658. 謎の黒い杯(1)
約2時間後、僕は大学に戻った後、今日の講義をすべて受講し終え、寮の部屋に戻り、ニコラスからの電話を待った。
転移して移動するのは簡単だが、大学構内や寮の中から忽然と消えたりするのを万が一にも家族以外に見られてはならない。ニコラスが迎えに来る車に乗って寮を出るのは、あくまでも周りに疑われないようにするためだ。
午後4時半、ニコラスから電話が入り、すぐにエントランスを抜けてニコラスに合流した。
迎えにきた車にはニコラスの他にマリアンジェラとミケーレが乗っていた。
最近はニコラスが運転していることが多いが、これはアンジェラが僕のために用意してくれた真っ赤なスポーツカーだ。その中はどういうわけかチャイルドシートだらけなのだが、一度に子供たち全員が乗ることは不可能なため、今日はマリベルと他の子供たちは家でお留守番だったようだ。
僕たちは、マリアンジェラの『懇願』に負けて途中の大型スーパーでキャラメルフレーバーのアイスをバケットで2つ購入した。
当然のことながら、マリアンジェラはアイスが早く食べたくてそわそわしっぱなしだ。
家に着き、ガレージから室内に入った時、マリベルが真っ先に出迎えてくれた。
「おかえりなしゃい。お風呂にしゅる?ごはんにしゅる?それとも…。ムゴッ」
そう言ったマリベルの口をマリアンジェラがすごい勢いで塞いで言った。
「ダメー。それ、マリーがライルと結婚したら言うって決めてたヤツなのにぃ、もう~。」
ぷんすか怒っているマリアンジェラに僕とニコラスとミケーレはあきれ顔だ。一体どこで仕入れたセリフなんだか…。マリアンジェラとマリベルは、お互い顔を見合わせると『ニマッ』と笑った。
このたった2週間でマリベルはマリアンジェラと同じくらいの大きさまで成長している。
しかし、この分離はあくまでも事故である、早く収拾されることを祈るばかりだ。
子供たちに手を洗わせ、自分も荷物を自室に置きに行き、ダイニングでアイスクリームを食べている子供たちと合流した。
アンドレとリリアナ達はまだ来ていないようだ。僕は何の気なしにリリィに聞いた。
「アンドレ達は?」
「あ…う~ん…今日は日本の朝霧の家に行ってるのよね。」
「え?何しに行ってるの?」
「幼稚園のプリスクールのお受験なのよ。」
「え?えーーー。お受験?何…日本の幼稚園に行くわけ?」
「まだわからないけど…一応選択肢の一つになってるみたいよ。」
「へぇ…ものすごく意外なんですけど…。」
だって、数時間前にイタリアの家で過去のユートレアには帰らないとか、イタリアで一緒に暮らすとか言ってたとこだったじゃないか…。僕が少し驚いていると、アンジェラが上の階から下りてきた。
ニコリともしない彫刻のような顔で、手早く子供たちの手や顔に着いたアイスを拭いたりしている。世の中のアンジェラファンが見たらどう思うのだろう…。がっかりして卒倒するか、あるいは別のジャンルの開眼か…。そんなことを頭の中で思考しつつ話を元に戻す。
「ねぇ、アンジェラ、ライアンとジュリアーノが日本の幼稚園のお受験に行ってるって?」
「あ、あぁ、私もさっきお前が大学に戻った後に聞いたばかりだ。数か月前に、私はミケーレ達が通っているボーディングスクールを勧めたのだが、リリアナがどうしてもやりたいことがあると言って保留になっていたのだよ。」
その後、アンジェラが説明してくれた話では、リリアナは寡黙で冷淡な雰囲気だが、実はかわいいものが大好きで、トレンドにも敏感らしく、どうやら日本の幼稚園児が持っていくお弁当に心を奪われているらしい。確かに、アメリカと日本では幼稚園の弁当に大きな文化の違いを感じる。
しかし…リリアナって料理なんか作ってるの見たことないぞ…、大丈夫なんだろうか。
そんなことを考えてるうちに子供たちはキャラメルアイスクリームを完食。
夕飯までの時間をそれぞれ自由に過ごす事になった。
僕はその空いた時間に、イタリアの家に行き、昼間見つけると約束したユートレアの歴史が書かれた本を探すことにした。僕が向かったのは、イタリアの家にある天使関連の所蔵品を展示、陳列した部屋だ。
そういえば、過去が変わってしまう前だが、イタリアに来たばかりの頃、その本を触ってしまい大変なことに巻き込まれた覚えがある。
とにかく、歴史のある物などは触らないに越したことはない。僕は古い記憶をたどりながら、その部屋の中を物色した。
相変わらず見るだけでちょっとゾッとするような物がたくさん並んでいる。
拷問に使われたような道具とか、天使には関係なさそうな物も多い。
『もしかして単なる収集癖?』などと脳内では邪念が横切る。まぁ長く生きていればちょっと変な物を集める趣味くらいあってもおかしくはないか…。
置かれている物には一応メモのようなものがついており、入手した場所と譲り受けた人の名前などが記されていた。
今回、僕が探しているのは本だ。今となってはかなり曖昧な記憶だが、金色の装飾が施された少し大きいいハードカバーの本だった様な気がする。
ざっと見渡したが、本は全く目に入らない。そのうち、拷問道具みたいなものばかり置かれている棚の裏側が本棚になっているのを見つけた。
この中にあるかもしれない。そう思ったが、本だけでも百冊を超すほどありそうだ。
僕は、念のため直接本に触れないように、用意した布の手袋をはめ、本棚の端から順に5冊ずつを部屋の中央にあるテーブルの上に置いて確認することにした。
表紙に金色の部分がない物を最初から除外して、どんどんより分けていく。30冊ほど出した時だった。
他の本よりもしっかりとした仕立てで厚みが10cm近くあり、金色と緑色のドアのような絵が描かれた表紙、そしてその表紙の中央に黒い翼が描かれている本を見つけた。
「これかなぁ…。いやぁ…記憶の中の物とはかなり違う気がするなぁ…。」
独り言が漏れ出てしまった。タイトルというタイトルは書かれていなかった。手袋を着用した手で本をめくると、そこにはドイツ語と思われる言語で『悪魔信仰』と書かれていた。
表紙の裏にも、中のページにも著者や年代の記述は一切なく、いきなり本編に突入した。
1ページあたりに書かれている文字数はさほど多くはない。1~3行程度の文章、そして反対のページに挿絵が描かれている。
最初のページには見開きの左のページに見覚えのある悪魔と化したルシフェルの絵が描かれていた。
僕が悪魔化したルシフェルを見たのは変わってしまう前の過去の封印の間だ。
しかし、その時のルシフェルはあくまでも石像だった。瞳の色だけが乳白色ではない色だったように記憶している。この本に描かれているルシフェルは人の姿に黒い髪、黒い翼、白い布を纏い、瞳は真っ赤だ。
『これって…徠人じゃないか?いや、あいつの瞳はあの時金色だったか…。』
どうも最近記憶が薄れてきている、過去が変わることで自分自身もそれに順応してきているようだ。
右側のページには『悪魔に12人の天使の心臓を供物をして捧げれば、我々の願いは叶えられる』と書かれていた。
あのドクター・ユーリが実行していたことが、まさしくこれだ。僕たちの血縁者を次々に拉致して封印の間に集めていた元凶と言える。『我々の』っていうくだりが気になるところだ。
まぁ、ここで一つ疑問だが、今はルシフェルが悪魔化していないのになぜこの本は存在しているのか。
直接この本を触れば、もしかしたら何かこの本が持っている記憶を読むことができるかもしれない。
しかし、今はほんの短い時間でやらなきゃいけないことが決まっているのだからそこまで深堀りする気はなかった。
僕は、次のページをめくった。
その右側にはユートレアの城の絵が描かれていた。
『天使の翼城』と呼ばれる小さくも美しい古い城の絵だ。
見開きの左側にはアンドレの肖像画が描かれていた。その下に『悪魔ルシフェルの生まれ変わりであり、天使と結ばれたが、忽然と姿を消し戻ることがなかったユートレア王太子』と書かれている。
ん?あー、これは以前見た時と言葉が変わってる気がする。天使を探しに行って帰って来なかったとかなんとか書いてあったような…。
ユートレアの歴史についてはそれ以上このページでは触れていない。
僕はさらにページをめくった。そこには左面いっぱいに蛇が髪のように生えている天使が描かれていた。
『ライラ』だ…。文字の方には、『邪悪な天使 蛇の目を見た者は暗示にかかり正気を失う』と書かれていた。正直、気味が悪い。
更にページをめくるとそこには黒い金属を彫ったような杯が描かれ、その中にまるで本物の血が入っているかのような挿絵だ。
右のページには『天使の生き血を飲めば不老を得ることができ、その肉を喰らえば不死を手にすることができる』と書かれている。
全く、趣味の悪い冗談だ。何も意味のないことであるのに、勝手な思い込みで天使を捕まえ食べるとかイカレテいるとしか思えない。
僕は次のページへ進んだ。
そこには、思いがけない物が入っていた。普通の分厚い本のように見えていたが、そのページ以降は箱状になっており、前ページに描かれていた黒い杯が入っていた。
それのために作られたくぼみにぴったりとはまるように細工されている。
黒い杯はまるで僕たちが身に着けている黒い金属と同じような材質に見えた。僕は黒い杯を枠から外し、本の外に出した。
横から見ただけではわからなかったが、上部は同じ黒い金属でふさがれていた。
なんだかよくわからないが、なんとなくそれを使って天使の血でも飲もうとしたのだろうと漠然と思った。よく見るとその杯の彫刻には天使の羽などの模様が刻まれている。
なんでフタなんかついてるのか不思議に思い、何気なく瓶の蓋を開けるように回してみると、ネジのような作りになっているのか、本当に蓋が開いた。
「へー、フタじゃん。」
そう言いながら蓋を持ち上げると、中には搾りたて…のような鮮血のような色の液体が入っていた。
「うわっ、きっも。危なく触るところだったじゃん。」
そう独り言を発した直後、フタの端からポタッと一滴流れ落ちたその赤い液体が、僕の手にはめた手袋に落ちた。
杯が僕の手から離れ、作業していたテーブルの上に倒れた。血のような液体はテーブルの上に広がり、手袋にスーッとしみ込んだその最初の一滴の液体と、目の前の杯からこぼれ出た液体がその直後、僕の体と共に金色の光の粒子になって霧散するのをすでに声を発することもできなくなっていた僕はただ見守ることしかできなかった。




