153. ライルの父(前編)
十九歳の大学生である自分の体の中に、三十二歳になるまでの記憶を持ったまま融合した状態で意識をはっきりとさせた徠夢は、最初、自分は夢を見ているだけだ、と思った。
しかし、鏡を見れば確実に若い自分がおり、そして十九歳の自分も体の中に存在しているのがジワジワと理解できてくる。
十九歳の徠夢の視点からすれば、急に目の前に赤ちゃんともいえる大きさの銀髪で碧眼、超かわいい子、しかも翼があった=天使?が、自分とそっくりなおじさんを連れてきた。
そして、そのおじさんの指で、僕の唇を押したら、おじさんが僕の中に入ってきたのだ。
何が何やらわからない。
しかし、鏡を見ているときにすごい発見をした。
自分の中の自分と会話が可能なこと。
頭の中で意思疎通はできないが、相手に主導権を与えると意識すれば、体が勝手に動き、話をする。
ある意味、ホラーだが、何か理由があってのことだと思い込むようにした。
鏡の中の自分は、初日からショッキングなことを色々と教えてくれた。
大学の研究室にいる川上杏子と教授に嵌められて、妊娠を告げられるであろうということ。川上杏子は美人だが、僕のタイプではない。妊娠なんてありえない。と思っていた。
しかし、少し前に大学の研究室の手伝いをしている仲間で飲みに行ったときに、記憶を失い、朝起きたらホテルの部屋で一人目覚めたことがある。
そして二か月後、川上杏子に妊娠を告げられた。
ありえない、ありえない…。すでに嵌められていたのだ。
僕は鏡の中の自分と会話を繰り返した。
『いいか、子供は生まれたら引き取るんだ。結婚はするな。お前は薬を盛られてはめられたんだ。とにかく、生まれるまで顔に出さないようにしてやり過ごせ。結婚の話を持ち出されたら、親を説得中とか何とか言ってごまかせ。』
なぜそんなことをするのか?という問いに、鏡の中の自分は少し言葉を選びながら言った。
『この前私を連れてきた銀髪の女の子、あれは私の、つまりお前の孫だ。翼があっただろ?あいつはすごい能力を持っている。そして、杏子が生む子供がいなければ私を含め血族全員が殺されることになる。』
言ってる意味が分からない。嵌められて妊娠したなら、そんな子供は要らないっていうのが筋だろ?十九歳の徠夢はそう言った。
『ダメなんだ。息子ライルが必要なんだ。』
ライルっていうのか、しかも息子。
そんな会話を毎日繰り返しながら、子供の出産を迎えた。
子供を認知し、結婚は拒否した。弁護士を立ち会わせて、話し合いを行い、子供をうちで引き取ることに決定した。父親の未徠には怒られたが、薬を盛られて嵌められたと説明したら、そんな女は家に入れられないと納得してくれた。子供を連れて家に帰り、子育てが始まった。
鏡の中の自分は、子供の世話を自分にやらせてほしいと言い、家にいるときの体の主導権を渡すことが常となった。
僕には見えないが、腕に小鳥がとまっているのだという。
三十二歳の徠夢は家にいるときの体の主導権をもらい、毎日子育てに没頭した。
子供には徠流と名付け、大学の講義の合間にも家に帰ってきては、ミルクをあげたり、おむつを替えたりした。
私の左腕にとまっている白い小鳥が見えるようでいつも撫でては喜んでいた。
いっぱい抱っこして、いっぱい絵本を読んであげた。
ライルは泣かない子だった。父親の未徠は車の爆発事故でライルが生後一か月の時に亡くなった。やはり、この前ライルの中に入って見た時と同じことが起こっている。
私が変えられたのは杏子との結婚を回避したことと、マリアンジェラによって由里教授の支配を解いたことにより、ライルを愛することがちゃんとできていることくらいか…。
ライルは可愛かった。素直で、明るいとてもいい子だ。
十九歳の徠夢も体の主導権は渡しているものの、感情的には全く同じ気持ちを持って過ごしていた。ライルが世界で一番大切だと思えるようになった。
父が死んだ。ショックが大きかった。しかし、鏡の中の自分が教えてくれた。
『九年後、ライルが父さんを助けてくれる。』
僕はその言葉を信じて、毎日の学生生活を充実したものとし、家でのライルとの時間も穏やかに過ごした。
ライルが幼稚園に入園するとき、僕も入園式に行った。
二十三歳の父親、しかもまだ学生は、非常に浮いていたが、金髪・碧眼で日本人とは到底思えない僕の容姿と僕にそっくりなライルは異質な雰囲気を持っているのか、周りの反応は好意的だった。
ライルも『王子様』扱いをされているようで、それはそれで嫌なようだが、他の子達ともコミュニケーションをそこそことってうまく付き合っているようだ。
そんなとき、鏡の中の自分が教えてくれた。
ヨーロッパの今はもう統合されて無くなってしまった国の王の血を継いでいるという事実があるということを…。
リアル王子様…ってことか。ますますしっかり育てないとね。
あっという間に幼稚園を卒園し、小学校に入学した。
僕もすでに大学を卒業し、他の動物病院で研修をしながら実践で学ぶようになっていた。
三十二歳の徠夢は体の中に入っている年齢が進むことはない、過去に見たこと聞いたものすべて記憶は残っているが、今二十六歳の徠夢として経験していることも並行して記憶に残っている。上書きされるわけではない。多分だが、自分への戒めとして過去の悪い自分の対応も忘れないようにされているんだろう…。怖いな、マリアンジェラ…。
年月はあっという間に過ぎた。研修しているときに事故に遭った猫を僕だけで手術をして救った後、動物の声が人間の話し声みたいに聞こえるようになった。
ライルが転んでひざを擦りむいた時に、「痛いの痛いの飛んでけ~」と手で覆ってやったら傷が治った。
鏡の中の自分は、あえてそのことを事前に教えてはくれなかった。
聞くと、それこそが僕達、血縁のある者達が持つ能力の一つで、由里教授が僕達を狙っている要因だということも教えてくれた。そして、能力が開花することを『覚醒』と言った。僕はライルを引き取った直後から由里とは関りを持たないようにしている。
大学を卒業して二年経ち、父が開業していた医院を少し直して動物病院を開業した。
家の敷地内で開業している方が、ライルと過ごせる時間が多く持てる。
昔から住み込みで働いてくれているかえでさんも、手伝ってくれるので、開業後も仕事は順調に進んだ。動物の言葉だけではなく、傷を癒せたり、悪いところが視えるとわかってからはさらに患者は増えた。
犬や猫がここに来ると喜ぶと飼い主は言うが…。確かに動物たちはここに来ると、どこどこの病院で効かないお薬をいっぱい出されたとか、歯が痛いのに、気が付かないとか文句はよく言っているが、それは仕方のないことだ。
ライルが小学三年生になった。
学校での様子を聞いてもあまり話してくれない。
鏡の中の自分に聞くと、今やり直しているこのライルではどうかわからないが、前回は学校で全く人との関わりを持たない子になってしまったと教えてくれた。
一度、学校の担任の先生に聞いてみよう。
ライルには内緒で、担任の先生に面談を申し込んだ。
動物病院の休憩時間に学校を訪ねて、話をすることができた。
北山先生という僕とさほど年齢の変わらないくらいの先生だ。
お若いお父さんですね、と言われた。確かに…お母さんには若い人もいるらしいが、目立つくらい父親としては若い。
先生はライルは異常に大人びていて、どこか子供ではない様な考えを持っていると言った。それゆえに、他の子供達とは純粋に遊んだり騒いだりはできず、一線を引いているのだとか…。ただ、それで心地よいなら、無理に子供らしくしなさいとか、いうのはナンセンスだとも言ってくれた。「ライル君にはライル君のいいところがいっぱいありますから、彼はとてもやさしいんですよ。」そう言ってくれたことで、僕は安心した。
ライルの夏休みになった。
うちは親戚がいない、父も亡くなり、叔父も死んだらしい。
僕の双子の弟は昔誘拐されて帰ってくることがないまま、たぶんどこかで殺されてしまったのだろう。母も弟の誘拐のせいで精神を病み自殺したと聞いた。
僕には、ライルしかいない。
そして、ライルには僕しかいない。
夏休みで一日中家にいるらいるだが、なかなか、仕事中にはかまってやれない。
朝昼夜と三食は一緒に食べ、夜は勉強を教えたり、休みの日には一緒に出かけたりした。
最近では、鏡の中のもう一人の自分が体の主導権を持つことも少なくなってきた。
もう、アドバイスをもらわなくても、自分の意思で行動していることが正解だと言ってもらえるようになったからだ。
そんなある日、家に電話がかかってきた。
誘拐された弟の徠人に関する情報があるから会いたいという内容だった。
不安はあったが、その日は仕事を少し切り上げ、指定された場所へと行った。
大学の敷地のすぐ裏手にある洋館だった。
その時、すごく嫌な感じがした。
僕は車のバックミラーに自分を写し、もう一人の自分に聞いた。
『由里が使ってたアジトの一つだ。入るな。眠らされて帰れなくなる。』
僕は怖くなって家に帰ろうとしたが、途中の橋が嵐で通行止めになり、立ち往生したまま車の中で夜を過ごした。
かえでさんには電話で通行止めで身動きが取れないと連絡しておいた。
夜が明け、しばらくしてやっと通行止めが解除された。
車の時計を見ると朝の九時十八分だった。
車の運転席の横で充電中のスマホが鳴った。スピーカーにして応答すると、ライルがすごい声で叫んだ。
「父様、今すぐそこを左に曲がって駐車場に入って、一生のお願い。」
あまりの声の迫力に押されて、ブレーキを踏み、ショッピングモールの駐車場に入る。
「入ったけど、で、どうすればいいの?」
「よかった~。」
ライルがそう言った直後、『ドカーン』と音がして、僕の後続の車が、信号無視のトレーラーに交差点で吹き飛ばされた。
「え?ええええ?」
「帰ってきたら話すね。気を付けて帰ってきて。」
通話は終了した。
ドキドキしながら事故の起きた交差点を避け、家に向かう。
何かあったら連絡がつくようにとライルにはスマホを買い与えておいた。
家に着き、ライルを探す。ライルが黒い仔犬を抱きかかえて出てきた。
「え?犬?」
「飼っていい?」
「持ち主がいなかったらいいけど…。それより、さっきの電話…。」
ライルは、今朝ダイニングに行ったときに花台の上に置いてあったティッシュを手に持ったと言う。その時に目の前の景色が変わって、僕の車の運転席が見えてその時の車の時計は九時二十分、横からトレーラーに衝突された、そして自分の体に戻ってきた。
家の時計は九時十八分だった。慌てて部屋に戻り、スマホで電話をかけて叫んだとの話だった。
助かった。間違いなく、自分が死んでいたことだろう。
仔犬のチップを調べたら、チップは入っているものの、所有者が朝霧ライルとなっていた。そして、犬種が???意味がわからない。
ライルは仔犬をアダムと名付けた。
鏡の中の自分に聞いても笑うばかりで教えてくれない。
どうにか十時の開業時間に間に合い、動物病院を開ける。
今日は暇だな…。少し早く休憩時間にした。
ライルと仔犬を連れて、ショッピングモールに首輪やリールを買いに行くことにした。
朝の事故はどうにか片付き、事故で二人亡くなったと噂しているのを耳にした。
ライルは首輪を選び、その後ドーナツを買いたいというので、テイクアウトして持ち帰り、家で食べることにした。
家に帰ると午後の診察時間の前だというのにずいぶん待っている人がいた。
少し早いが開けることにした。どうやらさっきの事故で交通渋滞が起こり、ここまでくるのに時間がかかったというのが、午前中に患者が少なかった原因のようだ。
超忙しい午後の診療を終え、家に戻ると知らない小さい男の子がいた。
ライルに男の子は誰か聞くと、困った顔をしつつ、男の子に元に戻れと言う。
『ドーナツ食べさせてくれたらいいよ』とわけのわからない会話の後、すごい勢いでドーナツを食べたその子は、床でしゃがむと仔犬になった。
「え?どういうこと?」
「犬はドーナツ食べちゃダメって言ったら、人間に化けたの。キモイよね。アダム。」
犬の姿のアダムが『だって、ドーナツがいいにおいだから…』とぶつくさ言っている。
「いいにおいとかの度に人間になるつもり?」
ライルが、そう言った時、僕は確信した。
「ライル、お前も動物がしゃべってるのが聞こえるのか?」
「え?父様もなの?僕は昨日からだけど。」
どうやら、鏡の中の自分がいう『覚醒』がライルに起きたのだと悟った。
「それで、あのティッシュと触ったら、未来が視えたんだな。」
「父様、あのティッシュはなんだったんですか?」
「あぁ、あれな。朝起きたら、スマホによだれがついてて、それを拭いたティッシュをうっかり、置きっぱなしにしてた。」
「きちゃない。むー。」
よだれで助かったわけだ。