一章 野ばらの姫君 ➆
本話で一章終わりです。
今回は吉乃の弟、八郎の話です。
求菩提の山中、胎蔵窟と呼ばれる修行場に年若い行者が一人、筋肉つききらぬ幼い脚を組んで静かに座っていた。
その名を八郎といい、子供じみた丸い顔の両目は閉じられていた。
背後の岸壁に刻まれた、女陰を思わせる大きな割れ目からゴオオオォという音が八郎郎の耳に響いてくる。
この音は梵音と言われ信仰の対象であるが、八郎はあの世に繋がっているのではないか、これは三途の川の流れる音ではないかという気がしていた。
行者達はこの場で瞑想を行うことによって女の腹の中へと帰り、生まれなおすのだ。
半刻の後、木々の若葉を縫って降りてきた日の光が八郎の目を開かせた。
立ち上がり、師匠である修験者と待ち合わせている彦山を目指して歩き出す。
ごつごつした岩や木の根に足を取られないように、頭を下げ気味にして八郎は進む。そうしているうちに、ふと行く手の方からこちらをじろりと眺めている気配に気が付く。
前を見ると、山道の方に首を出す鹿であった。
ずいぶん気が立ったような鋭い目つきに、八郎の方も鹿を窺う。
目をこらせば、その鹿の傍らに小さな鹿が寄り添っているのが見えた。
子を産んだばかりの母鹿が警戒しているだけか。そうか、もうそんな季節であった。
納得した八郎は、害意がないことを示し、鹿の不安をといてやろうと、そろそろと少し戻っていって道を開けてやる。
それを見て、母鹿は道を横切ると山を上っていった。小鹿の方も懸命に跳ねて、すかさずそれについていく。
八郎は、去り行き並ぶ鹿の白い尻二つを見て、親子がこの先、子が無事大きくなるまで、離れ離れになることなく健やかにいられることを祈った。
かつてこの八郎にも、親がいた。
修験の山は女人禁制だが、ここ求菩提の行者は麓の村落に妻を持つことが許されている。陰と陽、男と女があるのがこの世という考えからだ。
八郎は求菩提の行者をまとめ上げていた「当住どの」を父として生まれた。
しかし、母が下女だったため父を父と呼ぶことは許されず、腹違いの姉は名を吉乃といったが、己を弟と知らぬようだった。
父の死後は正妻に家を追い出されてしまい、母と、同母の妹と三人で、行者どもの妻子が暮らす女村の外れに住まわせてもらうことになった。
母と八郎が時折訪れる行者や近くの村の男どもの相手をすることで、ようやく三人食べていけるという様であった。
母と妹に少しでも食わせてやろう、と八郎が山菜を捕りに行ったある日のこと。家に帰りつくと二人の姿がなかった。
村の人にきけば、亡き父の弟、叔父の左近が連れて行ったということだった。
八郎は母と妹の姿を探して駆け回ったが、人に聞いても、諦めろと言われるばかりであった。ようやく事情の知っていそうな男、左近に仕える行者に辿り着くも、
「妹君は巫女になられるし、母君もまた、左近どのにとって“役に立つ”お方だ。まあ今までよりは食わせてもらえるだけ二人にとってよかろう。お前には同情する故おしえておいてやるが、お前は“当住どの”の息子、つまり左近様にとって邪魔者。殺されなかっただけ儲けものじゃ」
ととりつく島もない。それから八郎の、一人きりの放浪が始まったのであった。
彦山というのは元を日子山といい、古代より神の降臨せし犬ヶ岳、その祈りと修行の場である求菩提山と並ぶ信仰の厚い霊山である。
ただこの二つと比べればより仏道、“公に認められた聖地”としての色が濃いのが彦山である。
弘仁十年(八一九年)嵯峨天皇の意向で、宇佐弥勒寺の僧法蓮は日子山を広大な寺社領と三千の衆徒を持つ叡山に準ずるような聖地として「彦山」を作り上げたのである。
八郎は慣れた足取りで山中を進んでいく。尾根を辿って北に犬ヶ岳を迂回すると再び山道をのぼっていく。道中の所々、岩肌に彫られた仏が目に付く。
二段の滝が見えると、左側に回り込みゴツゴツした乾いた岩がむき出しになっている場をよじ上っていく。
そうしてようやく彦山の山頂へと続く尾根へとたどり着くと、八郎は一息ついた。腰に吊っていた竹の水筒から水を飲み、気を落ち着ける。この先には何度訪れても慣れないキツい場が待っているのだ。
八郎は再び歩き出す。すると山道両側に生い茂る樹木が不意に途切れ、視界が急に開ける場があった。にわかに空気が熱を帯びる。
むわっとした風が八郎の頬を撫で、眼前には赤と黒の世界が広がっていく。
黒焦げに焼けた伽藍と木々。むき出しになった赤い土。そして所々に転がる白いものはしゃれこうべだ。
地獄とはきっと、このようなところだろう。八郎は顔を悲しげに歪ませ、供養のための経を唱えだす。
八郎の孤独な旅が終わらせてくれたのは、ここ彦山の行者たちであった。
食うものもままならず痩せて道に臥せていた八郎を拾ってくれたのは、彦山座主、舜有に仕えていた延有という名の山伏だった。
延有は八郎を弟子としてくれ、彦山の坊に住まわせてくれた。
兄弟子達も、あたたかく迎えてくれ、法術や字の読み書きから弓の引き方までなにくれと教えてくれた。
ここにはその兄弟子達も眠っている。
続く戦乱の時代。それは彦山の修験者達にとっても同様で、特にこの数年はもっぱら受難の時だった。
彦山の座主は、元弘三年(1333年)城井家の第十五代目当主頼綱が後伏見天皇の皇子である長助法親王を招いて座に据え、城井家の娘をその法親王に嫁がせてからは代々世襲である。
天正九年(1581年)彦山座主、第十四代目の舜有には娘しかいなかったため、筑前を治める秋月種実の息子を養子とし娘と結婚させようとした。
すると秋月氏が、四境七里と呼ばれる広大な神領を持つ彦山の大勢力と結びつくのを危惧した大友氏によって彦山全山は焦土にされた。それから昨年まで、大友軍は度々彦山に攻め入っては宗徒を殺し、山を焼いていったのだ。
座主達は彦山北西の土地に逃れ復興を試みるも、翌年天正十四年(1586年)豊臣秀吉の軍勢によってまたもや焼きだされ、彦山は寺社領を全て失った。
求菩提にも行者が多く逃れてきたが、その最後の砦、求菩提を支配し豊臣勢の支配に抗い続けていた豊前宇都宮氏、つまり城井氏も降伏したのが去年の冬であった。
八郎はまだ幼かったため、彦山座主、舜有の娘の付き添いにつけられて彦山から離されていたため戦をこの身で直接見たことはない。
しかし、焼け焦げた兄弟子達の亡骸を拾い上げては弔い続けた八郎にとっても、ここは戦場であったのだ。
八郎が無心に経を唱え続けていると、正面から人が近づく気配があった。壮年の男の声が八郎にかけられる。
「おう、はちろう。待たせてすまんかったな」
顔を上げると、八郎の面倒をみてくれている山伏、延有であった。
無精ひげにひょうきんな物言いだが、これでも亡き彦山座主、舜有の血を引く娘に仕えるそれなりの血筋の者だ。世話になっている身でなんだが、八郎にとっては女好きで調子のいいただのおっちゃんという感じだ。
延有は溜息をつきながら八郎に話す。
「はあ。なんぞ中津の方で城井の当主が謀り殺されて家臣どもが暴れておるようだ。それでな、竜子様を急いで迎えにいっておってのう。それで遅くなってしもうた」
「竜子様とは」
「ああ、お前は知らんかったな。我が主の婿殿の妹君じゃ。秋月から城井に嫁に出しておったから」
「そうでございますか。もう城井は滅びるのでしょうか」
「ああ、残念じゃが竜子様の夫君、城井の嫡男の方も黒田の当主に従って日向に行ったそうじゃから、今頃殺されておるじゃろう。城井の家人も黒田に嫁に入った姫もみな磔になるらしい。まったくむごいことをする」
「城井家の者がみな、ですか。あの、侍女などもやはり殺されるのでしょうか」
「おぬし。城井に知り合いがおったのか」
「同じように叔父に家を追い出されたらしい腹違いの姉なのですが。城井の姫について中津にいったようで」
「はよいわんか。おい、中津へ急ぐぞ」
これまで多くの人を失ってきた。
姉の方は、自分のことを弟とも何とも思っていないかもしれない。それでも助けられるものなら助けたい。そう思って、八郎は山道をどんどん進んでいく。
八郎と延有が中津にたどり着く頃には日はすっかり傾いて、犬ヶ岳の北に続く山々へと沈みはじめていた。川に沿って続く見事な松林の濃緑があっという間に朱色に染まり出す。
厚く積もった松葉を踏みしめて二人の行者が河原へと急ぐと、灰色の石が転がり積もる岸で、十四人の城井家の家人が磔にされ、息絶えていた。
もう夕刻のためか見物の人もまばらになっている。
八郎はその亡きがらの顔をおそるおそる確認していく。中には、五歳ほどの幼子もいて胸が締め付けられる。そうして刑死者の中に探し人の顔が無いことに安堵し、八郎は延有に向かって首を振る。
「そうか。どこぞへ逃れたのかもしれぬな」
八郎が踵を返すと、河原の端に若い女が一人、うずくまっているのが目に入った。乱れ切った黒髪を垂らし、はだけた着物から血まみれの足が覗き痛々しい。あまりにも生気が無いので今まで気づくことがなかったようだ。
髪の隙間から顔だちを見れば、姉に似ている。ような気がする。しかし、その憔悴しきったありさま、正気を失った者の纏う気の重々しさに八郎は声をかけるのをためらった。
そうして八郎が立ちすくしていると、何を思ったのか娘はよろよろと立ち上がり、何も見ていないような虚ろな目でふらり、ふらりと歩き出した。海の方へ。海しかない彼方へ。
まさか身投げでもするつもりではなかろうか。八郎は、女の後をつけていく。ゆらりと足を引きずりながらもわき目もふらず海へと急ぐ女は、とうとう波打ち際まで辿りつき、そのまま座り込んだ。着物の裾が寄せる波に濡れる。傷に染みるだろうに、それを避ける様子もない。
「どうか思いとどまれよ」
八郎は走り寄り、女を水が来ぬところまで引き上げる。顔をみれば、やはり腹違いの姉、吉乃であった。
吉乃は顔をゆっくりと顔をあげ、八郎の顔を見る。すると、それまでの茫然自失さが嘘のように目に覇気がみなぎった。
着物を整えて背筋を伸ばし、足の傷などないかのように真っ直ぐ立ちあがって八郎に毅然とした顔を向ける。
かつて、跡継ぎとして育てられてきた娘。
その目が、お前はわれの何であるつもりか?と問いかけているのだ。
敵か、味方か、それとも。
八郎は、吉乃様、といいかけたのをやめ、勇気を出してこう言った。
「迎えにきました。ねえさん」
吉乃の相手を窺うような目は変わらない。
一族を纏める者はうかつであってはならない。疑り深くなくてはならないと育てられてきたのだ、この人は。
守らなければならない。下の者を。体面を。
八郎はそんな吉乃のために、理由を用意してあげることにした。助けたいから助けた。無事であってほしいと願った。自分はそれだけで山を越えてきただけなのだけれども。
「助けてほしいのです。叔父が家を継いでから母と妹を奪われました。ともに家を取り戻しましょう」
その言葉を聞いて、吉乃は少し息を緩めた。白い波が音を立て、風が黒髪を巻き上げて娘の顔をあらわにする。紫に染まる黄昏の海を見つめながら、吉乃は話しだした。
「姫君がずっと見たがっていた。あまたの歌に詠まれてきた海。それが叶わぬまま死んでしまわれた。こんなに近くだったのに」
吉乃は涙をほろほろと流し出した。
「死んでしまいたい。なれど生きなければならぬ。姫がそう願われた」
そうして吉乃は振り向いて、差し出された八郎の手を掴んで答えた。
「わかった。はちろう、ありがとう」
かすかにほほ笑んだ吉乃に、それまで黙って成り行きを見ていた延有が声をかける。
「あれ、娘さん足怪我しとるね。おいちゃん、おぶってってあげるよ。八郎には色々手伝ってもろうとるからね」
吉乃は、延有の背におぶわれながら、徐々に遠くなる千代姫の亡骸の方を仰ぎ見た。
決して忘れませぬ。わたくしは、姫様のことを。ずっと、忘れませぬから。
二章は一章で書かれた"滅びゆく城井家"が黒田家からの視点から語られます。
三章で再び吉乃の話に戻ります。ホラー要素は三章から濃くなります。