312. あっちの世界の拉致事件(3)
ライルの視界が一瞬暗転し、次第にクリアになる。
『あっ、くそ。マズイ。』
ライルは留美の体の中に入り込む形で転移していた。目の前には大きなナイフを持ったあの眼鏡の痩せた男が立っていた。
薄暗い地下室の様な窓のない部屋だ。
静まり返っていて、何も音は聞こえない。このまま留美を殺すつもりなのか?
もう少し、もう少しだけ様子を見よう。じりじりと近づいてきた男が留美の足を撫でる。
キモい。この男は本物の変態だ。
留美はストレッチャーの様なものに縄で縛り付けられていた。
本人の意識はなく、目は半開きだ。僕が留美の体を支配することも可能。しかし、腕や足の自由は確保できない。
この男は何を目的としているのか…。
確か、この世界では留美は徠夢と大学生でできちゃった結婚のはずだ。
妊娠・出産時は大学を休学し、その後大学に復学し、一年遅れて卒業の後小学校の教員になっている。その最初の職場で同僚だった男だと思われるこの変態野郎は、すでに14歳の大きい娘がいるような元同僚の留美を一体どうしようというのか???
最悪、このまま転移して逃げるしかない。
男は足を撫でているだけで何も話さない…。
と、突然、男の携帯に電話がかかってきた。ここは地下ではないのか…。
男が誰かと会話している。
「は?何言ってるんだよ、あんた誰だ?あん?誘拐?んなことするわけないだろう。
俺はな、優秀な遺伝子を持った立派な人間なんだよ。そんなことしなくたって、女はみんな俺にひれ伏して、俺の子供を産ませてくださいって懇願するんだ。
ざけんじゃねえ。」
男はそう言って電話を切った。
そして、また留美の方へ近づいてくる。
「お前が俺じゃない男の子供なんか孕むから、こんな目に合うんだよ。
だから、俺がその子供を出してやるよ。」
男がナイフの刃を下に向けて下ろした瞬間、僕は留美の体と共に同じ室内の隅の方へ転移した。
何かいい方法はないか…。相手を拘束し、なおかつ、留美の安全を確保し、警察にこの場所を知らせる手段…。
あ、そうだ…。
僕は犯人の男の目を見つめた。
そして赤い目を使って命令を下す。
『今すぐ110番に電話をかけ、この場所と自分の名前を告げ、自分が二人誘拐して、男を湖に捨て、女の腹を切ろうとしていると言え。言った後、お前の体は警察官に確保されるまで一切動けなくなる。瞼も自分で閉じることができない。』
男の瞳に赤い輪が浮かんだ。
さぁ、どうなるか…。僕は留美の体のまま先ほどのストレッチャーの上に横たわり様子を見た。
男が目を見開いたまま、110番に電話をかけている。
自分でやっていることが理解できないのか、抗うように時々唸り声をあげるが、命令は絶対だ。電話が繋がり、男が自分の名前とこの場所の住所と、ここが男に関係のない人間の別荘であることを告げる。
変な呼吸をしながら男が「俺以外の男の子供を妊娠した留美を許せないと叫び、腹の子供を殺してやる。」と絶叫する。
男が電話を切った後、男の瞼は開いたままの状態で眼球がどんどん乾いていき、しかし、体は全く動かず、何も言葉を発することもできずにいる様だ。
ちゃんと命令通りにうまく行っている。
10分以上経っただろうか、外が騒がしくなった。パトカーのサイレン、人の声、ドアを壊す音、突入の瞬間だ。
ずいぶんと大人数で来たようだ。
石田刑事の姿もあった。
男は、警察官に拘束されると、それまで見開いていた目を覆い、狂ったように叫び始めた。
「悪魔だ、悪魔が俺に命令した。」
拘束を確認した後で、僕は留美の体から外に出て建物の裏手で実体化した。
僕のポケットに入っているスマホにアンジェラから着信があった。
「ライル、大丈夫か?」
「僕は大丈夫だ。留美も、大丈夫だった。うまくやれたよ。これからそっちに飛ぶよ。」
僕は電話を切って、朝霧邸に転移した。
瑠璃は家の電話で石田刑事から捜査の状況を聞いているようだった。
徠夢は輸血を受け、回復に向かっているようだ。
留美は怪我はないだろう。薬品で眠らされていたようだ。
さえない男が、人妻である留美に8年越しの片思い、そして、妊娠を知り暴挙に出たストーカー事件だった。
そういえば、未徠はどこに行っているのだ?
アンジェラの話では、未徠は一週間前に妻の亜希子が脳梗塞で倒れ、付きっきりで看病しているため、何も知らせていなかったという。
アンジェラの運転で亜希子の入院先に早朝訪問した。
未徠は僕のことを知っていた。
「ライル君だね。どうして君がここにいるんだい?」
未徠にそう聞かれて、少し困った顔をした僕をアンジェラがフォローした。
「ライル君に留美さんと徠夢を助けてもらったんです。詳しくは亜希子さんが退院したらお話します。」
「お婆様…。」
僕の世界の祖母と変わらぬ姿の亜希子を見て、僕は思わず能力を使ってしまった。
白い光が僕の手から出て、亜希子の頭の中を癒していく。
本来なら、命を落としていてもおかしくないほどの重傷だ。
「おぉ、ライル君…君は…一体…。」
僕は何も言わずにその場を後にした。
瑠璃が少し落ち着きを取り戻すのを待ち、僕はアンジェラを連れ、イタリアの家に転移した。
アンジェラには少し話をした。
「これは、あの絵本をくれたお礼だよ。あの絵本があったから、僕達も助かったことがあった。あの絵本がどこから来たかわかったら手紙で教えてくれないか。」
「あぁ、ありがとう。いくら感謝してもし足りない。わかった。絵本の事、調べてみるよ。何かわかったら必ず手紙を書く。」
そうして、僕は元の世界に戻ったのだ。
ちょうど24時間ほどかかったか、家に着いたら深夜0時頃だった。
どうしてわかったのか、リリィが倉庫の中に走ってきて僕に抱きついた。
「ライル、大丈夫?怪我してない?」
「うん、大丈夫だよ。」
なんだか、うれしいのと、恥ずかしいのとごちゃまぜだ。
アンジェラはまだ書斎で仕事中らしい。書斎を覗いて、帰ったことを告げ、リリィと融合してゆっくりと過ごす。もう、すぐに眠りたい。
僕は、リリィの姿でベッドにもぐりこみ、目を閉じた。眠りにつくまで、約三秒。長い一日が終わった瞬間だった。




