393. ミケーレと涙の石(2)
リリィが叫びながらミケーレの体を強く抱きしめた。
その体には、少しも力が入っておらず、だらりと両手が重力に負けて下がり、開いたままの双眸には、虚しくリリィの姿が映るだけだった。
「ミケーレ、どうしてこんなことに…。」
アンジェラは後悔した。まさか、涙の石が涙を流させたり、女神の洞窟へ行く鍵になるほかに、こんな恐ろしいことが起きる原因になるとは思いもしなかった。
ミケーレを抱くリリィを更に包み込むように二人を抱きしめたアンジェラは心の底からの後悔と、心の底からの愛の涙を流した。
「ミケーレ、私のせいだ。」
アンジェラはミケーレの頬にそっとキスした。アンジェラの涙がミケーレの上にポタポタと落ちた。その一つが、額に落ちた。
『ブワッ』と金色の光がミケーレの額から発せられた。リリィとアンジェラはあまりの眩しさに目を瞑った。次に目を開けた時に、あまりの異様な状態に二人は息をのんだ。
ミケーレの額の穴から帯状の光の文字が流れ出て、それがミケーレの体全体をグルグルと巻き付き始めている。
「な、何、これ…」
リリィは泣きながらそれを引きはがそうとするが、それは手に触れる事さえない。
そんな物質だった。目に見えるのに存在しない、そこにあるのに触れられない。
ミケーレを抱きしめる腕に力が入る。
ミケーレは元々とても華奢で軽い子だったが、今、彼の体はさらに軽く感じ、まるで空気を抱きしめているようだった。
実際、ミケーレの体は徐々に上昇していた。
掴んでも掴んでもするりと腕から抜け出てしまう。
そして、体全体を金色の文字の帯が完全に覆った時、ミケーレの体は空中で縦になり形を変えたのだ。
むくむくと大きく膨らみ、あっという間に成人男性の大きさになると、着ていた服は粉々に粉砕され飛び散った。
アンジェラとリリィは思考が追い付かず、二人とも息をするのも忘れ、見守るしかなかった。
体を覆っていた文字はいつの間にか消え、体全体に青いオーラを纏い、髪は腰まで伸び、そして、大きな翼を広げた。
注目すべきはその額だ。さっき、弾丸のように食い込んだその場所には、なんと第三の眼があった。
その瞳は金色で、瞬きをして、リリィとアンジェラを見ている。
「ミケーレ…何が起こったんだ…。」
のど元からアンジェラが声を絞り出した。
ミケーレが見開いたままの双眸を瞑り、瞬きをした。ゆっくりと呼吸もしている。
「ミケーレ、大丈夫か?痛いところはないか?下りておいで、パパのところへおいで。」
アンジェラがミケーレに手を差し出すと、かすれた声でミケーレが言った。
「パパ…僕、頭が痛い。」
「おいで。ほら、こっちにおいで。服を着よう。な。」
ミケーレがガクッと力なく前方にうなだれたとき、アンジェラは素早く受け止め、ブランケットを体にかけた。
とても子供部屋のベッドに寝かせられる大きさではない。
アンジェラは大きくなったミケーレを自分の寝室へ運び、ベッドに寝かせた。
そして、自分の下着やパジャマを着せると、やさしく髪をといて整え、少し眠りなさいと言った。リリィも横で見守っている。
ミケーレは素直に頷き、眠ってしまった。
その場をリリィに任せ、アンジェラは子供部屋に行き、涙の石が入ったクッキージャーに蓋をした。そして、アンジェラの書斎の中にある隠し金庫にそれをしまい、鍵をかけた。
『また必要になるまで、これは隠した方がいいだろう。』
そして寝室に戻り、しばらくミケーレを見守ることにした。
リリィがアンジェラに話しかける。
「アンジェラ…。私、すごく心配なの。」
「あぁ、私もだ。あの、女神の洞窟で聞いた『天使を変えるには三つ』必要という言葉が頭の中で何度も繰り返されたよ。天使を変えるとはどういうことなのだろう?ジュリアーノとライアンがそうであるなら、ミケーレの状態とは異なる気がするのだが…。」
「うん。でもミケーレに何か起こったのは事実だし、本当に無事なのかもまだわからないわよね。」
「そうだな…。早く元に戻って欲しいが…。」
今までの一番かわいい盛りの息子がいきなり大人の大きさになり、戸惑うアンジェラだった。しかも、さっき口にしていた言葉は子供のそのままだ。
第三の眼にはまつ毛などはなく、閉じているとそれが目だという事もわからないほどだ。
しかし、この状態では外には行けない。好奇な目で見られてしまうのは確かだ。
見守ったまま10時間以上過ぎ、アンジェラとリリィはそのままベッドの脇に椅子を置き、座ったまま眠ってしまった。
時刻は夜9時過ぎだった。
ミケーレは目を覚ました。
あれ?僕、どうしてパパとママのベッドで眠っているんだろう?
えへへ、今日はパパとママを独り占めだ…。
でも、トイレに行きたくなった。二人を起こさないようにベッドからそっと下りてトイレに向かう。
あ、あれ?なんか変だ…。歩こうと思ってもなんだかうまく足が運べない、それにいつもより床が遠い。どうにか壁を伝いながらトイレに着いた。
電気をつけて、洗面台の前を通り…チラッと鏡を見た。
「わーーわぁー!」
ミケーレは思わず大声をあげてしまった。
髪が少しボサボサのアンドレがいた。いや、アンジェラか?
アンジェラとリリィが慌ててトイレに駆け込んだ。
「ミケーレ、どうした…」
「パァパ、僕、なんか変になってるの?」
ッそう言ってアンジェラにしがみつくミケーレにアンジェラは気休めの言葉をかけるしかなかった。
「ミケーレ、今日あったこと、思い出してごらん。金色の石が額に飛んできただろ?」
「ん?」
「パパとママは驚いたんだ、ミケーレが怪我をしたんじゃないかって…。でもな、その後変な光の文字がその額の丸い穴から出て、体を覆って、光が消えた後でお前がどんどん大きくなってしまった。」
「僕、綺麗な金色の石を見てただけなのに…。」
「額は痛くないか?」
ミケーレが鏡を見ながら自分の額を触った。
『カッ』と第三の眼が開いた。
「きゃーっ」
ミケーレが怯えてまたアンジェラにしがみつく。
「パパ、僕のおでこに何か変なのついてた。」
「ミケーレ、それはあの石が、まるで眼のようになっているんだ。なぁ、何かそこから見えたりしないか?」
そう言われて、ミケーレはおずおずとリリィの方を見る。
「…。ママ…。ママの後ろにGがいるよ。」
「え?え?え?ぎゃー」
リリィの後ろにはGがいた。
「ミケーレ、ふざけないで、なにか特別なものが見えたりしないか?」
「うーん。」
唸りながら、今度はアンジェラを見る。
『キーン』とまた金属が震えるような音がした。
その時、ミケーレの第三の眼には二人の小さな金髪の赤ちゃんを抱っこする姿が見えた。
「あれ?僕、お兄ちゃんになるみたい。金髪の双子とパパが見えた。」
「本当か?」
「うん。でも一瞬だったよ。」
今度は自分の姿を鏡越しに見る。金色の瞳が怖い。
『キーン』また聞こえた。
自分の姿を見て、驚いた。スーツを着て、ネクタイをしていた。
「僕、会社で働く人になるみたい。」
「そ、そうか…。どうやら、お前のその眼は未来を断片的に視る様だな。
とにかく、何か少し食べて、落ち着こう。」
「うん。」
そう言って二人はダイニングへ移動した。
すれ違いで、リリアナを連れたリリィが洗面台の方へ行った。
「キャー、そっち。ぎゃー。」
とリリィの奇声が聞こえ、落ち着いたところで、リリアナがダイニングに出てきて言った。
「ちょっと、Gくらい自分たちでやっつけなさいよ。って、あなた誰?」
リリアナがミケーレを見て固まっている。
「リリアナ、僕ミケーレだよ。」
「え?なになに、どうして大きくなっているの?しかもアンドレと同じくらい?
うわ、さぶっ。やっぱり同じDNAなのかしら?」
その時、それまで瞑っていたミケーレの第三の眼が開いた。
「う、うわっ。何、それ、強烈。鳥肌立ったわ。」
『キーン』また聞こえた。
「リリアナ、髪の毛に接着剤がついて取れなくなるみたいだよ。気をつけてね。」
リリアナ、完全にフリーズだ。
「そんなものつくわけないじゃない。でも、ミケーレ大変ね。そのままじゃ外にいけないわ。」
リリアナはそう言って部屋に戻って行った。
そこにゴム手袋とゴーグルとマスクをしたリリィが捕獲したと思われるGがいるであろうと思われる新聞紙の丸まった物を、ガムテープでガチガチにくっつけて登場した。
「ママ、すごいね。」
「てへへ…」
リリィが完全武装を解除して、お手伝いさんが作って冷蔵庫に入れてくれた夕食を三人で食べることにした。
シチリアンミートボールのパスタとサーモンマリネのサラダだった。
アンジェラがミケーレの分を取り分ける。
「パパ、ありがと。」
リリィの分もアンジェラが取り分け、三人で食べ始める。
「ん、おいちいね、このミートボール。いつものとちょっと違う。」
「確かに、いつものよりソースにコクがあるな…。」
もぐもぐ…。うんうんと頷きつつ食べ続けるリリィ。
上品に食べ終わって口の周りを拭くミケーレ、いつもと変わらない。
食べる量もいつもと変わらない。その時、ミケーレに異変が起きた。
「うっ」
と苦しそうな声を出し、第三の眼辺りを抑えている。
「どうした、ミケーレ…痛いのか?」
問うアンジェラに小さく頷くミケーレ…。アンジェラが駆け寄ると、椅子に座ったままミケーレが意識を失った。
「かわいそうに…。」
アンジェラはミケーレをまたベッドに連れて行き、寝かせた。
アンジェラは添い寝をし、ミケーレの頭を撫でながら顔を見つめていた。
思わずアンジェラの眼から涙がこぼれた。
その涙が、ミケーレの額に落ちた。
「あっ」
思わずアンジェラが声を出した。ミケーレの額の第三の眼が開き、そこからあの光る文字が体をグルグルと巻き取っていく…。
しかし、ぐるぐる巻きになった後、ミケーレは徐々に小さくなり、いつも通りの姿に戻った。第三の眼があった場所には、うっすらとよく見なければわからないほどの小さいほくろのような物が出来ていた。
もしかすると、またそこに涙が触れると同じように変わってしまうかもしれない。
気をつけなければ…。
その日はアンジェラとリリィのベッドに三人で川の字になって眠った。
翌朝ミケーレが目が覚めた時、二人に手を握られて眠っていたミケーレは今までで一番の幸せな気持ちになった。




