249. バッドトリガー(2)
外が明るくなってきたころ、ベッドの中がモゾモゾと動いて目が覚めた。
「きゃー。何?何?」
僕が悲鳴に近い声を上げたところで、モゾモゾの主が登場した。
つややかな銀髪に海の底みたいに深い碧眼、まだ幼稚園にも行ってるかどうかわからないくらいの小さな女の子だ。白いふわふわのパジャマを着て、どうやらベッドの足元から潜り込んで来たらしい。
「ほえ?ライル?どうしちゃったの?」
「僕はライルだけど、き、君は誰?」
可愛らしい顔をキョトンと傾げて、腕組をした後、数秒そのままで、質問に答えた。
「マリー、マリアンジェラ・アサギリ・ライエン。2歳。」
僕はそれを聞いて、『アサギリ』から親戚だとは思ったけど、状況がよくわからず、後ろに後ずさった。そして周りを見た。
見覚えのない、やたらと広い部屋。家具もほとんどなく、自分が乗っかってるすごく大きなベッドとその左右にキャビネットと、少し離れたところにソファと小さいテーブルがあるだけだ。
「ここ、どこ?」
「どこって、イタリアだよ。どうしちゃったの?」
「僕、寝ている間に知らない人の家に来ちゃったみたいなんだ…。帰らないと、父様と母様がきっと心配しているから…。」
僕は慌ててベッドの脇にあった室内履きを履き、その場を去ろうとした。
ところが、さっきの女の子がものすごい大きな声で叫んだんだ。
「パパ~、大変!ライルが、ライルが、小さくなってる!」
僕はダブダブのパジャマの裾を踏んずけて転び、女の子の大きな声に驚いて、ベッドで僕の横に寝ていたらしいものすごく背の大きな黒い髪のおじさんが飛び起きた。
背の大きなおじさんは、僕を抱えてベッドに座らせると、僕の顔を穴が開きそうなくらい見つめた。僕はその目が怖くて、目を逸らした。
「あの、すみません。僕、家に帰らないと、父様と母様が待ってると思うので…。間違えてここに入ってきて、ごめんなさい。どうやったら帰れますか?お金も持っていないし、ここがどこかもわかりません。」
段々不安が増してきて、涙目になる。
騒ぎを聞きつけて小さい男の子と金髪の女の子もその部屋に入ってきた。
「パパ、これライルだよね?」
ミケーレの質問にアンジェラは答えなかった。
「お兄ちゃん?」
ライナの言葉に、不安が更に募った。
「え?誰?僕、どうして知らない人の家にいるのか、わからない…。」
「ライル、落ち着け。お前の父親の名前と職業は?」
「父様は朝霧徠夢。お家で動物病院で獣医さんをやってるの。」
「母親の名前と職業は?」
「母様は朝霧杏子。父様と一緒に獣医さんをやってる。」
「お前は何歳だ?」
「9歳。」
「ライル、アズラィールを知っているか?」
「知らない。」
「お前のおじいさんはどうしている?」
「ぼ、僕が生まれてすぐに事故で死んだって聞いてるよ。」
アンジェラはかなり焦った。アンジェラと出会う前の小学三年のライルに戻ってしまったとしか説明ができない状況だ。
「ミケーレ、リリアナとアンドレを呼んで来い。」
ミケーレは黙ってアンジェラに従った。
すぐに慌てて走ってくる音が聞こえ、大きなおじさんにそっくりなお兄さんと、金髪のお姉ちゃんが来た。
金髪のお姉ちゃんが、前に出てやさしく僕の手を触った。手が少し金色の光で光った気がした。
「アンジェラ…、何があったの?」
「リリアナ、どういう意味だ?」
「この子は私やアンドレだけじゃない、あなたのことも、子供たちのことも、全ての記憶を持っていない。今までやってきたことも、何もかもが消えている。ねぇ、何をしたの?」
アンジェラは頭を抱え込んで、昨日の夜に二人で交わした会話をアンジェラの手をリリアナに触らせ記憶を見せる。
「どうして、そんな態度をとったのよ。」
アンジェラは言葉が見つからなかった。ただ何となく、自分のジンクスみたいなものにとらわれてしまい、自分の事を愛してくれていると伝えてくれた最愛の人に冷たい態度をとってしまったのだ。自分はいつも愛していると言うくせに、相手に言われると不安になるなんて本人もよくはわかっていなかったことなのだ。
医者に連れて行くわけにもいかず、リリアナが体を調べてもどこも悪くはない。
リリアナがライルに優しく問いかける。
「ライル、翼は出せる?」
「翼?僕は人間だよ。そんなの無理に決まってる。」
リリアナはライルの目の前で翼を出した。
「わっ、すごい。どうやってやったの?お姉ちゃん、天使なの?かっこいい。」
翼で驚くと言うことは、どんな能力ももう使えないか覚醒前の状態になっているか、そう思い込んでいるのだろう。リリアナは悩んだ。
リリアナがアンジェラに言った。
「下手をすると私も消えてしまうかもしれない。でも何が最善策か判断できない。
日本に連れて行く。そして、少しずつ私の持っているライルの記憶を夢として見せて行こうと思う。」
リリアナはライルの記憶を全て持っているわけではない。こんな時にリリィの分身体がいてくれたらと思うが、多分このままでは二度と会うこともないだろう。
アンジェラは日本の徠夢に電話をかけた。
ライルが記憶喪失になり、体が9歳の頃の状態になってしまった。家に帰りたいと泣くので日本でしばらく療養させて記憶が戻るまで預かって欲しいと説明した。
電話を横で聞いていたマリアンジェラとミケーレが泣き出した。
「ライルが日本に行っちゃうの?ねぇ、ママは?ママはもういないの?」
マリアンジェラはアンジェラがいくらなだめても納得がいかない様子だった。
リリアナは事前に杏子は本当のお母さんじゃなかったこと、北山留美が母親であることをライルに伝えた。
「え?北山留美って学校の僕の担任の先生と同じ名前だよ。」
「その本人よ。」
「ええっ?でも、じゃあ母様は僕のお母さんじゃなかったの?」
「そうなの。違うのよ。悪い奴らの一員だから、絶対ついて行かないようにね。」
「…。」
「本来なら中学に行ってるんだけど、少し前から学校は違うところに行ってたのよ。
5年も前の状態になっちゃってるみたいだから、どっちにしても行けないわね。」
リリアナは軽く説明して、ライルのパジャマの裾を折り、手を繋いだ。
「アンジェラ、あなた、本気で反省しなさい。」
リリアナがいつにも増して厳しい言葉をかける。
そうして、ライルは日本の朝霧家へと帰って行ったのである。




