件だ。また従者も含めての滞在になるようだ。

 親族の中には忙しくて来られない人もいるかもしれないが、それは仕方がないことだ。


 少しそんな思いを巡らせていたところ、僕にメッセージが届いた。

『ピロン』

 それは父様からだった。

『ライル、悪いんだが動物病院の方を手伝ってくれないか。明日の午後に助っ人が来るまでで構わない。』

 どうしたのだろう。今までそんなこと頼まれたこともないのに。

 とりあえず大学の講義が終わったらすぐに行くとだけ返事をした。

 しかし、時差があるため急いだところで日本の時間では翌日の朝の時間になってしまうだろう。

 少し嫌な予感を感じながらも、午後の講義を受け、終わった直後に大学の寮を後にした。


 アメリカの家から朝霧邸の自室に転移した。

 朝の5時、やっぱりこんな時間に来ても仕方ないのではないかとしばし考え込む。

 そのまま自室のベッドに横になっていると、前触れもなくいきなりドアが開いた。

『バンッ』

「なっ…なに?」

「あ、ライルお兄ちゃんだ。おはようごじゃいましゅ。」

 徠紗がペコリと頭を下げた。

「ダメよ、徠紗。またお兄ちゃんの部屋に勝手に入って!」

 少し大きい声で徠紗をたしなめながら後を追いかけてきたのは留美だった。

「…わっ、ライル君来てたの?ごめんなさい、徠紗がまた勝手に入ってしまって…」

「あはは…別にいいんですけど、ちょっと驚いたかな…」

 土曜日の朝の5時なのに…と内心ブルーになった。

 それじゃなくても父様に呼ばれて来たのだ。

「あ、僕、父様に呼ばれて来たんです。」

「そうだったの?ごめんなさい、徠夢さんは動物病院で徹夜だったのよ。大変なことになっていて…」

 僕は留美からそう聞いたすぐ後に動物病院の方へ向かった。

 鍵がかかっていたので転移で中に入ると、入院用の部屋にも診察室にも、待合室にも所せましとキャリーケースが置かれ、『ワンワン、ギャンギャン』と犬の泣き声が響き渡っていた。

「父様、どうしたんですか。このキャリーケース…。」

「あぁ~、ライルぅ、来てくれたか…。すまないな、実は…」

 父様はこの状況に至った経緯を話し始めた。

 どうやら隣町で経営されていたドッグディーラーが経営破綻し、元従業員ら数名が犬の世話を続けていたが、エサも資金も尽き、多頭飼いが崩壊状態にあったところに、動物愛護団体が救済に入ったらしい。

 しかし、劣悪な環境下で飼育されていた犬たちは健康診断を受けてから動物愛護団体の施設に入る必要があるらしく、近隣の動物病院に予告なく大量に運び込まれたようだ。

「しかし、父様、ちょっと受け入れ過ぎたのでは?ケージが全然足りてないじゃないですか。」

「そうなんだよ、ライル、聞いてくれ。私はせいぜい5頭が限界だと言ったのだが、人の話を無視して置いて行ってしまったのだ。」

「…それで、僕は何を手伝えばいいのです?」

「実は、この犬たちは本当にひどい状況で飼われていたらしく、私が何を話しかけても聞く耳を持たない上にかなり狂暴で、このままでは診察ができない状況なんだ。そこで、ライル、お前にならどうにかできないかと、思ってきてもらったのだ。」

 僕はとりあえず診察台の横の机の上に置かれていたキャリーケースの中にいる犬を覗き込んだ。

 歯茎をむき出しにして『ウウゥウゥ』と唸っている。確かにこれは普通のやり方では無理そうだ。

「父様は動物と言葉が交わせるんでしたっけ?」

「うーむ…どうなのだろう、こちらが言うことは理解していそうだが、犬が言うことは私にはわからないぞ。」

「え?そうなんですか?」

 僕は遠い記憶で動物病院に来ていた患者の犬たちが父様を絶賛していたのを思い起こしながら、首を傾げた。犬たちの勘違いなのかな?

 仕方ないのでキャリーケースの外側から犬の首筋を狙って物質透過を使い、犬に直接触れた。

 眠らせたのである。僕は噛まれても実質被害はないが、診察は父様がした方がよいと思ったのだ。

 眠った犬をキャリーケースから出し、診察台に載せた。

「こんな感じでいいかな?」

「す、すごいな…。あぁ、助かるよ。」

 父様は徹夜で作業しても5頭も診察できなかったと言いながら、眠っている犬たちを次々に診察した。

 外傷、健康状態、血液検査など、目視できるものとそうでないものもあるが、骨折などは父様も能力を使って診断していく。内臓疾患もそうだ。

 手早くメモしてキャリーケースに戻した犬のケースにメモを張り付けている。

 3時間ほど経過し、気が付けば20頭ほどの診察を終えた。まだ残り半分といったところだ。

 父様が一度ここで休憩をとり、朝食にしようというので一旦朝霧邸のサロンに戻った。

 洗面台で手を洗い、サロンに行くと日本食の朝食が用意されていた。

「お、ライル、珍しいな週末の早朝にこっちにきているなんて。」

 そう声をかけてきたのはアズラィールだ。

「ちょっとね、助っ人だよ」

 少し遅れておじい様の未徠とおばあさまの亜希子も三男の徠太を連れて朝食をとりにきた。

「ライル、ずいぶんと久しぶりだな」

 おじい様は嬉しそうに僕の隣に座った。

「おじい様、この前は船で釣りに行ったんですよね?ミケーレが楽しかったと言っていましたよ。」

「あぁ、そうなんだよ、ミケーレは何をやっても上手にこなすんだ。」

 未徠はミケーレにとっては曽祖父だが、ミケーレにとっての父方の祖父、アズラィールはというと、ニヤニヤしながら話に加わってきた。

「俺はほら、アンジェラのとこのちびっこを預かってて子守りで大変だったんだよ。」

「何を言っている、お前は船は気持ち悪くなるから嫌だと言って行かなかったんだろう。」

「嫌だな、バラすなよ~」

「いつもぐうたら遊んでばかりのくせに…」

「だから、バラすなって~」

 不思議な人間関係を垣間見て笑いがこみあげてきた。

「父さんとアズはいつもこうだからな…どっちが爺さんだかわかりゃしない。」

 父様がポツリと言った。

 なんだかんだ言って楽しそうにやってるんだな。僕の素直な感想である。


 食事を終え、また動物病院へ戻った。

 さっき眠らせた犬たちの半分ほどが目を覚ましていたが、もう唸ったりはしていなかった。

 僕が眠らせた時に夢を操作したのだ。この動物病院で診察を受けた後、綺麗な施設で皆幸せに暮らして、いつか飼い主が現れ、散歩に行ったり子供と遊んだりできる未来が訪れるという内容の夢だ。

 そんな夢を見て、荒んでいた犬たちも少しはおとなしくなったようだ。

 更に2時間半ほどかけて、残りの15頭を診察した。

 その中で、状態の悪い3頭は動物病院で入院の必要があるという診断だった。

 多頭飼いによる外傷、他の犬に噛まれた痕が膿んで骨まで見えているような状態の子犬が1頭。

 他の犬に噛まれたか、衝突したのか、眼球が濁って目が見えていないメスの成犬が1頭。

 心音に異常があり、更に詳しい診断が必要なオスの成犬が1頭。

 全頭の診察が終わったころ、父様が手配していた業者が血液検査の検体をとりに来た。

 業者によると明日の午後には結果がわかるとのことだ。

 午後になり、父様の言っていた助っ人が現れた。

 どうやら父様の大学時代の友人で少し離れたところで大手の動物病院に勤務しているらしい。

「よぉ、朝霧、久しぶりだな。今回はひどいことになったな。ほら、ケージを都合つくだけ持ってきたぞ」

 そう言ってその友人は乗ってきたバンの後ろの座席から次々と畳まれたケージを出してきた。

 大小大きさの違うケージを20個も取り出し、うちの動物病院のスタッフ休憩室にまでどんどん運び込んで組み立てていく。

 元々あった10個のケージと合わせても30個にしかならない。40頭いる犬には足りないのだ。

 その友人が勤める大手の動物病院の別の分院に問い合わせて貸してもらえるかを聞いているようだ。

 どちらにせよ、今すぐというわけにはいかないようだった。

 ケージを設置して少し落ち着いたのか、父様が思い出したように友人に僕を紹介した。

「そうだ、長谷川、これはうちの長男で、今アメリカのH大に行っているんだ。」

「息子?お前、こんなに大きな息子がいたのか?…ちょ、ちょっと待て…君、ま、まさか…」

 父様の友人、長谷川さんは僕を見てかなり動揺していた。瞳が揺れるほど動揺しているようだ。

「あ、飛行機の…」

 僕が思い出し、そう言うと、彼はガクガクと膝を震わせその場に座り込んでしまった。

「まさか、あの時の天使が朝霧の本当の息子だったなんて…」

 嘘をついて海外旅行に行って飛行機の中で父様が死にかけた時に一緒にいた友人だったのだ。

 あれからずいぶんと年月が経過し、父様は殆ど外見に変化はないものの、その友人はすっかり中年になっていた。そう言えば、あの時も記憶を消したりしなかったっけ…。

「あはは…僕、そろそろ一回家に戻ることにするよ。まだ寝てないんだ。次の作業に入るときメッセージ送ってよ。すぐ来るから。」

 そう言って、逃げるようにその場を後にしようとした僕を、長谷川さんが止めた。

「待ってください。あの時は、ありがとうございました。あのまま航空機の窓が破損した状態では、搭乗者全員が間違いなく命を落としていただろうと聞きました。あの時のこと、誰にも言わずに心の中に留めていました。自分は頭がおかしくなって幻想でも見たのではないかと、そう考えてもいました。でも、実在していた。あなたは私達を救ってくれた。本当にありがとうございました。」

 涙ながらに、しかし体育会系な大きな声でハキハキと僕にそう言った彼を見て、僕は少し恥ずかしさもあり、ちょっとうつむいたままコクリと頷いて言った。

「気にしなくて大丈夫ですよ。役に立てたみたいでよかった。」

 僕の言葉にかぶせるように、父様が言った。

「長谷川、何の話だ?あれか、あの服が血だらけになってた時の?あれ、なんだったんだろうな、謎だらけだ。」

『ボコ』

 にぶい音がしたかと思ったら、長谷川さんがグーで父様の頭を殴っていた。

「朝霧、お前、死にかけてたんだぞ、ほら、丁度この辺だ。頭蓋骨割れて脳も見えてたのに、それが急に塞がるって普通は考えられないだろう」

「いてーなー、そんなの覚えてないんだから仕方ないだろう。グーで殴る事ないだろ、ひどいな。」

「まったく、お前見てると腹立つわ。」

 二人のそんなやりとりを見た後、僕は逃げるようにその場を離れ、朝霧邸の自室に移動し、そこからアメリカの家に転移したのだった。


 別に用があったわけではない。父様の側にいるだけでも間が持たないのに、僕の能力を見てしまった人がいることが判明し、少し動揺してしまったのだ。

 後からでもあの記憶を消してしまった方がいいのではないだろうか…。

 アメリカの家のダイニングで、一人自分で淹れたコーヒーを飲みながら思い悩む。

 こういうのって何かルールみたいのがないのかな…。すごく古い時代のどこかに行っちゃったときなんかは、あまりそんな事気にもならなかった。メディアも限られた新聞とかだし、カメラもスマホもないし…。

 でも今回はヒューゴの銃撃の時の様子まで通行人に撮影されてしまっている。

 しかもネットで映像はバラまかれてしまっているためもう取り返しはつかない。あえて言うなら、いつもの姿ではなくて良かったということだろうか。今度アディに聞いてみようか。

 1時間ほど経った頃、父様から手伝いの続きをお願いしたいとメッセージが来た。


 朝霧邸に戻った僕は自室からサロンのガラス戸を通り、裏庭を横切り、動物病院の裏口に行った。

 鍵は開いており、中に入ると、早朝の様子と全く同じように『ワンワンギャンギャン』大騒ぎの状態だった。

「父様、また騒がしくなってしまったんですね。」

「おぉ、ライル、戻ってくれたか。眠っていた犬が目を覚ましたせいもあるが、一部の狂暴な犬がケージに体当たりして騒いだりするものだから、周りも影響を受けてしまって。」

「そうですか…。それで、何をお手伝いしたらいいですか?」

「悪いんだが、エサと水をやって欲しいんだ。容器はここに、エサの種類と量はケージ貼ったメモに書かれているから、そっち端から頼む。私はこっちからやっていくから。」

「はい。わかりました。」

 僕はメモに書かれた内容通りにドッグフードと水をステンレスの容器に入れ、すでにケージに移された犬に配っていった。

 それにしてもうるさいものだ。鳴りやまない警報を耳元で鳴らされているようだ。

 僕はエサを入れるときに一匹ずつ赤い目を使って、『無駄に吠えるな』と命令していった。

 僕がエサをあげた犬の方から、嘘のように静かになっていく。

 そういえば、長谷川さんが見当たらない。どうしたのか聞こうと思った時、その長谷川さんが入って来た。

 折りたたみ式のケージをどこかから調達してきたようだった。

「朝霧、ほら、どうだこれで全頭入れられるだろ?」

 ドヤ顔でそう言った彼に、父様は少しあきれた顔で言った。

「へいへい、ありがたいです。持つべきものはよき友でございますね。」

 二人はなんだかんだいいつつも、とても仲がいいようだ。


 エサも水も全頭に行き渡り、犬の吠える声もおとなしくなった頃、父様が僕と長谷川さんに食事を提案した。

 長谷川さんは興味津々な様子で朝霧邸の中に入って来た。

「いや、なんか悪いね、食事まで。ほぉ~、いやはやこの辺の地主って言ったっけか?豪華な邸宅と広い吹き抜けにグランドピアノ…。朝霧、おまえお坊ちゃまだったんだな。」

「地主じゃねぇわ。元城主だ。城は燃えちゃったけど。」

「なになに、殿様の家系?すげー」

「長谷川、聞いて驚け~、日本でも城主、その前はヨーロッパでも国王の家系だったんだぞ。はっはー」

 父様がドヤ顔でそう言ったところに、咳払いをする人が…。

「ゴホン…。」

 咳払いの方を見るとアンドレが座ってコーヒーを飲んでいた。

「あ、アンドレ、どうしてここに?」

 僕の質問に少し顔を赤くしてアンドレが答えた。

「リリアナが子供達と買い物に行っている間、待っているのだ。」

「どうして一緒に行かないのさ。」

「アズが運転してリリアナと留美と子供達が乗ったら私の乗る場所がなくなったのだ」

 確かに、実家のベンツは5人乗りだった気がする。

 父様と長谷川さんと僕とアンドレで一緒に昼食を食べることになった。

 昼食のメニューは天ぷらの盛り合わせと豚汁の定食風だった。

 いつもながらかえでさんの作る食事はクオリティが高い。そして何よりもいつ人数が増えても対応できるように準備してくれているところがすごいのだ。

 一人分ずつトレーに載った昼食を一番大きい丸いテーブルに運び、4人で適当に座った。

「えっとー、長谷川、こちらはうちのドイツの方の親戚でアンドレっていうんだ」

「あっ、どうも、長谷川です。」

「アンドレ・ユートレアです。」

「…お仕事かなにかでこちらへ?」

「あ、いや、朝霧は妻の実家なので、よく来ているのです。」

 アンドレの言葉の意味がよくわからず、長谷川さんが父様の方を見た。

「そうそう、うちの娘見たことあったか、長谷川。」

「ん?お前に娘なんかいたのか?というか息子もさっき聞いたのが初めてなんだが…。」

「そ、そうだったか…。娘が二人いるんだ。二人とも面食いでな。あれが上の娘のリリィと夫のアンジェラだ。」

 父様がエントランス前の吹き抜けに飾られているリリィの結婚式の時にアンジェラが描いた大きな肖像画を指さした。

 長谷川さんの黒目が縮んだ気がした。

「お、おまえ、あれはアンジェラ・アサギリじゃないか?」

「そうだけど…、うちの長女の婿だ。こっちは侍女の婿だぞ。」

 髪を後ろに結わえ、黒縁眼鏡をしているアンドレを長谷川さんがじっくりと見た。

「朝霧、ちょっと待て、この人がアンジェラさんか?」

「違う違う、こっちはアンドレだ。」

 長谷川さん、只今、本気で混乱中である。

 そんな二人の漫才みたいなやりとりを見てほのぼのしたのもつかの間、食事が終わった直後に父様のスマホに着伝があった。

「もしもし、いやぁ、もう無理ですよ。今の状態でも月曜から開院できない…おぉー、ちょい待て~」

 父様が電話の相手に不満をぶつけているが、結局話は進まなかったようで電話を切られたようだ。

「父様、どうしたんですか?」

「ライル、聞いてくれよぉ。あんなにたくさんの犬を押し付けておいて、また追加で頼むと言うんだ」

 どうやら動物愛護団体から更なる受け入れ要請が来たらしい。予定数は2頭らしく、長谷川さんはその2頭のためのケージを調達するために、また別の分院へと出かけてしまった。

 僕は追加の犬二頭が来るまでいて欲しいという父様の希望を受け入れ、朝霧邸でもう少し手伝うことになった。


 待っている間、僕は父様が犬たちの治療をするのをサポートすることになった。

 あまりにも汚れのひどい犬は洗ってみないと状態が詳しくわからないというので、犬を洗うのだ。

 大きな流し台のようなシンクの中にお湯を少し溜めて、ゴム手袋をして犬を洗うのだが、犬を少しお湯で濡らしただけであっという間に水が濁って真っ黒になる。

「父様、これ全部の犬を洗うんですか?」

「うーん、どうだろうな…。」

「一頭洗うだけでもかなり時間かかりますよ。それに、乾かさなきゃダメですよね?」

「参ったなぁ。」

 お湯に浸かって汚れが浮き出してきたせいか、臭いもきつくなってきた。

 得体のしれない固形物が毛に絡まってなかなか取れない。

「うぅ、マジか…」

 思わず独り言を口にしながら洗い続けた。黒い犬だと思っていたのに、汚れが落ちてくると白い犬だとわかったのだ。

 何頭目だろうか、段々嗅覚も麻痺しはじめたころ、さっき父様に追加での受け入れを要請した動物愛護団体の人達がやってきた。

 父様が愚痴りながら二頭の犬を確認している様だ。さすがに怒っている様だ。

「ちょっと、これはないんじゃないか。どっからどう見てももう死にそうじゃないか。これをどうしてわざわざ他の動物病院からうちに移送してくるんだよ。」

「すみません。もう、どこでも引き受けてくれなくて、朝霧先生のところしか残っていないんです。」

「こんな状態で連れ回して、更に悪化させてるとしか思えないが。この二頭に何があったんだ。正直に言え。」

「実は、捕獲時に外へ脱走してしまい、車にはねられたんです。」

「はぁ?お前たちが殺したようなもんだな。」

「申し訳ない。とりあえず、少しでも手当てをお願いできないかと…。」

「…。私は無駄なことはしない。引き取ってくれ。」

「そこをなんとか…。」

 そんなやりとりが数分続いた頃、二頭のうちの一頭が悲しい声で鳴いた。

『クゥーン』

 まるで『もういいよ』とでも言っているようだ。


 僕は洗っていた犬をタオルで拭き、ケージに戻して手が空いたところだったので、父様の側に行った。

 その鳴いた犬が気になったのだ。

 チラとその犬を見ると、かなりひどい状態だった。

 体中ところどころ出血し、後ろ足は片方が変な方向に向いているし、腹は内臓出血をしているのかパンパンに腫れあがっている。

 意識があって鳴いたことが逆にかわいそうに思えた。気を失っていれば痛さも感じなかっただろう。

「安楽死だ。了承してくれ。」

 父様が動物愛護団体の人たちにそう言った。

「わかりました」

 渋々それを了承したのは、多分その中では一番上の人だ。

「ライル、悪いが眠らせてやってくれ。」

 父様が僕にそう言った。仕方がない。僕はドッグキャリーの中でぐったりと横になっているさっき鳴いた方の犬を覗き込んだ。

「あ…。」

 僕は思わず声を出すと父様が聞いた。

「どうした?」

「この犬…どっかで見たことある犬にすごく似てて。」

 そう、それは僕が小学3年の時に拾った『アダム』にそっくりな犬だったのだ。

 目を閉じているため、もしかしたら全然似ていないかもしれないが、色や模様、体の形などはアダムをそのまま少し大きくした様だった。

 父様が不思議そうに首を傾げて動物愛護団体の人に聞いた。

「ちょっと、聞いていいか。この犬はブリーダーから連れてきた犬なのか?」

「あ、いえ、実はもう一頭が逃げて車に轢かれそうになった時にこの犬が道路脇から飛び出してきて、逃げた犬に体当たりしたんです。おかげで逃げた方は軽傷なんですが、代わりにひどい怪我をしてしまったので、一緒に連れてきたんです。」

 その時、その犬が目を開けて鳴いた。

『クゥーン』

 なんだか悲しい気持ちが沸きあがってきて、全身が震えた。

「ライル、おい、大丈夫か…」

 父様が僕の腕を掴んで声をかけた。

 ハッと気がついたら、手のひらの辺りに光の粒子が集まり始めていた。

 僕は自分の体で手の先が隠れるように他の人たちに背を向けてその犬に触れた。

 犬は一瞬光の粒子に包まれ、僕の意志の通り深い眠りに落ちた。

 父様は犬を受け入れると動物愛護団体職員に告げ、彼らに帰るよう促した。

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