550. アンジェラと天使の絵筆(1)
さて、僕、ライルとニコラスは、只今アンジェラの書斎にて、ニコラスの物を修理する能力がどのようなものであるかを検証中だ。
次にアンジェラが箱から出したのは、真ん中から折れてしまった絵筆だった。
アンジェラはそれをデスクの上に置かれた新聞紙の中央に置いた。
古そうな絵筆だ、どう見ても新しいものを買った方がいいと思うのだが…。
「アンジェラ…これは、どういった…。」
ニコラスも微妙に聞きにくそうな感じで口を開いた。
「これはな、私が一番最初に油絵を描いた時の筆だ。私が子供の時に、叔母さんの家に訪ねて来て、私を連れ出し、日本の画材店でリリィが買ってくれたものだ。」
「あ、それ僕覚えてるよ。僕とリリィがごちゃまぜだった時だ。頭に石ぶつけられてさ…。」
「そうだ。あの時の画材の中の筆だ。」
「それは…もっといいやつ買って来たらいいんじゃないの?」
僕がそう言うと、アンジェラは少し目を伏せて思いふけった様な顔をして言った。
「私には130年も前の初恋の思い出なのだよ。そして、この筆で描いた絵画がある画商の目に止まり、私が若くして大成した理由と言ってもいい。」
ニコラスはそんなアンジェラの話を聞いた後で、質問をした。
「どうして折れているんですか?」
「実は、本当のことはわからないのだ。ただ、憶測だが、私の事を好きだった女の子が、この筆が私の想い人からもらったものだと言うのを知って、腹いせに盗んで折ったのだと考えている。他の筆も全て盗まれ、唯一戻ってきたのが、これ一本だったのだ。」
「え?じゃあ絵が描けなくなっちゃったんじゃない?」
僕の問いに、アンジェラは首を横に振った。
「少し後になるが、絵を評価してくれた画商が画材を提供してくれることになってな。それは大丈夫だったんだが…。思い出と言うのは、美しく取っておきたいものなのだ。」
「ふーん。そんなもんかねぇ。」
気のない返事をした僕に、アンジェラが箱からもう一つ何かを取り出した。
小さな薔薇のモチーフがついたヘアゴムだった。
「これと一緒にこの折れた筆が私の部屋の机の上に置かれていたんだ。」
「ん?これ、どっかで見たことあるな…。」
僕は、そう言って無意識にヘアゴムを触ってしまった。
「あっ…。」
アンジェラの声と同時に僕の体に異変が起きた。
「えっ?」
僕は一瞬で小学三年生くらいの大きさのリリィになってしまった。
「うわっ。見たことあると思ったら、これリリィのヘアゴムだ。」
「ライル、新しい能力を身につけたのか?」
ニコラスが、真剣な顔で僕をまじまじと見ながら言った。
「違うよ。普通はこんな風には変わらない。このヘアゴム…リリィがずっと欲しがってて、でも普段は僕が表に出ているし、家ではずっと男だったんだけどさ…。おこづかいをもらった時に、僕が買ってあげたんだ。リリィに変わるのはいつもアンジェラを助けに行くときだったんだけど、ボサボサの髪じゃなく、かわいくしていけるようにって。
机の中に入れておいたんだけど、いつの間にか無くなってた。」
不思議なことに、マリアンジェラがいつもやるみたいに、着ていたパジャマは裾の広がった空色のミニワンピになっていた。アンダーパンツとパニエまで履いている。
ワンピの上にはふわふわのボレロを着て、靴は黒のローファーだ。
どうして僕はこんな格好になってしまったんだろう?
いや、さっさと元に戻ろう…。そう思った時だ、ニコラスが満面の笑みで僕に言った。
「ライル、神の思し召しではないでしょうか。あなたは、今、その姿でやらなければいけない事があるのでしょう。さあ、これを…。」
そう言ってニコラスはヘアゴムを僕の左手首にはめ、右手に折れた筆を触れた。
僕の体は金色の光の粒子になって砂の様に崩れ落ちた。
一瞬の後、僕は女の子の姿で、見慣れぬ家の子供部屋にいた。
その部屋の机の上に手を置いた状態だ。手を見ると、まだ折れていない筆に触れていた。あれ、ここはアンジェラの部屋か?
その筆の他にも画材が雑然と机の上に置かれている。よく見ると、全ての画材に小さくアンジェラの名前が書いてあった。
アンジェラが住んでいたアンナおばさんの家には何回か行ったことがあるが、アンジェラの部屋はこんな様子だったかな?と思いながら周りを見回す。
ん?違うな…。アンジェラの部屋じゃない。
『ギシッ、ギシッ』といういう木の階段を上がるような音が聞こえてきた。
誰かがこの部屋に入って来るかもしれない。
僕は、とっさにキャビネットの中に体を埋め込んで隠れた。ドアがギィーと開き、10歳前後の男の子が入ってきた。
誰だろ、この子は…。僕は全く話が分からないまま、その部屋で息を殺して、その子が
寝る時間まで待った。
その子がようやく寝たのは、僕がその部屋に転移してから3時間以上経ってからだった。僕は、ベッドの脇迄静かに音を立てないように移動し、男の子の首筋を触る。
完全に目が覚めないように眠りを深くしたのである。
そして、彼の記憶を取り出す。
その子の名は『クルト・シュビッツ』、画商の息子の様だ。
彼の記憶によると、クルトの家はクルトの父の先代から画商を営んでおり、クルトの父も絵画を描くことがある。とはいっても、画家としてはイマイチだ。
クルトは画家としては成功しなかった父を見返してやろうとでも思ったのか、画商よりも画家になりたかったようで、毎日毎日、学校の勉強もそっちのけで絵を描いていた。
しかし、やはり才能がないのか、彼の絵は少しうまい程度で、画家としていい評価を受けるほどではなかったのだ。
そんな時、同じ学校に通う男の子の絵がうまいと評判になっていると、自分の父が聞きつけ、その子の家に絵を見に行ったようだ。
自分は評価せずに、その子を評価しようとする親に反発心を抱くものの、直接親への不満を吐き出せない、そんな葛藤があったようだ。
記憶の中で、クルト少年はアンジェラのことをこう評価している。
『実在しない人物を描く空想好きな馬鹿な少年』『ちょっと絵が上手いからって調子にのっている』
それはまさしく天使の絵ばかりを無心に描き続けたアンジェラへの当てつけである。
アンジェラが天使の絵を描くのは、リリィに会いたいからだ。
それを『空想好きな馬鹿な少年』とは、失礼にもほどがある。
僕は、腹立たしさを覚えながら、その翌日の午後へ転移した。
アンジェラのいる場所を探り、少し離れた場所に下りた。それは、アンジェラがいつも絵を描いている自宅近くの公園だった。
アンジェラは学校のクラスメイトだろうか3人の男の子と一緒にその場所へ行き、どうやら他の子達に慰められているようだった。
「アンジェラ、可哀そうに…。誰がおまえの絵の具や筆を盗んだんだろう…。」
「俺たちが犯人を捕まえてやる。」
「ありがとう。でも危険なことはしないで。僕は大丈夫だから。」
「じゃあ、俺たちは帰るぞ。」
「うん、じゃあ、また明日ね。」
あの子達は、リリィに石をぶつけて、リリィにアンジェラと仲良くするよう命令された子達だ。仲良くしてくれているようで良かった。
僕は少し離れたところからアンジェラを見守ることにした。
アンジェラは学校の美術室に置いていたカバンから絵の具や筆を盗まれてしまい、今日は別に持参した色鉛筆で絵を描いていた。
そこへ、昨日の少年クルトが近づいてきた。
「おい、お前…また、この世に居もしない天使の絵なんか描いてるのか?」
「天使はいるんだよ。僕のこと、いつも助けてくれるんだ。」
「そんなでたらめばかり言って…。そんなウソの絵なんか描いて、お前、恥ずかしくないのかよ。」
「そんな意地悪、言わないで。」
「もう、絵なんか描くのをやめてしまえ。」
「うぇぇん。」
アンジェラは泣いて、家に走って帰ってしまった。
なんだ、このクソガキは…。全く…。そのままアンジェラの後を追おうかとも思ったのだが、クルト少年の動きがどうも怪しい。
僕は木の中に半分体を埋め込むような形で彼の観察を続けた。
すると、彼は、その公園の少し木が多く生えているようなところに行き、葉や岩などの陰に隠れてガサゴソと何かをしている。
そして、彼が背負っていたカバンから取り出したのは、マッチだった。
その辺の落ち葉を集めて火をつけ、更にカバンから取り出したのはアンジェラから盗んだ画材だった。そして何の躊躇もなく筆を折っては放り込んでいる。
ひどい…なんてことを…。




