671. CM撮影(5)
10月21日、土曜日。
朝8時から撮影だと聞いていたので、6時にはシャワーを浴び、先週リリィと融合していた時の髪型に変化する。
ちょっと不思議な感覚だ。先週末の撮影時に撮ったという写真を何枚か参考にして思い出しながらの変化だ。
着替えは現地にあるからと言われ、アンジェラが用意してくれたTシャツとパーカーとジーンズを着て準備した。考えてみると日本の親元からイタリアに移り住んで以来、僕の着るものはほぼ毎日欠かさずアンジェラが用意してくれている。
って、あれれ…もしかしたら僕はアンジェラからマリアンジェラやミケーレと同じ扱いをされているのかと今更気づいた。
さすがに今日は家族みんなで撮影について来るような事にはならなかったらしく、フロリダへ移動したのは僕とマリアンジェラとアンドレだけだった。
先週末と同じくフロリダのホテルのスィートルームに転移し、三人で撮影スタッフの到着を待った。アンドレは仕事の時には後ろで髪を結わえており、黒縁の眼鏡をかけている。
ふと気になってアンドレに聞いてみた。
「なぁ、アンドレはいつも着る服は誰が選んでるの?」
「私の服か?アンジェラだが…なぜそんなことを聞く?」
「あ、いや…別に、僕もアンジェラが選んでくれてるんだけど、アンドレはどうなのかなぁって思っただけ…。」
「何か不満でもあるのか?」
「ううん…そうじゃないけど…。マリーやミケーレと同じように子ども扱いされてるのかなって思ったんだよ。」
「うむ…まぁアンジェラにしてみれば私もライルも赤子のようなものだろうがな…。」
「えーっ、笑えないよ~。」
そんな会話にマリアンジェラが加わった。
「マリー、それ知ってるもんね。どうしてパパがお洋服選んでるのか…。」
マリアンジェラの話では、どうやら色々なブランドから献上された衣類などをタレントが使用することでタイアップ効果があるのだそうで、そういったものをアンジェラがコーディネートしているらしい。
子ども扱いされていたわけではなかったようで良かった。
「あ、でもパジャマはママとリリアナが選んでるんだよ」
「あははは…あの猫柄のやつだろ?」
「そうそう、いっつも猫柄なんだよ。」
三人で話が盛り上がっている時にロビーからスタッフ到着の知らせが届いた。
三人でエレベーターを降り、先週と同じ会議室を着替えに使うことになった。
真ん中に衝立が置かれ、準備の最中はマリアンジェラの様子は見えなかった。
そういえば、今日の台本をもらっていない。
「アンドレ、台本は?」
「あぁ、今日はセリフなどはないから言われた通りに動いてくれればいいと聞いている」
「あ、そうなんだ…。って、え?白いタキシード着るの?」
僕に用意されていたのは白い燕尾服と蝶ネクタイだった。いやな予感がする。
僕の準備はさほど時間がかからず終了したが、マリアンジェラは少し時間がかかっていた。
こそこそと話してる声が聞こえるのだが…。
「メイクのおねえさん、もっとおっぱい大きくできない?」
「マリーちゃん、これ以上大きくしたらパッドがはみ出ちゃうから無理よ」
「むぅ…じゃ、仕方ない」
僕とアンドレは笑いをこらえるのに必死だった。
40分ほどしてようやくマリアンジェラの準備が完了したようで衝立の向こうから出てきた。
胸元が大きく開いたパール色のウエディングドレスを着て、髪をアップにし、うっすらと化粧をされたマリアンジェラが出てきたのだ。
ちょっと恥ずかし気に頬をピンクに染めて、僕の方を見上げる。
「どうかな?ちょっとはじゅかしいけど。」
「マリー、すごくきれいだよ。今まで見た中で一番きれいな花嫁さんだね。」
僕が言うと、アンドレもウンウンと頷き写メを撮りまくっていた。
マリアンジェラもまんざらではないようで、嬉しそうにニコニコしている。
準備が整ったので、撮影班のバンで撮影地に移動することになった。
1時間以上かけ着いたのは海の側のチャペルだった。
本物の牧師さんと思われる人がチャペルの中でスタッフと打ち合わせ中だ。
僕とマリアンジェラはチャペルに併設された控室で出番を待つことになった。
30分ほど経ち、アンドレが監督から指示された内容を僕たちに伝えるためにやってきた。
「待たせてすまないな。やっとエキストラが到着したようで、チャペルの方の準備が整ったそうだ。」
「エキストラもいたんだ…。」
「あぁ、それで流れなんだが…。マリーはこれ持って入口のドアの前にいる女性スタッフの所で待機してくれ」
「ほーい。りょうかーい。」
アンドレが白いバラと薄いピンクのバラで作られたブーケをマリアンジェラに手渡した。
「ライルはチャペルの中の聖餐台、牧師さんの前の台だな、それの前に大に向かって立っていてくれ。そこには一人男のスタッフがいるから。」
「うん、わかった。」
「じゃ、二人とも頼んだぞ。」
アンドレにそう言われ、それぞれが指示された場所に移動する。
マリアンジェラの指示された場所には撮影スタッフではなく、チャペルのスタッフが立っていた。
「まぁ、本当に綺麗な花嫁さんだわ。ふふっ」
そう言ってその女性はマリアンジェラに閉じた教会のドアの方に向かって立つ位置を指さした。
「こちらに立って下さいな。もう少ししたら一緒に入場する俳優さんが来ますので、ここで目を瞑って立っていてください。到着したら腕を組むので私がお嬢様の手を取りますので、驚かないでください。」
「にゅ?目を瞑るの?」
「そうなんです。ここでは何も見ないで待たなくてはいけないんですよ。さぁ、今からお願いします。」
「はーい」
マリアンジェラは指示の通りに目を瞑った。
僕の方はマリアンアンジェラと別れ、教会の正面入り口を通り、アンドレの言う牧師さんが説教するために置かれている台の前まで進んだ。
そこにはチャペルの男性スタッフが一人いた。
「お待ちしていました。」
「どうも」
「それでは、ご説明をさせていただきます。その一番前の椅子の所でお待ちください。パイプオルガンの音楽が流れましたら、花嫁と介添え人が入場いたしますが、前方を向いたままお待ちください。」
「え?前を向いたまま?」
「はい、さようでございます。そして、一度音楽が途切れたタイミングで後方に振り向きまして、花嫁の手を取っていただきます。」
「あ、はい。わかりました。」
「その後、聖餐台の前まで移動してください。そして、牧師の宣誓の後に続いて、『I will.』とだけお答えください。」
「はい。」
「その後に誓いの言葉を牧師に続いて復唱していただきます。新郎新婦の順に行います。」
「あ、はい。」
「誓いの言葉は聖餐台の上にもメモが置いてあります。」
「はい。」
「その後、指輪の交換になります。新郎から先に新婦の指に指輪をはめて下さい。その際、ここに書いてある文章をお読みください。」
「は、はい…。」
僕は次第に不安な気持ちになってきた。こ、これは本気の結婚式の内容だ…。そこまでするか…?
「では、最後に指輪交換と宣誓が終わりましたら、また音楽が流れますので花嫁のベールを上げて、誓いのキスをお願いします」
「ぶっ…き、キスですか?」
「はい、通常のお式と同じようにとお話し聞いておりますので、よろしくお願いいたします。その後は証明書への署名を行い、入り口に向かって退場をお願いいたします。」
この時点で僕は緊張で胃が口から出そうなくらい痛くなった。
スタッフがいなくなった後、更に10分ほど経ったか、前方を向いて立っていたが、少し後ろがざわざわとした。エキストラが入場したのだろう。
いよいよ撮影が始る。左右と聖餐台の前、そしてすぐ横に撮影用のカメラを持ったスタッフが準備を終えた。スタッフの緊張が伝わってくる。
そういう僕も、このCMで今一番緊張している。
『スタート』と書かれたスケッチブックがスタッフによって表示され、撮影が始った。
パイプオルガンの音がチャペル内に響き、入り口のドアが『ギィ』と音を立てて開いた。
『まだまだ、振り返っちゃダメ…なんだよな…』
異様に長く感じる時間だった。
一方のマリアンジェラは、入り口の前で目を瞑って待っていると、スタッフの女性が声をかけてきた。
「さぁ、俳優さんが来ましたので、腕を組みます。右手を出してください。」
マリアンジェラが右手を出すと、その手を優しく引き、背の高そうな俳優の腕に組まされた。
「ねぇ、まだ目開けちゃダメなの?」
「はい、ドアが開いてから目を開けますので。もう少し待っていて下さい。ベールを下ろしますので、入場の際は少し下の方を向いてキョロキョロしないようにお願いいたします。」
マリアンジェラは目を瞑ったままその後の説明を聞いた。
ドアが開いて音楽が流れたら一歩ずつ止まって前に進むこと、新郎の方に移動して台の前に立つこと。などなど…ライルが受けた説明とほぼ同じだ。
『ギィ』とドアが開き、パイプオルガンの音楽が聞こえてきた。
「さぁ、進むぞ」
横の俳優さんがマリアンジェラに小さく声をかけた。目を開けたマリアンジェラは驚いて心臓がドキドキした。そこには、本物の父であるアンジェラがタキシードを着て立っていた。
『俳優さんって…パパじゃん、うそでしょ…』
内心そう思いながら前に一歩一歩進んだ。ドキドキして前に進むことばかりに集中した。
一番前の席の辺りにライルがなぜか後ろ向きに立っていた。
パイプオルガンの音が止まり、それが合図のようにライルが振り返った。
ライルが目を開き、左手を差し出すと同時に一瞬驚きのあまり固まっている。
『???もしかしてドッキリ企画?』
マリアンジェラとライルは同時に同じことを思ったのであった。
固まったのも一瞬で、二人は必至の演技を続けた。
聖餐台の方に向き直ったところで、脇に控えていた牧師が移動してきた。
『なっ…何?』
声には出さなかったが、二人でまた固まった。
ニコラスがにっこりと微笑みながら、挨拶をし、宣誓を開始する。
マリアンジェラも同じように目を見開いて固まっている。
その後は、なんだかよくわからない感じで、メモを読み上げたりしてもう自我のない人形と化していたと思う。
「それでは誓いのキスを…」
司会の言葉で『ハッ』と我に返る。いつの間にか指輪の交換まで終わっていたらしい。
事前に聞いていたので花嫁のベールを上げて、顔をマリアンジェラの方へ近づける。
『フワッ』と薔薇の花の様な香りが周りに広がり、マリアンジェラの唇が近づいてきた。
ダメだ…笑いそうだ。そんなことを考えていたのだが…『ハッ』と気が付いた時には二人で退場している最中だった。
『え?ええっ?なんか意識飛んだ…?』
冷静になって周りを少し見渡すと、エキストラが何人も立っていた。
『げ…、マジ?』
エキストラを演じていたのは、全てうちの家族だった。リリィとアンドレは涙まで流している。何がどうなっているのやら…。
入口を出たところで『ゴーン、ゴーン』と鐘が鳴り、マリアンジェラが僕に話しかけた。
「ライル…」
「ん?」
僕がマリアンジェラの方を見た時に監督の声が聞こえた。
「カーット!」
撮影が終了した瞬間だった。




