109. 愛することと愛されること
四月三日月曜日。
日本時間、日付が変わって三時間ほど経った。
アンジェラは、部屋を確認しに来て遭遇した不思議な現象を思い返していた。
あのクローゼットの中にいたのはきっとリリィの魂だ。
リリィはよくクローゼットの中に隠れたり、着替えたりしていたからな…。
きっとどこかで回復を待っていて、ここに戻ってきたに違いない。
気になることは多い、血の手形、足形…。あの時、地下書庫で頭を打ち出血したことで混乱しているのだろうか…。早く自分の元へ帰ってきてほしい。
気になるのは日記に書かれた『緑次郎』という文字だ。
過去の人物である緑次郎に関係することを調べるにはどうしてもリリアナかアンドレを頼るしかないが、二人を危険にさらしてしまうのではないかと不安もある。
さあ、今日はもう疲れた。数時間家に戻り休んでから皆で情報を共有しよう。
アンジェラはリリアナに電話をして彼女を呼び出し、転移して家に戻った。
リリィがいなくなってから四か月以上経った。心にあいた穴が埋まることはない。だが、リリィは死んだわけではない。必ず戻ってきてくれるはずだ。
自分を一人にしないとそう信じている。
アンジェラはパジャマに着替え、姿見に映る自分の姿を見て、自分自身に言い聞かせた。
「信じなければ、奇跡は起きないだろ。」
なんだか、胸が熱くなった気がした。そして、ベッドに横になり、すぐに夢に落ちた。
その夜、アンジェラは初めてライルに助けられた日の夢を見た。
死にかけた自分を必死で崖の途中から救い出し、裏庭で癒してくれている、そして一緒に連れて行ってくれた。最初は驚き、感謝し、憧れた。自分だってまだ子供なのに、とてもやさしく接してくれる、そんな天使様にアンジェラは恋をした。
本当はずっとそのまま日本にいたかった。でも父上がドイツで待っていると聞き、仕方なく従った。きっと、私が行かなければならない何かがあるのだろう。運命があるとすれば、いつか必ずまた会える。そう信じてドイツへ行った。
アンジェラはドイツの学校でいじめられた。辛かった。けれど、天使様が荷物に入れてくれた色鉛筆のセットとスケッチブックで毎日天使様の絵や、日本の景色を描いて忘れないように心に留めるように自分に言い聞かせながら絵を描いた。
しばらくして、色鉛筆も短くなり、もうすぐ絵が描けなくなりそうな頃、天使様は姿を変え、美しい女性の天使になってまた私の前に現れた。私に向かって投げられた石を受け、血を流し、それでも笑って私を気遣ってくれている。
うれしい。こんなにもうれしいという気持ちがあるのかと思った。一緒に見たこともないような立派な絵の道具を買うために店を回った。私の絵を上手だと心からの笑顔で言ってくれた。
愛したい。愛されたい。それだけが私の生きる希望となった。
天使様は私に絵を描くこと以外でも大きな希望を与えてくれた。いじめっ子たちは天使様が来た後から私の大切な友へと変わった。彼らが生きている間、彼らは誠実で心から私を守ってくれるよき理解者となった。
私のことを手に入れたいと望む人間が次から次へと現れた。
しかし、私は天使様以外には興味がなかった。鎖につながれて、暴力を受けた時も天使様が現れて助けてくれた。どこかの貴族に捕らえられ、死ぬほどの拷問を受け、捨てられたこともあった。その時も現れて助けてくれた。
でも、連れて行ってと懇願しても、「まだ僕は生まれていない」と必ず言って連れて行ってはくれなかった。
愛されていないと思った。私がいくら天使様を愛しても、天使様は私を愛していない。
そう思う度に、私は自分を傷つけた。何度も自殺を繰り返した。
でも、必ず天使様はやってきて、私を救い、「僕のアンジェラを奪わないで」と泣いた。
天使様には愛するアンジェラが自分とは違うところにいるのだとわかった。
それが本当に自分と同じ人物なのかはわからなかったが、ある時、天使様はその「アンジェラ」と一緒にアトリエを訪れた。確かに私だった。天使様はそのアンジェラにキスをした。自分自身に強烈な嫉妬心を持った。
私の心の中で、天使様を愛する気持ちはより一層深くなった。度々訪れては、「愛してる」と言ってくれることもあった。
そして、とうとう、現実のこの世界で時間の流れに逆らわず、ようやく天使様に会うことができた。しかし、天使様は以前見た少年の姿で、そこには自分によく似た徠人という別人がいた。苦しくて、悲しくて心が折れそうだった。
今まで、長い間ずっとずっと待ち続けてきたのに、天使様に近寄ることもできない。
一方通行の愛ほど悲しいものはない。
朝霧の家ではいろいろな事が起こった。悲しいこと、辛いこと、許せないこと、どちらかというとネガティブなイベントばかりだった。
そんな中、少年天使があの美しい女性の天使よりも少し若い天使に変化し、元に戻れなくなった。そして、私の入り込めないところで、話はややこしい方向へ進んでしまった。
悪魔復活をするための儀式、その生贄として血縁者がとらわれていたことに恐怖と嘆きを覚えた。しかし、私のような非力な者には何をしようと思っても叶わなかった。
遠くから見守り、愛する気持ちを表面に出さず、日々陰に徹した。
そんな時、転機が訪れた。天使様が美術館で絵の中に吸い込まれて行ってしまった。
少女天使が戻ってきたとき、私はその天使が私の愛する天使ではなくなってしまったとすぐにわかった。徠人はその天使に固執し、私は更に距離を取った。
もう会えないのか、と絶望に押しつぶされそうになっている時、少年天使としてまた戻ってきたのだ。あぁ、どのような姿であろうとかまわない。私に優しく接し、命を救い、キスをしてくれた、私の天使様。愛している。愛されたい。どこにも行かないで。
百二十五年間、想い続けたこの気持ちが、戻ってきた少年天使をこの手から離さないように…。近くで顔を見られることの幸福。話しかければ、答えてくれることの喜び。
体温を感じられる幸せの時。
少年天使は私が望んだ女性の天使へと姿を変え、私に愛をささやいてくれるようになった。この幸せを手放してはいけない。どんなことがあろうと、守り抜いて、ハッピーエンドにならねば…。
『アンジェラ、ずっと待っててくれてありがとう。君だけを愛してる。』
そう言ってもらえた時の心の底から感じる幸福。
絶対に手放さない。どんなことがあっても。私は夢の中で自分の気持ちを再度確認したように思った。
そして、アンジェラの知らないところで、それを傍観する者がいた。
『憑依』という能力を持ち、溺れた池の中でアンジェラの中にもぐりこんだ者。
それは、徠人だった。徠人は、アンジェラとライル=リリィの愛の軌跡をすべて知ることとなった。
かなうはずなかった。自分は夢を操作する能力を使って、自分のことをよく思うように操作していただけだ。ライルは自分のことをそれでも好きでいてくれた。そんなライルを自分から突き放した。ライラが自分の探している相手だと勘違いしたこともあるが、自分には手に入らないと思えば思うほど、相手が憎くなった。自分のものにならないのであれば、いっそ殺して自分も死のう。そういつも思っていた。
日々努力することなどまず考えられず、ライルが自分を見ていないと知れば、殺すことだけを考えた。死ねば、来世で愛し合えるかもしれない。そんな甘い考えばかりで行動していた。
体がまだ死んでいないから、俺はここでこんな真実を見ることができたんだな。
体が死んだら負けを認めて、去ろう。もし、生まれ変わることが出来たら次はリリィやアンジェラにも愛されるようになりたい。
徠人は穏やかにそう思った。
アンジェラが目を覚ました。寝たまま涙を流していたようだ。
さあ、顔を洗って、前を向こう。また、リリィのいない一日が始まる。




