660. 謎の黒い杯(3)
目の前が白く輝き何も見えなくなった後、視界が回復すると、僕はイタリアの家の天使関連の物が置かれた部屋に戻って来ていた。
どうやら白い布の手袋はここに置き去りになっていたようで、倒れた黒い杯と蓋、そして手袋が乱雑に置かれたテーブルの前に立った状態である。
どれくらい時間が経ったのか確認しようと後方の出口から部屋を出るために振り返り一歩を踏み出した。
『ドン』
と勢いよく何かにつまづいてしまい、僕は慌てて下の方を見た。
「マリー…」
そこには、涙をいっぱい溜めて今にも泣きだしそうなマリアンジェラがしゃがんでいた。
「マリー、ごめん。痛かったか?いつここに来たんだ?」
そう言いながら、どこか痛くないか僕もしゃがんで確認した。マリアンジェラは無言のまま僕の首に腕をかけて抱きついてきた。
「マリー、ごめんってば。気づかなかったんだよ。」
「ライル…マリーね、怒ってない。」
抱きつかれたまま立ち上がり近いところで下に向いている顔を覗き込むと、頬を真っ赤にしている。
「どうした?やっぱりどこか痛くて我慢してるんじゃないのか?」
「大丈夫、このまましばらく抱っこしてくれたら治るから。」
そう言いながら、ぐりぐり頬をこすりつけてくる。僕はマリアンジェラを首にぶら下げたままアメリカの家の自室に戻った。
部屋を出て、階段を下りてダイニングに行くと、アンジェラとリリィが僕とマリアンジェラを見て言葉を失っている。
「あんた達、何やってるの?」
口を開いたのはリリィだ。
「え?何って抱っこしてほしいって言うから。」
「なんで上半身裸で抱っこしてるのかって聞いてるのよ。」
「え?あっ…」
僕はいつかわからないくらい昔のライラのところに行ってしまい、シャツを脱いで彼女にかけてあげた状態だった。シャツは左手に持ってはいたが、血がついていたためそのままにしていたのだ。
マリアンジェラの顔を見ると、まるで何かバレちゃったじゃないの的などや顔をしつつ、頬を赤く染めている。
「いやっ、誤解しないで、別に何もしてないから。イタリアの物品倉庫で調べものしてきたらさ、シャツが汚れちゃって…脱いだんだよ。その後にマリーとぶつかっちゃって。」
僕がそう言い訳すると、リリィとアンジェラがじと目でマリアンジェラを見た。
「パパ、ママ、知ってる?こういうの『と・う・と・い』って言うんだって~。リリアナが言ってたもん。」
うれしそうな顔をして声を発したマリアンジェラだったが、一瞬でアンジェラに回収された。
「マリー、ライルは忙しいから、邪魔をするんじゃない。」
「邪魔なんかしてないもん。急に消えちゃったけど、涙も出ちゃったけど、じっとしゃがんで待ってたもん。だから足、しびれちゃったもん。」
どうやらライラのところに行ってしまう前から僕の後ろにいて見ていたらしい。
僕がライラのところに行っていたのはわずか15分ほどの時間だったと後にマリアンジェラが教えてくれた。
その日はアンドレとリリアナ達は戻らず、僕達はアメリカの家で夕食を食べ、夜は皆でボードゲームをして過ごした。
子供たちが寝静まった頃、僕はまた一人でイタリアの家に行き、別の本を探していた。
今回は布の手袋の上にラテックスを着用した。
また何冊か出してはページをめくって見るものの、内容はどちらかというと天使を想像して描いた挿絵とそれにまつわる童話やおとぎ話のようなものばかりだ。
ユートレアの歴史に関しては、完全に調査が行き詰った。
散らかった本を元の場所に戻し、他にも何かないか部屋の中を確認している時、壁にかかっている絵画の中に布で目隠しをされたものがあることに気づいた。
なんで目隠しなんてしてるんだろう。もしかして、ちょっとエッチな絵だったりして…。
そんな想像をしながら、布をどかし絵を見ると、なんとそれは、過去が変わってしまう前のショッピングモールで開催されていた『西洋の絵画展』で展示されていた絵だ。
よく見ると何とも不気味な絵だ。中央にいる人物はどう見てもリリィの様だが、アンジェラが描く絵とは全く異なりおどろおどろしく、暗い印象の絵だ。
絵の少女の足元にはどくろがいくつも転がっている。
僕はその絵をスマホで撮影しアンジェラにメッセージを送った。
『この絵ってどこでいつ入手したか覚えてる?』
アンジェラからはすぐに返信が来た。
『ユートレアの城の近くに住んでいる住人から買ってくれと言われて手に入れたと記憶している。今から100年ほど前だろうか…。城を譲り受けた直後だった。他にもいくつか同じ男から買った気がするが、その絵の下の棚に古い新聞のようなもので包まれた箱があるはずだ。』
僕はもう一つ確認するためにメッセージを送った。
『どうしてこの絵だけ目隠ししてるの?』
『最初から目隠しされていた状態で手に入れたのだ。理由はわからない。箱の中に何か書いたものがあるかもしれないな。』
僕はアンジェラのメッセージが示す絵画の下の棚を探した。
腰の高さほどの扉がついたキャビネットがあり、扉を開けると古い新聞紙に包まれた木箱が出てきた。木箱と言っても、ずいぶんと手の込んだ物だと一目でわかる。表面はつやのある加工が施され、つやがある。手の込んだものという理由は、どこから開けるかわからないような作りだったからだ。うっすらと木目が違い接合部と思われる部分はあるものの、押しても引いても左右前後にずらしても全く開く気配がない。
振ると中に何かが入っているようでカラカラと音がする。
『はぁ…』
思わずため息が漏れてしまった。この箱に残っているかすかな記憶を読み取るか物質をすり抜け中に手を入れて中の物を取り出すしか方法は残っていない。
物質の記憶を読むには手にはめている手袋とラテックスを外さなければならない。
正直、嫌な予感しかしないのだ。
僕は手袋とラテックスを外し、テーブルの上に置いてあった木の箱を触った。
物質が持つ記憶はあまり情報量が多いとは言えないが、確かに流れ込んでくる。
この箱の開け方がイメージとして浮かび上がる。どう見てもA4サイズより少し大きいくらいの木の箱なのだが、机の上に置いた状態で時計と逆回りに回転させるようだ。
イメージの通りに上半分を回すと箱がまるで瓶の蓋のように回り、カチッと音がした。
木の箱の半分が簡単に外れた。
中には夕方見つけたあの黒い杯が入っていた本と同じ模様の小さいサイズの本が入っていた。緑と金のドアのようなものの中央に黒い翼が描かれたものだ。
僕はそれを手に取り、開いた。中には黒い杯と同じ金属で作られた少し大きめの鍵が型にはまったように入っていた。黒い杯と同じ羽の装飾が施されたかなり凝ったものだ。
僕はそれをスマホで撮影しアンジェラに送った。
『これはまるで私たちが身に着けているチョーカーの素材と同じに見えるな。』
即座に来たアンジェラからの返信に僕も『同意する』と返信した。
本型の小箱には、表紙の裏に紙が挟まれていた。
それにはこう書かれていた。
『ニコラス・ユートレア』
え?何、これ…もしかしてさっきとんだ先でライラが言っちゃった名前をメモった紙?さっきの話と続いているのかもしれない。
ニコラスが命を狙われた事件が、他にもあったのだろうか。
他にも隠しページがないか逆さにして振ってみる。ポロっと落ちてしまったのは鍵だ。
「おっと」
床に落ちた鍵を何も考えずに触ってしまった。
「あー」
やってしまった。僕の手が光の粒子になってサラサラと流れ落ちる。そして目の前が真っ白になって何も見えなくなった。




