176. ライルの望み
一方で、封印の間に訪れたライルは、自分が見てきた場所にはアンジェラも自分も存在しなかったことを悲観していた。
どうしてそうなったかは覚えていなかったが、何かが起きて世界が変わったとは感じていた。もしかしたら違う並行世界に自分だけが投げ出されたのかとも考えた。
最後に自分が覚醒したころの朝霧家を訪れた時に、たまたま瑠璃の脳腫瘍摘出手術直後で、両親も祖父母も留守であったことに気づかなかったことをライルは知らない。
朝霧家にいたのはライルの知らない叔父の家族だった。
髪の色から、自分の先祖さえも消滅してしまったと考えたライルは、とうとう選んではいけないと自分自身で決めていた選択を最後に選んでしまうのだ。
封印の間で、ルシフェルの亡骸の前に立ち、自分の腹に右手を突っ込んだ。
「ウッ」
掴んだその黒い核は、すでにかなりの大きさに育っていた。それは、表面に血管を張り巡らせ、心臓の様に脈打っていた。
『ドクン、ドクン…』
大きく育ったそれを、自分の腹の穴などそのまま全く気遣いもせずに、ルシフェルの胸にそっと押し当てた。
大理石か金属の様なルシフェルの体であるのに、手が何の抵抗もなくめり込んでいく。
「ごめんね。こんなことお願いする僕を許して。」
ライルは黒い核をルシフェルの胸の中で離し、手を抜いた。
持っていたブランケットでルシフェルの体を包み、跪いて、ルシフェルの唇に口づけをした。
ルシフェルの体が鈍い光を発し明滅を始めたかと思うと、ルシフェルが目を開いた。
いつもの悪魔の様な瞳ではなく、濃いラピスラズリの様な、美しい碧眼だった。
「アンジェラ…」
ライルは最後にアンジェラと同じ瞳が見られて安堵した気持ちになった。
ルシフェルの体がやわらかくなめらかな物質へと変わり、乳白色の体に光を纏い静かに立ち上がった。
ルシフェルが大きな翼を広げてライルを見つめる。
「希望を聞こう。」
ルシフェルが穏やかな声でそう問うと、ライルは次の様に応えた。
「僕を殺して。」
ルシフェルの瞳が一瞬金色に輝き、ルシフェルがライルの額に口づけをした。
ライルは金色の光に包まれた。
ライルの周りの金色の光がおさまり、視界がハッキリとしてきた。
まだ、死んでいない。
ライルは草むらの中で目を覚ました。
何処かで見た景色だった。
全てがまばゆいほど明るい場所。宮殿の様な建物、そして湖がある。
あぁ、そうだ。天使が住む場所だ。
ライルは自分の体が今までと変わらず翼を持つ人間の少年のままであることを認識した。
『どうして死んでいないんだろう?』
その時、楽しそうに湖の方に移動する二人の天使に目を奪われた。
『ここは、全ての始まりの場所だ。二人が離ればなれになってしまう、あの時の…。』
前回は、アンジェラとここへ来た。
僕は、ここで何かやらなければいけないことがあるのだろうか…。
二人の天使は幸せそうに飛び跳ね、絡み合いながら湖へと向かった。
何も頭では考えていなかった。
ただ、もし悲劇を食い止めるなら、僕が代わりになればいいと本能で感じた。
僕の元になった核を持つ女の天使アズラィールの後ろに転移した。
『ズサッ』
鈍い音がして、僕の胸に弓矢が刺さった。
二人の天使の悲しみの顔が僕の見た最後の景色となった。
ライルはそこで、その命を終えた。
心臓を打ち抜いた矢と、彼の魂の核だけをその場に残し、彼の体は金色の光の粒子となり、風に吹かれて空に散っていった。
ライルは希望通り、殺されたのだ。




