662. 謎の黒い杯(5)
視界が鮮明になると同時に、僕はまたイタリアの家の天使関連の物品を保存、展示している部屋に戻ってきていた。目の前に先ほどの鍵が落ちている。しかし、もう触っても何かが起きることはなかった。
だが、一つ腑に落ちないことがあった。
いつもなら、僕は必ず『するべきこと』があって触れた物に導かれるのだが、今回は僕は何もしていない。鍵をレイナに渡したと言えば、渡したのだが…、それが必要なことだったのかさえわからないままだ。
僕は本を片付けようと、鍵を元の本の中に入れ表紙を閉じた。
棚に戻そうと本を持ち上げた時に、裏表紙と箱状の部分のすき間から何かがバサッと落ちた。それは1通の手紙だった。
かなり古い茶色く変色した封筒の表には『愛するニコラスへ』と書かれており、裏には『レイナ』と書かれていた。
なんでレイナのニコラスあての手紙がこんなところに入ってるんだ?
いつ書かれたものかわからないが、手紙は封をされており、自分宛ではない手紙を開けて読むわけにもいかず、僕はアメリカの新居の自室で眠っているニコラスの元へ転移した。
一人で眠るニコラスを見ているとなんだか不思議な気分になってきた。
さっきまで、過去のニコラスを見ていたせいだろうか、18歳の少年っぽさが残るニコラスとは違い大人になったニコラスが間違いなく目の前で眠っている。
レイナに助けられたんだよな…。ニコラスはそのことを知っているんだろうか…。ベッド脇のデスクにある椅子に腰かけ、なんとなくニコラスの顔を見ながらボーッとしているとパタパタと歩く音が聞こえ、開けっぱなしの部屋のドアの外からマリアンジェラがこちらを覗き込んだ。
『なにしてんの?』
と口パクで僕に聞いてくる。思わずクスッと笑ってしまった。
僕はレイナの手紙をデスクの上に置き、立ち上がってマリアンジェラの元へ歩みより、彼女を抱き上げた。
僕はそのままマリアンジェラを連れて、聖マリアンジェラ城の塔の上のテラスまで転移した。他の家族に話し声を聞かせたくないからだ。
「ライル、どうしたの?なにしてたの?」
「あぁ、また倉庫の物に触ったら過去に行っちゃってたんだけど、戻った時にニコラス宛の手紙を見つけたんだよ。」
「ふーん、お手紙?」
「それを届けに行ったんだけどね。ニコラスはぐっすり眠ってたから、どうしようかなって思ってたんだ。」
「しょっか…お手紙もらえてよかったね、ニコちゃん。」
「そうだね。きっとよかったんだよな…。」
マリアンジェラは僕の言葉の意図がわからずキョトンとしている。
僕は手紙の内容がわからないので、いいのか悪いのかは判断できないと思っているのだが…まぁ、マリアンジェラにそれを伝える必要もないか…。
「ライル、マリーね…」
そうマリアンジェラが言った時、『ぎゅるるる~』と盛大にマリアンジェラのお腹が鳴った。少し顔を赤らめてマリアンジェラが小さい声で言った。
「おなかすいて目が覚めちゃったの。」
「あははは…そうだったのか。じゃあ、この時間だと日本のお店が開いてるだろうから何か食べに行こうか。」
「えー、じゃ徠神おじちゃんのお店で食べた~い。」
「わかった。着替えて行こう。」
僕がマリアンジェラを着替えさせるために家に戻ろうとすると、マリアンジェラは僕を制止し、その場で体の表面をキラキラで覆い、衣服を替えたのだった。相変わらず便利な能力である。
僕達はそのまま日本の徠神のレストランのVIPルームへ転移した。
しかし、そこには先客がいた。アンドレとリリアナと子供たち、そして父様と留美、徠紗までいる。
「あ、マリーお姉ちゃんも来たー」
「ライルにいちゃまも来たー」
ライアンとジュリアーノが子供用の背の高い椅子に腰かけたまま僕たちに手を振った。
どうやら午前中の早い時間に幼稚園のプリスクールのお受験を終えて、皆でランチ中だったようだ。
「ライル、どうしたんだ?」
聞いてきたのは父様だ。
「あ、えーと、マリーが夜中にお腹すいたって言うから…。」
マリアンジェラは僕に抱っこされた状態で、僕にしがみついたままつぶやいた。
「ちっ。二人きりだと思ったのに。」
アンドレが気を遣って部屋の端に片付けてあった椅子を運んできた。
「あ、アンドレ、ありがと。」
「騒がしくて申し訳ないが、3人とも緊張から解放されてようやく食事をとり始めたところなのだよ。」
「3人?」
「あぁ、徠紗も一緒に受験したのだ。」
お受験はうまくいったのか、アンドレは穏やかな笑みを浮かべて子供たちに目線を落とした。
「ん?」
その目線の更に先には目の下に盛大なクマを作ったリリアナが魂が抜けた様子で座っていた。
それに気づいたマリアンジェラが僕の腕から滑り降り、リリアナの側に駆け寄った。
「リリアナ…、大丈夫?すごいぶっさいくになってるけど。」
そんな風に言われてもリリアナは目線を合わせず放心状態のまま棒読みで言った。
「今日は秋の新作が盛りだくさんの限定ランチブッフェらしいわよ。特にキノコのパスタがおすすめ。しかも無くなり次第即終了。」
当然のことながら、マリアンジェラはそれを聞いた瞬間にブッフェの食べ物を取りにホールの方へ走り去った。さすがリリアナだ。
結局のところ、お受験は成功したらしい。食べている最中にメールで合格が知らされた。
徠紗も同じ幼稚園に通うのだそうだ。
アンドレの話では、治安の良い日本で幼稚園に通わせたいというのと、リリアナがアンジェラに負担をかけすぎていると感じているのが今回の選択の元になっているそうだ。ただのかわいいお弁当が目的ではなかったらしい。
時差の問題があるため、しばらく日本の朝霧の家に住むことも考えているらしい。
『日本の家はあなたの実家なのだから、もっと頼っていいのよ』
と、留美がリリアナに以前言ったことも大きく影響しているようだ。
確かに最近はアンドレが仕事で不在の事が多く、子供たちを早く幼稚園に入れたいと思ったのだろう。なんだかんだ言っても、リリィや僕より実家によく行っているのはリリアナなのだ。
きのこのパスタや季節のフルーツ盛りだくさんのブッフェを堪能した後、僕らはこっそりアメリカの家に戻ったのだった。
アメリカでは深夜3時過ぎだ。マリアンジェラに歯磨きをさせ、二人ともパジャマに着替え、マリアンジェラは子供部屋に、僕は自室のベッドにもぐりこんだ。ニコラスは先ほどと変らずベッドですやすやと眠っている。
なんとなく横に眠るニコラスが愛おしく感じ、おでこにチュとキスをした。
いやいや、変な意味はないよ。ライル、新しい世界に開眼とかじゃないから。
ぐっすり眠っていたはずのニコラスの目がパチッと開いた。
「ん?」
「あ…ごめんニコラス。起こしちゃった。」
「ん?ここ、どこだ?」
「え?アメリカの家だよ」
「アメリカ…だよね…。なんか変な夢見てた気がして…。ずいぶん前の記憶がなかった時の事…だったような…。」
「え?そうなの?実はさっき、イタリアの倉庫で色々と触ってたら過去に飛んじゃってさ…。」
「ライル、もしかして魔女に会ったのかい?」
「え、何?魔女?」
「あぁ、そうだよ。『森の魔女』って呼ばれてたフィリップとルカの母親さ。」
「えぇ~、魔女?どういうこと?」
「レイナは、『森の魔女』と呼ばれて近隣の住民から恐れられてたんだ。それは彼女が亡くなった後に周りの人々に聞かされたのだが…。私はそんなことは知らず、記憶を失ったまま数年を彼女の家で世話になったのだよ。」
ニコラスの話では、何者かに襲われて瀕死の怪我をしたニコラスをレイナが保護して世話をされたが、当時の記憶は飛び飛びで、断片的にしか覚えていないそうだ。
どうやら酒に何かを盛られて眠っている間に関係を持たれたこともニコラスは憶えていないらしく、自分で酒を飲んで酔った時に、自ら関係を持ってしまったと思っているようだった。
ここは敢えて言う必要はないだろう。あくまでも助けてくれた恩人と一夜の過ちで子を授かってしまった、ということで落ち着いているのだから。
「あ、そうだった!ニコラス宛の手紙をアンジェラの倉庫で発見したんだ。」
「なぜアンジェラの倉庫にそんな物があるんだい?」
ニコラスはどうやら『手紙』のことを僕のいたずらだとでも思ったのだろう。でも、その手紙をデスクの上から手に取りニコラスに渡すと、ニコラスの表情が一変した。
顔がこわばっている。
「ニコラス、大丈夫か?無理に読まなくてもいいんだよ。」
僕のその声を聞いてニコラスは大きく深呼吸をした。
「ライル、この手紙がどこにあったって?」
「あ、それが…黒い鍵が入った本型のケースに隠されてたんだよ。」
僕はアンジェラに送るために撮影してあった黒い鍵とそれが入っていた本の写真をスマホで開き、ニコラスに見せた。
「これは…悪魔教の拠点と言われていた洞穴にあるドアと同じ模様じゃないか。」
「あ、そうそう。そうなんだ…っていうか『悪魔教』ていう名前なの?ニコラス、知ってたのか?」
「いや、知っているわけではないんだ。私のいた教会に度々襲撃があり、その宗教団体が私に刺客を送って来ていた。理由はわからないが、捕らえた刺客が『悪魔教』からの依頼だと白状したんだ。それで教会側で少し調べたんだ。」
「そうなんだね…。どうやらその記憶喪失になってたのって、そいつらに拉致された時の怪我とか衝撃が原因みたいなんだ。さっき、ちょうど過去に飛んだところがその現場だったってことなんだよ。」
「じゃあ、ライルが助けてくれたのか。」
「いや、それが…様子を伺っていたら、レイナがやってきて…まぁ、彼女一人でニコラスを救出したという感じかな…。」
僕はレイナがその場にいた拉致犯たちを瞬殺したことは話さなかった。
「そうなのか…レイナが…。」
ニコラスはそう言うとデスクの引き出しからレターナイフを取り出し、手紙の封を切り無言のまま手紙を読んだ。
神妙な面持ちで手紙を読み始めたニコラスだったが、読み終えた時には穏やかないつもの優しい顔になっていた。
「ライル、手紙を見つけてくれてありがとう。」
そう言って僕に手紙を渡した。
「え?何?」
「あぁ、ライルも読んだらいい。」
少し躊躇しながら僕も手紙を読んだ。手紙にはニコラスの事を想うレイナの気持ちがあふれていた。手紙にはこう書かれていた。
『愛するニコラスへ
ニコラスと過ごした日々は私の宝物になったわ。
実は、あなたにいくつか謝らなければいけないことがあるの。あなたが王子様だってこと知っていたのに、記憶を失っているのを知って、あなたを私の側にいるように仕向けたの。そして、あなたにはその気がないのに子供を作ったわ。
愛されていないとわかっていたけど、あなたとの子供が欲しかった。
私は病気でもうすぐ消えてしまうけど、あなたと一緒にいられた時間は本当に幸せだった。記憶が戻って教会に戻ってしまったあなたにもう一度、一目だけでも会いたい。
さようなら。』
「ニコラス…」
「ライル、私の頼みを聞いてくれないか。」
「え?頼み?」
「あぁ、私をレイナが生きている時、亡くなる前に連れて行ってくれないか。」
僕は少し迷ったが、レイナの病気を治したり大きく状況を変えないことを条件に承諾した。
ニコラスはバックヤードに花を咲かせていた薔薇を数本切り手にした。その後、僕達は着替えてから、レイナに会いに行ったのだ。
僕達はレイナの生きていた時代に転移した。レイナは自宅の寝室で母親に看病されながらベッドに横になっていた。ニコラスが玄関のドアをノックすると、レイナの母親は驚いた様子で僕らを招き入れた。
母親は気を利かせて別の部屋へと行ってしまった。
レイナの休んでいる寝室のドアを開け、ニコラスが入っていった。
僕は少し離れたところで見守っていた。
ベッドの脇に置いてある椅子にニコラスが腰かけ、薔薇の花をすぐ横の小さな台の上に置くと、レイナに話しかけた。
「レイナ、起きているかい?」
目を閉じていたレイナがゆっくりと目を開けた。
「二、ニコラス様…」
驚いているレイナの顔が紅潮した。
「レイナ、私がここにいた間、助けてくれてありがとう。そして、ここから出たあとでここでの記憶を失い、お礼を言うのが遅れてしまい申し訳ない。」
そう言ってニコラスは横たわるレイナの手を握った。
レイナの両目からは涙があふれた。
「レイナ、もう一つお礼を言わなければいけないことがあるんだ。
私の息子達を生んでくれて、育ててくれてありがとう。君のおかげで、私は今幸せに暮らしているよ。たくさんの家族に囲まれて、毎日楽しく過ごしているんだ。」
レイナは涙を流しながら小さく頷いていた。
「私は君と出会い、子供を持てたからこそ、今の幸せを手にできたんだ。」
そう言った後、ニコラスが僕の方を振り返り僕に手招きをした。
「え?ぼ、僕?」
レイナの側に近づいて行くと、レイナが僕に気づいた様子で口を開いた。
「でっかい天使…さま?」
その言葉を聞いてニコラスが『クスッ』と笑った。
「レイナ、彼は僕たちの数代後に生まれる子孫の一人だよ。ライルというんだ。
ライルが君の書いた手紙を見つけて私に読ませてくれたんだ。」
レイナが驚いたように僕を見た。
「つ、翼が…生えてた…わよね?」
「ライル…見られたのかい?」
「う…うん。」
「レイナ、この子、ライルは特別なんだ。」
ニコラスがそう言うとレイナは納得したように微笑んだ。
その後、数分だったが僕たちはレイナと話すことができた。
レイナも僕に伝えたいことがあったそうだ。それは、あの黒い鍵のことだった。
レイナは僕から鍵を渡された翌日、あの洞窟へ行った時には中にあったはずの男たちの死体や血の痕などは跡形もなく消えていたそうで、中にあったはずの寝台や椅子もなく、ただの洞窟になっていたらしい。ドアだけはそのままで、そのドアの脇にあのドアの絵が描かれた本の形をした箱が落ちていたんだという話だ。
それを持ち帰った後で、鍵を入れておくための箱だとわかり、中に鍵を入れて本棚にしまっておいたらしいのだが、あのニコラスへの手紙をすき間に隠しておいたのに、本がなくなってしまったらしい。他にも金目の物が数点なくなっていたので、泥棒が入ったのだということらしいのだが、巡り巡ってアンジェラのところに渡って来たのはある意味奇跡だと思う。
そして、鍵、そのものについてもレイナから話が聞けた。
あれは、レイナの親族が住む森の奥深くに落下した隕石に含まれる金属から出来ていたのだとわかった。アンジェラが持っているチョーカーと同じ材質だ。
レイナの祖父が持つ土地に落ちた巨大な隕石らしいのだが、その隕石が落ちた後から色々と不可思議な現象が起きたらしい。変化の能力がその主たるものだが、時にはレイナのように神の声が聞こえる者もいたそうだ。
たまたま弓で射落とされた鳥が、その隕石の上に落ち、何日も経っていたのに生きている様に新鮮だったことから、その金属に神がかりな何かを感じ、アクセサリーにして身に着けるようになったらしい。
鍛冶屋を営む同じ部落の村人が、その金属で作った器に肉を入れて置いたら1か月後でも肉が腐らずに保存されたという話を村の外にまで話してしまったため、その金属でワイングラスのような杯に蓋をつけたものの作成依頼がきたと聞いたらしい。
あの黒い杯のことだろう。
天使の血液をフレッシュなまま保存するためにあの金属が使われたということだ。
そしてレイナは付け加えた。あの洞窟、そのものは、ニコラスが襲われたわずか数日のうちに洞窟内部の土砂が完全に崩落し、ドアもろとも完全に埋まってしまったそうだ。
『悪魔教』については何もわからなかったが、ニコラスがレイナに会い、それをきっかけに得た情報も多かった日だった。
僕達はレイナに別れを告げ、現代に戻ってきたのだった。




