50. 異変
十一月三日水曜日。
朝食が終わって、みんなそれぞれのひと段落がついた頃、朝十時、動物病院が始まるまでの時間は三人そろって勉強をすることにした。
まずは、みんながどれくらい出来るのかを確認するところから…。
小学一年~六年の算数ドリルや漢字ドリルをやってもらったが、恐ろしい結果となった。
アズラィールがダントツでできて、アンジェラも徠人も字さえ読めないレベルだ。
そこでアズラィールが種を明かした。
「最初にここへ来た時に、言葉がわからなくて困ってた僕にライルは言語や学校に関する知識を分け与えてくれたんですよ…。」
「あぁ、そういえば、ドイツ語と日本語のコミュニケーションが出来なくてアズラィールが日本語を話せるようにしたんだった。そうだった、そうだった。」
「「そんなのズル過ぎる。」」
確かに、一人だけそれじゃずるいよね…。アンジェラと徠人がジト目で見る。
ここは父様に聞いて、ある程度のところまではみんな同じ情報を持つということで許可をもらった。
「じゃあさ、きっかり同じにしたいから、父様の中学校三年までの記憶から勉強。言語。一般常識的な事柄に限定して渡していくよ。」
「えー、何だよ。つまんね。好きな子の情報とかはないのかよ。」
「あ、徠人面白い事言うね。」
最近、アンジェラと徠人が仲良く気が合う様子になって来た。
「あ、俺さ午前の診療の手伝いだから、先にやってくれ。」
「う、うん。」
徠人の頭に手を当てて一番最初に情報を流し込む。
指定していないのに、徠人の持ってる新しい情報もこっちに流れてきた。
最初に触った時には勝手に流れてきた情報だけど、二回目以降は意識しなければ、勝手には流れてこないのか…。
徠人の周りが金色に光る。
「どう?」
「わかんね~けど、さっきの問題やってみるか。な。」
おぉ、積極的。
「じゃ、次はアンジェラね。目つぶっててよ、そんな険しい目で見られたらコワいよ。」
「いや、注射するときの気分だからね。」
「痛くないから。」
アンジェラもアズラィールも終わり、みんな同じレベルでプリントも解けるようになった。
「じゃあ、この後二時間はアズラィールとアンジェラの勉強時間でいいね。途中で休憩入れるから
午後一時の昼食にはみんなで参加ということで…。」
「イエース。」
情報を与えただけで、中学生の問題も、高校受験の問題も難なくこなせるようになった。
すごいな。
午後三時からはアズラィールが動物病院の手伝いなので、徠人が勉強する番だ。
他の二人と同じように出来るようになっていた。
「よくできたね、徠人。休憩しよっか。」
「ああ。ライル。ねぇ。俺にもピアノ弾いてくれよ。昨日アンジェラに弾いてあげてたよね。」
「う、うん。」
「あ、じゃあ。今日はね、昨日の夜に見た動画の曲を弾いてみるよ。」
ピアノの蓋を開けて、椅子に座る。
ピアノに手を乗せると、手の周りが緑に光り、この前よりもたくさんの光の粒子が空気中に煌めき始める。
まだ弾いてないのに…。
ラ・カンパネラだ。
今日もピアノを弾いている時には他の事を忘れ、気分が高揚する。
光がいっそう明るくなり、サビの所ではじけ飛ぶ。
僕の背中から翼が飛び出す。そして、翼が大きく広がる。
ピアノの音に誘われて、アンジェラが部屋から出てきた。
弾き終わるときには、側まで来ていて、優しい顔で僕に言う。
「癒されるな、ライルのピアノは…。」
「ダメだよ、俺のだぞ。近いぞ、アンジェラ。」
夕食の時間になった。
今日はみんな慣れないことで頑張ったと父様に報告する。
部屋に戻ったら日記も更新しよう。
その時、急に睡魔に襲われる。
あれっ?がたんっ。
「ライル、どうした?」
僕は真っ暗な空間に一人、ゆっくりと揺れて、蒼くほの暗い光を放って、ただひたすらに待っていた。
何も心配することはない。ただ黙って静かにすごせばいいのだ。
父様が手を振る。そして、見たことがない誰かも手を振る。
大切な誰かが、そこにいると言うのに、僕にはもうそれが
何かわからない。
自分が何を待っていたのかさえも…。
長い長い年月、ずっと待ち望んできた。
ゆらゆらと揺れる僕の炎は。もうすでに僕自身からも制御できなくなっていた。
「愛してるよ、ライル。帰っておいで。」
誰かがそう言った。
誰?僕を愛してるって言うのは。
誰だろう。僕には愛なんてわかりっこないのに…。
その時、徠人は意識のないライルを抱きしめて、ライルが見ている世界を一緒に覗き見ていた。
僕は炎、真っ暗闇の世界で、ゆらゆら揺れて、ただ待ってるだけ。
黒い核ともいえる球はその外側に血管を張り巡らせ、鼓動を打つようになっていた。どっくん、どっくん。
呼びかけに答えないライルをベッドに寝かせ、傍らで徠人は徠夢に話をしていた。
「最近、ライルが変なんだ。」
「どういう意味だい?変身が解けないことかい?」
「いや、そうじゃない。あいつの中にもう一人誰かがいる。」
「どういうことかわかるように説明しておくれ。」
徠人は自分が植物状態から目覚める前から、ライルが心のよりどころとしている何かを持っていると感じていた。
しかし、いくら自分がライルを深く知ろうと思っても、それは決して入り込めない部分だったと語った。
毎晩のように夢の中でそいつはライルを独占する。それをどうにかしようと毎晩ライルの夢に入り込んでいたというのだ。
そして、ここ数日は夢の中だけではなく、現実の世界でも…。ここ数日、ライルは度々うつろな目をしている時があった。あれは、すでにライルではない気がする、と徠人は徠夢に説明した。
どうにかして、取り戻さないと、ライルはどこかに行ってしまう。
なんの根拠もないが、徠人はそう感じていた。
徠人はライルのその華奢な体を抱き寄せて眠る。
戻ってきてくれることを祈って。
「おい、起きてるか?」
今朝も頭に直接話しかける声がする。
「また、くっついて寝てるくせに。やだなあ。もう。」
「おまえ、今どこにいる?」
「何言ってるんだよ、徠人の腕の中じゃないか…。」
「おまえ、今どこにいる?」
「徠人…。」
「どんな事でもするから、帰って来てくれ。な?」
「…。」
僕は暗闇の中で、ゆらゆら揺れている黒い球になっていた。
話しかけても、気が付いてもらえない。
僕の周りには血管が張り巡らされ、それは、今心臓の様に波打っている。
どっくん、どっくん。
「愛してるよ。ライル。だからどこにも行かないで。」
「誰?誰なの?」
僕は自分のベッドで目が覚めた。
背中が温かい。
後ろに向き変えると徠人が僕にくっついて眠っていた。
「徠人、おはよう。」
徠人は泣くばかりで、何も返事をしてくれなかった。
徠人が寝ている間に、僕はそっと徠人の髪を少し切り紐で縛って机の中に入れた。どうしてこんなことをしたのかはわからない。
朝食は喉を通らなかった。
何もしたくなくて、ぼーっとしてた。
僕の顔を洗って、徠人がかわいい白いふわふわの服を着せてくれた。
その後、またぼーっとして過ごした。
午後になった。
眠くて、ベッドに横になった。
徠人が寝ちゃダメって言うから、我慢してたら、美術館に連れて行ってくれるっていう。
アンジェラも一緒に行くっていう。
うれしいな。
でも、なぜか口からは何も言葉が出なかった。
美術館に着いた。
眠くて、立ってられなくて、徠人が抱っこしてくれた。
美術館のメインホールに一番大きな絵が飾られてた。
あ、これ、知ってる人だ。絵に手を伸ばした。
僕は意識を失った。
それと同時に、徠人とアンジェラは、ライルがその絵に手を伸ばした直後、翼を広げて光の粒子となり消えて行くのを止めることも出来ず、愕然としていた。
その絵には、【破壊の天使】が描かれていた。
中央に片腕をあげ人々を支配し、足元に十二個のドクロを踏み台として世界を征服を牛耳る暗黒の天使。
その姿は、女性化したライルそのものだった。
徠人はすぐに徠夢に連絡する。
徠夢は石田刑事に連絡を入れた。
美術館でその絵の写真を撮って徠夢に送った。
その絵に描かれている場所がわかれば、何かヒントになるかもと考えた。