15. やっかいな出来事
僕たちはエレベーターで一階に降り、玄関の横を通ってサロンへ移動した。
途中、父様は玄関に待っていた刑事だという男、石田と話を始めた。僕は横目でその男が抱いている小型犬に目をやった。
「あ、バロン。バロンじゃないか。」
「君、この犬を知っているのか?」
「はい。僕の担任の先生の犬です。うちの前の道をよく散歩しているんです。」
「先生の名前は何というんだ?」
「あ、あの北山瑠美先生ですけど。」
「そうか、助かるよ。実は、この先の通りで女性が襲われ拉致される事件が目撃されたんだが、目撃情報が通報されて現場に行ってみるとこの犬が生垣にリードを引っかけられた状態で吠えてるだけで、いなくなった人の身元が分かる物が何もなかったため、飼い主を調べて欲しくて一番近くの動物病院を訪ねたんだ。」
「拉致ですか。物騒な事件ですね。」
父様がそういった時、バロンが刑事さんの腕から飛び降りた。バロンが僕に飛び掛かって来るような体勢になり思わずバロンを受け止める。
頭が一瞬ぼーっとして、バロンの記憶が僕になだれ込む。
黒い車、刃物を持った男、飛び散る血液、バロンがメガネをかけたやせた顔色の悪い男に蹴り飛ばされる。
「あっ、血が、血が…。」
僕はバロンの記憶の血痕を見て動揺して叫んでしまい、体勢を崩す。勢い余ってバロンの顔が近づく、バロンの顔の横に血が付いている。
その血が僕の手に触れた。
「あっ。」
バタッ。と音がしてライルが気を失った。
徠夢は、ライルを抱き上げると状態をみて石田刑事に言った。
「拉致と聞いて驚いて気を失ってしまったようです。その犬の頬についている血はその子のものではなさそうですね。とりあえず、その子が怪我をしていないか確認した方がいいでしょう。動物病院の方へ回って下さい。息子を家内に任せてきますので少しお時間を頂きます。」
徠夢は石田刑事にそう言うと、かえでさんに動物病院の鍵を開けて刑事さんを案内するよう伝えた。
徠夢はライルの寝室でベッドにライルを寝かせると、そっとライルの額に手を当てた。
そこにはライルの意識はない。魂が存在しない状態だった。
「あぁ、ライル。どうしたんだい。どこに行ってしまったんだい。」
徠夢は杏子にライルの側についているように頼み、動物病院で北山先生の犬バロンの診察に向かった。
動物病院で待っていた石田刑事から犬を受け取り、まずチップをスキャンして飼い主を調べる。
「さっきライルが言っていたように、北山さんの犬で間違いありません。」
パソコンのモニターに表示された住所や電話番号をメモする石田刑事が、捜査の指示を出すためかどこかに電話をかけ始めた。
徠夢はバロンのX線撮影を行い、写真を見せながらバロンの状態を石田刑事に説明する。
「バロンは、蹴られたか何かであばら骨と後ろ足首を骨折していますね。内臓には損傷はなく、骨折も手術するほどではありませんが、足は固定して安静にする必要があります。かなり痛いでしょう。かわいそうに。
さて、うちに入院させますか?それとも飼い主でなければ判断がつかないですか?」
「あ、いや。ちょっと待ってくれ。今、飼い主の両親に連絡を取っている。確認が出来たらすぐにお願いできると思う。とりあえず手当を頼む。」
「わかりました。すみませんが、待合室でお待ち下さい。」
「あぁ。」
石田刑事が待合室に行くと、徠夢はバロンに手を当て治療を行った。簡単な添え木と包帯で足首の外側を固定し、バロンに小さい声で話しかける。
「バロン、さあ、もう大丈夫だよ。でもしばらく痛いふりをしていてね。ここにいた方が安全だから。」
「うぉん。」
徠夢は入院用のケージにバロンを移し、石田刑事の所へ行った。石田刑事は北山瑠美の両親と連絡が取れたようで、バロンをここで入院させることになったと言った。
石田刑事はこの後拉致事件の捜査に行くという。
そこへ杏子があわててやってきた。
「徠夢くん、ライルがすごく変なの。すぐに来て。」
徠夢は無言で走り、ライルの元へ駆けつけた。
ライルの体全体から白い光があふれている。
「ライル、ライル。どうしたんだ。」
徠夢は何もすることが出来ず、その場でライルに触ろうとするが、そこへ白い蛇が滑り込むように遮り、目を赤く光らせる。
白い蛇のイヴが、まるで徠夢にライルを触らせないようにするように威嚇する。
「待てと言うんだね。」
イヴが白い光の中にすっと消えていった。
杏子、本日初の白目で気絶である。
時は少しさかのぼり、ライルが意識を失った直後の事だ。
ライルの目の前にいた犬バロンが突如消え、ライルは自分が薄暗い建物の一室に横たわっていることに気づいた。
ここはどこだ?
手が後ろで縛られており自由が利かない。腹の右側が熱い、痛い。
暗さに目が慣れてくると室内の状況が少しわかってきた。
ここは、どこかの廃墟、しかも元はホテルかなにかだろう。
ベッドのフレーム、小さなベッドテーブル、その上には古い内線電話だろうか。
床には使わずに捨て置かれているチラシの様なものが散乱し、壁の鏡は割れ、荒れ放題だ。
後ろ手に縛られた手首に紐が食い込む、手首はベッドのフレームの足に括り付けられている。
足も縛られており、このままでは拘束を解くことができない。
なぜ、僕はこんなところに急に来たんだろう。
腹が熱い、傷があるのだろうか。しかし、手が拘束されていて何もできない。
僕はこのまま死ぬのだろうか。
その時、ふと自分の足を見て違和感を覚えた。
ストッキングを履いている。さっきまで履いていた靴下は履いていない。
おいおい、やばいぞ。僕にはそういう趣味はない。と思うが。あぁ、よくわからない状況で死ぬのは嫌だな。しかもこんな女装の状態で。
こういう時に誰か助けてくれないのかな。
意識が繋がってるんじゃなかったのかよ、アダム。
そういえば、イヴってまだ何も食べてなくて大丈夫なのかな。そんなこと考えている場合ではないことはわかっているが、何となくイヴを心配した。
その時だ、体のすぐ右に白く光るものが現れた。
「ライル様、お待たせしました。」
そこには白い蛇のイヴがいた。
「イ、イヴ。どうやってここに来たの?」
「それより、何をしたらよろしいですか?」
「あ、あぁ手を拘束されているので、それを解きたいんだ。」
「私には難しいかと。」
「そうだよね。あ、じゃああそこに落ちてる鏡の破片って持ってこられる?少し大きめの長いやつ。」
イヴはシュルシュルと移動して、鏡の破片を咥え僕の後ろ手にそっと渡してくれた。
その破片で紐を少しずつこすりながらイヴに他にも何か役に立ちそうなものがないか探してもらう。
「あ、そのパンフレットも取って。床に落ちてる紙。」
イヴは僕のすぐ横にパンフレットを持ってくると、部屋のドアの下から外に出て別の場所も探し始めた。
やっと紐が一部切れ右手が自由になった。
イヴがピンクのケースに入ったスマホのストラップを咥え引きずって来た。
スマホを受け取ったとき、電源の入っていないスマホの画面に自分の姿がうつる。
「北山先生?」
僕は、今動かしている体が北山先生のものだとその時認識した。
どうするべきか。
まず、傷だ。父様の能力を僕も使うことができるようになっていれば、治すことができるはずだ。
よし試してみよう。だが、全てを癒してしまっては後での対処に困るだろう。意外と冷静に判断している自分をすこし褒めてやりたい。僕は意識を右手の先に集中し、痛みを感じている部分の体の中を見る。
あぁ、肝臓にかなり深い傷がある。このままではまずい。出血多量でもう時間の問題だろう。
北山先生は出血のせいで意識を手放してしまったんだ。
出来るかどうかはわからなかったが、父様がイヴを治した時のことを思い返しながら自分のエネルギーを体内の肝臓の傷を修復するイメージとして送る。体の中がじんわりと熱い。少しは機能しただろうか。他はそんなにひどくはなさそうだ。さて、次にどうするか。エネルギーを使いすぎたのか、思考が働かない。
とりあえずスマホの電源を入れる。あぁ、パスコードがわからない。画面を触っていると、緊急連絡先にかけられる画面になった。
迷わず警察に通報する。
パンフレットに書かれている住所とホテルの名称、北山先生の名前を告げ「助けて!刺されて怪我をしている。」と叫んだところでわざと通話を切る。
「イヴ、ありがとう。さぁ、僕らはどうやったら家に帰れるんだろうね。」
そう言ってイヴに手を伸ばし、頭を撫でたところで、ライルの意識はその場から消失した。
一方、ライルの体が光ってからしばらくして、ライルの右手の下辺りの光の中から白い蛇が出てきた。それと同時にライルから発せられていた光が消える。
白い蛇の目は燃えるような赤から黒に戻り、シュルシュルと自分でケースに戻ってゆく。
「ライル、ライル。」
父様と母様が僕のベッドの横で僕の名を呼んでいる。
「あぁ、父様。母様。」
僕はぼんやりとした視界の端に両親を見つけ、ひどく安堵した。二人は僕を強く抱きしめてくれた。しかし、また意識を手放した。
その頃、石田刑事は動物病院の前で、拉致された本人から連絡があったと捜査本部から連絡を受けていた。
すぐに近くの警察が現地に向かうという。
三十分も経たないうちに、現地の警察が北山先生を発見、保護したと、うちにも石田刑事から連絡があった。
半日ほど経ち、深夜に目を覚ました僕に父様がそのことを知らせてくれた。
「よかった。先生助かったんだね。」
「出血がひどく、意識がない状態で発見されたそうだよ。でも、傷は致命傷ではなかったようで病院で手当てを受けているそうだ。」
「本当によかった。間に合って。」
気が付けば、ずいぶんと時間が経っていた。
今日はもうこれ以上できることはないという判断で、それぞれ眠りについた。
早くアズラィールの問題の解決策を考えなければ…。焦る気持ちを抑えながら僕は重くなった瞼を閉じた。