一章 野ばらの姫君 ⑤
本作品は基本的には史実や当時の風俗に従って書いておりますが、
歴史上の人物が通称ではわかりにくい場合などはわざと諱表記をしたり
話の流れを優先するために戦前の儀式等に変更があったり
読みやすくするために言葉遣いが方言や古語ではない箇所がございます。
千代姫が城に入って二月が経った。吉乃が千代姫の方に目を向けると、糸姫に貸してもらった本を嬉しそうに読んでいた。
縫物の続きをしようと布を取ると、襖の向こうから少年の声が聞こえてきた。
「もし、千代姫様、侍女殿」
廊下へ出て、吉乃は膝をつく。
「いかがいたしましたでしょうか」
顔を上げると、格子模様の肩衣に紺袴。長政付の小姓、太郎助だった。
「近々、若様がこちらの部屋にお越しになるやもしれません。女人方には、色々と支度がございましょうから、前もってお知らせする次第でございます」
「それは、お気遣いありがたきことに存じます。若様がいらっしゃるとなれば、姫様もたいへんお喜びになりましょう」
吉乃の返事を聞いて、太郎助の眉根に、少年には似つかわしくない皺がかすかに寄ったように見えた。
何か対応に失礼があったかと吉乃が考えていると、太郎助が口を開いた。
「若様は人を驚かせるようなことを好んでなされます。おそらく言伝なしに部屋へ参られるでしょう。ですから……驚いてほしいのです」
「まあ」
「今日、私がここに来たことは、くれぐれも内密にお願いいたしまする」
若様がお越しになる。とあれば、姫様は装いを整えておきたいであろう。
吉乃は考える。
ちょうど、城井の館から持ってきた反物がいくつかあった。
嫁入りに持っていく着物にするにふさわしいぐらいに質よい絹であったが、千代姫の輿入れが急で仕立てる暇がなかったのである。
「姫様、新しい打掛を作りましょうか」
吉乃は、千代姫の前に紅や山吹、桃色など艶やかな色彩の布を広げていく。
目を嬉しそうに細めて桜に藤に、小手毬模様と様々な布地を手に取り眺めていた千代姫が、はっとしたように目を少し開いた。
「これにいたしましょう。よしの」
吉乃は姫に渡された反物を見る。夕暮れの赤が消えゆく空に、白鶴が飛んでいく文様が真珠のように淡く輝いていた。
打掛をしつらえていると糸姫侍女のお梅に話すと、一人では大変でしょうと手伝ってくれることになった。
「何て素敵な織模様。城井のご当主様は、さぞ千代姫様を大切に思われていることでしょう」
もと、針仕事が好きなのであろう。お梅は微笑みながらもてきぱきと裁ち、縫っていく。そして、都度もっとこうしたほうがいいと手本を示してくれる。
吉乃はさながらお梅の弟子といったところであった。吉乃一人ではひと月はかかると思われた工程が、わずか七日で終わるほどであった。
「よしの、おうめ」
出来上がったばかりの打掛をまとった千代姫が、くるりと回る。「お礼をいうぞ。このように美しい着物は、はじめてじゃ」
広がった裾で、鶴が舞っていた。
その日、吉乃は千代姫の部屋へ向かう廊下を歩いていた。この頃は寒さも緩みはじめ、やわらかい空気が中津城を包んでいた。
日が差せば、あたたかいとも思えるぐらいだ。
そうして少し穏やかな心持ちの吉乃に駆け寄り、尻にしがみつく小さい影があった。
中津城の主、その次男である熊之助であった。
吉乃がしゃがみこみ笑顔を向けると、廊下の曲がり角から追ってくる人間がいた。
顔を上げれば、しかめっつらの若い男―
千代姫の輿入れした相手、豊前国を統べる黒田家の嫡男である黒田長政であった。
はっとして頭を下げると、
熊之助は長政から逃げるようにきゃっきゃと笑いながら、千代姫の部屋の襖を勢いよく開けて入って行ってしまった。
「おおーい、くまのすけー。まてまてー。おい、入るぞよいか」
長政は部屋の中を覗き、少し驚いたようだった。
「なんだ、お前か」
千代姫は少し目を見開いた後、畳に手をつき頭を下げた。
「はい、千代にございます」
その横で熊之助がごろんごろんと転がった後、ゆっくり伸びをした。
「おい、この部屋に熊之助はよく来るのか」
「はい、たまにいらっしゃいます。ほんとうに利発でいらして…」
「ふん、そうであろう」
長政は部屋に入り、どかりと胡坐を組んだ。
側で寝ころんでいた熊之助を猫の子か何かをつまむように抱き上げて、乱暴に頭を撫でまくる。
「熊之助はな、将来の黒田を支えて行く男なのだ。賢くて当然であろう。ふんっ」
長政の顔がかすかに緩んでいる。千代姫が長政と顔を合わせたのは、嫁いできてすぐの時と、太郎助に忠告された後の長政による千代姫の鬢そぎの儀式、それに今日である。
いずれも長政は厳しい表情を崩さなかった。でも今日は、その彼の少しだけ「かわいらしい」顔が見れたことに千代姫は嬉しくなった。
長政の腕に包まれた熊之助が激しく身じろぎする。腕の拘束を抜けた熊之助が千代姫にねだった。
「ねーうたってー」
「わかりました。さあ、よしの。うたいましょう」
柔らかな千代姫の笑みが、吉乃にむけられていた。