460. マリアンジェラ(1)
12月18日、土曜日。
夕方にアニマルシェルターの職員からメッセージをもらい、サムがジェイミーのところに引き取られたとわかった。
僕は、この件はもう大丈夫だと確信を得たのでアンジェラに報告をすることにした。
その日の夕食時、少し眠そうなアンジェラが、テキパキと子供たちの世話をしている。
僕は忙しそうなアンジェラが軽く聞き流してくれれば、という気持ちでジェイミーの事を報告した。
「あのさ、アンジェラから教えてもらった助産師さんにお願いしてベンの出生届も出せたし、驚いたことにベンの体の障害が少なくて済んだんだ。ジェイミーは全く別の事が原因で家から出ることになったけど、結局はベンの家に引き取られて、今はサムも引き取られて、皆で幸せに暮らせることになったんだ。」
「ほぉ、そうか。まさかそこまでいい方向に行くとは思わなかったな。」
「うん、アンジェラのおかげだよ。ベンの伯父さんは誘拐事件を起こさなかったんだ。でも、ジェイミーの事を引き取ってくれた。」
「あまり過去を変えることがいいことだとは思わないが、後悔のない人生を歩んでもらえたらよかったと思うぞ。」
僕もその意見には同意である。
夕食を終えたマリアンジェラが、珍しく眠いと言い出し、ぐずり始めた。
歯を磨かせ、僕の部屋に一緒に戻り、当たり前のように僕のベッドに入る。
今日から僕の学校はクリスマス休暇で、僕が家にいるから甘えているのかと思ったのだが…どうやら違うようだ。
ベッドに入るなり、すごく深い眠りに入った様で、瞑った目の奥で瞳が左右に動いている。これは、夢を見ているのだろう。
どんな夢を見ているのか…僕はそう思いながら、マリアンジェラの夢に入って行った。
そこは、まっくらな空間だった。空気があるのかもわからない。音もなく、光もない。その真っ暗な空間に、大人の姿のマリアンジェラが美しい白いオーラを纏って床に座っている。なぜか体育座りだ。マリアンジェラは目を瞑ったまま、静かに耳を澄ましている様だ。
その夢の中には、僕は存在していない。まるで映画のワンシーンを撮影しているカメラのように、マリアンジェラをとらえている。
どれくらいそのまま過ごしただろう、無の空間に小さな光の穴が開いた。
マリアンジェラがその穴を覗くと、そこにはあの女神の洞窟が見えた。
その小さな穴から蛍の光のような小さな光がスッと入ってきた。穴はすぐに閉じ、光の粒はマリアンジェラの体の中に入った。
マリアンジェラは胸の奥にその光を温めながら、エネルギーを送る。ある程度時間が経った時、また少しだけ女神の洞窟への穴が開く、マリアンジェラは体をその穴から押し出し、口から少し大きく育った光の粒を押し出すのだ。
その粒は決められた世界の決められた場所へ円卓の中心部分の穴に入ると自然に送り出される。
ずっとそんなことの繰り返しだ。
ある時、蛍のような光の粒が二つ来た時の記憶だろうか…二つのうち、一粒が弱々しく明滅していた。それを庇うかのようにもう一つがその粒に寄り添う。
マリアンジェラは初めて見るそんな光景に、不思議と惹かれた。
まだ意思も、自我も何もない、命の核の元である光の粒…それがもう一つを支えようとするなんて…。
天使の核が何故二つ同時に送られるのか…。それは、一つがメインで、もう一つは保険なのだ。どちらかが死んだり、ダメになったりしたときに代わりとなるものだ。
きっと、この弱々しい光の粒は育たずに死んでしまうのだろう。
そんな事を思いつつ、世の中に送り出した後で、度々、その二つの核の事を思い出すのだった。
マリアンジェラは神の一柱であり、世の中の者とは距離を隔てている。
関わることは許されない。天使は神の代わりにその世界が滅びないようにバランスを取ったり、戒めるべき者には排除を敢行する立場だ。
そのために色々な能力が神から与えられているのだ。
だが、その天使も万能ではない。一人に一つの能力しか与えられず、病気にかかれば死ぬ。事故に遭えば命を落とす。
運悪く能力を知られれば、人々に利用されてしまうこともある。
世の中のために尽くしても、報われない場合も多い。しかし、それが天使の役割だと言われればそれまでだ。
天使が死ねば、その核は、また女神の洞窟に戻り、次の違う世界での出生を待つのだ。
あぁ、そうだ肝心なことを忘れていた。彼女はマリアンジェラではなく、アフロディーテなのだ。
彼女は、ある日、あの弱々しい核がどうなったのか気になった。
そして、普段はやらないけれど、あの核が行った先の様子を遠くから見つめることにしたのである。
その先には、双子ではなく男の子が一人生まれただけだった。二つの核の気配があるのに一人しか見当たらない。そう、それは僕が変えてしまう前の僕の住む世界だった。杏子が母で徠夢が父で、子供の時はほぼ放置され、それでも父と母を慕い、愛されたいと常に思いながらも、擁護してくれる祖父も祖母も存在せず、いつも一人きりの僕だ。
マリアンジェラ(アフロディーテ)はそんな僕に興味を持った。
普通、天使は地位のある家や、権力を持つ者の家に生まれ、その奇異なる異能を発揮するために有利な環境と保護されるべき立場になるはずだ。神はそれを保証し、愛されるべき者として、天使は生きるのである。
しかし、僕はどうだ…。表面的には亡くなった医師の孫、獣医師の息子、何不自由ない状態だと思われるだろうが、実際には孤児のように親の愛情から離れたところに存在していた。
マリアンジェラ(アフロディーテ)は、僕が何かあるたびに深く傷つき、悩み、苦しんでいるのを目の当たりにした。
『可哀そうなライル。私が側にいてあげたら、どんなにかよかったのに。』
何度もそんな事を考えているうちに、思いもしない事件が起きた。
それは、あの天使を12人拉致して、自分の望みを叶えるために由里拓斗が起こした500年にも渡る拉致事件だ。
マリアンジェラ(アフロディーテ)は、遠くからそれを見つめていた。
そして、あの封印の間で僕の体がもう一つの核の持ち主でも何でもないメッセンジャーに奪われ、僕の核が頭の中にわずかに存在していたもう一人の天使の、腫瘍と化した細胞に押し込められたのを目撃したのだ。
『こんなに頑張ってきて、皆を助けてきたのに…ひどい。』
マリアンジェラ(アフロディーテ)は嘆き、悲しみ、その腫瘍と化した細胞を封印の間から女神の洞窟に持ち帰った。
自分の体内にその細胞を入れ、ゆっくりと、細胞を培養した。
女の子の細胞だった。でも元の形で返してあげようと思った。
自分の中で育んでいる時、僕の核がもう一人の天使の核に覆いかぶさり二重になっていることに気づいた。
マリアンジェラ(アフロディーテ)は、その内側にまだ生きている核に、自分の核の欠片を埋め込んだ。
『うまく育ってくれたなら、私はあなたの元であなたの生きる世界に生まれ、絶対にあなたを幸せにする。可哀そうなライル。私はあなたをあきらめないわ。』
マリアンジェラ(アフロディーテ)が己の体内で育てた腫瘍と化した細胞は、めきめきと成長し、あっという間にライルだった時の体へと変化を遂げる。
そして、ライルの体を乗っ取ったメッセンジャーが傷を癒すために女神の洞窟で養分を吸っていた他の個体と共に連れ帰ったのだ。
あぁ、なんてことだ…。
一回目の人生で、マリアンジェア(アフロディーテ)に僕は生かされていた。
完全に死ぬところを、助けられていたんだ。
僕は、実体のない自分の目からたくさんの涙があふれ出るのを感じた。




