19. 天使降臨
時は一八七五年七月二十八日の月が碧く輝く夜、ここ朝霧家では一人娘の鈴が原因不明の病に倒れ、両親が見守る中、最期の時間を過ごしていた。
夜九時を過ぎた頃であろうか、それまでは月明かりが怪しいほどに明るく輝いていたというのに、急に暗雲が立ち込め、一瞬の後にドーンという爆音と同時に稲妻が轟いた。
朝霧家の裏庭の樹齢百年を超える桜の木に、その稲妻が直撃し、黄金の巨大な光が発せられた。
襖の内側からその光を確認した朝霧家の当主 朝霧緑次郎は妻と共に裏庭へ急ぎ、何が起きたのかを確認したのだ。
そこには、桜の木は稲妻により真っ二つに割け、その根元には一人の少年が横たわっていた。
髪は少し長く黄金の輝きを放ち、肌の色は透き通るように白く、この世の者とは思えぬ美しさだと二人は思った。
そして、緑次郎がこの者を見たのは初めてではなかった。
「天使様…。」
緑次郎はそうつぶやき、周りのことなど気にせず、その少年を抱き上げすぐに家の中へ連れ帰る。
稲妻に打たれたことは間違いないであろう。
しかし、外傷は見当たらず、息もある。
緑次郎はその少年を娘の横に布団を敷き寝かせると、祈るようにこう言ったのだ。
「天使様。ずっとずっと、お待ちしておりました。」
緑次郎と妻はひたすら祈って少年が目を覚ますのを待った。
一か月ほど前から、緑次郎の娘 鈴は急に発熱したかと思うと、食欲どころか起きていることもままならないほど、意識が混濁していた。
遠くから腕のいい医者と言われる者を何人呼び寄せても、病魔の原因はわからず、次第に鈴の体はやせ細り、すでに会話もできず、誰が見ても鈴の命は消えゆくものとわかるようであった。
緑次郎は無念であった。
自分は本来、すでに死んでいる人間だ。それは、わかっていた。
およそ二十数年前、三歳の頃、隣接する土地の領主率いる賊に両親や姉妹、家臣などを全て惨殺され、自分は放たれた火でもう生きる望みなどない焼けただれた状態になったのだ。
燃えさかる城から逃げることも出来ず意識を失い、すべてをあきらめていた。
しかし、気が付けば黄金の髪を持ち、碧眼の美しい少年が目の前に現れたのだ。
緑次郎は自分には神から天使が遣わされ、天国へ行けるのだと思った。
しかし、その少年は緑次郎にやさしく手を差し伸べ、顔や腕や、息の出来ない胸までもそっと触って言ったのだ。
「もう、大丈夫だよ。頑張ったね。」
緑次郎の意識はそこで途絶えたが、気が付けば今彼が跡を継いでいる商家に運び込まれ、そのまま安全な場所で育ててもらったのだ。
緑次郎はその時のことを今でも忘れない。
暖かなその手、透き通る碧眼、自分をやさしく見つめたその眼にまたいつか会える日を夢見ていた。
しかし、今はただ会いたいだけではない。
自分の大切な娘 鈴が命の火を消そうとしている。
もし、彼が、あの金髪の少年が天使であるならば、自分の所に再び舞い降りて助けてくれるのではないかと、密かに願い続けてきたのである。
そして、今日、稲妻と共に少年は降り立った。
二十数年の時間を経たにも関わらず、全く同じ姿で、緑次郎の前に。
「あぁ、神よ。私の願いを叶えて頂き、ありがとうございます。どんな事でも従います。娘の命をお助け下さい。」
しかし、その少年は目を覚ますことなく、横たわっているだけだった。
娘の命の火は消えようとしている。
もう何時間持つかわからない。
少年が降り立ってから約一日が過ぎた。
緑次郎は、奇跡は二度も起こることではない、とあきらめかけていた。鈴の息がすこしずつ弱くなっていく。
絶望しかない状態でも緑次郎はひたすら待つことしかできなかった。