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一章 野ばらの姫君 ③

母の死後、叔父の家に引き取られた吉乃は侍女として働きにでることとなった。豊前(ぶぜん)城井(きい)家に仕える叔父のつてで、城井の姫君の側に控えるようになったのである。

城井家は、藤原北家(ほっけ)と鎌倉武士の流れを汲み、九州に土着した宇都宮家、その総領家である。この豊前という土地と深く結びついた一族であった。

吉乃が城井家の屋敷に入ったのは、豊臣秀吉が関白となった天正十三年(1585年)のこと。そして二年後の天正十五年、城井家は秀吉の九州攻めにともない、島津家相手の戦で嫡子の城井朝房(ともふさ)が先鋒を勤め上げる。

しかしその(いくさ)の後、豊前国の大部分は黒田家に宛行(あてが)われた。城井家の領土であった土地もである。

本領安堵(あんど)。だからこそ秀吉に従った。自分たちの在地を守り抜く。その思いが深かった城井家当主の鎮房しげふさは、この年の秋に挙兵。善戦するも冬になるころには戦線を維持し続けることに限界が訪れつつあった。



「よしの」

 鈴のように可憐な少女の声が呼ぶ。長く艶やかな黒髪が、滑らかな生地の小袖に垂れる。高貴な成りは、少女が城井鎮房の息女、千代姫(ちよひめ)であることを示していた。

「黒田家の中津城へ行くことになった。もうきいておるか」

「はい」

 姫の側で手習いの墨や紙、歌集を片付けていた吉乃は顔をあげる。

「吉乃も、姫様とともにまいりますれば」

 和平の証に黒田家の嫡子、長政に嫁ぐ。といえば聞こえがいいが、要は人質に出されるのである。

「黒田の若様は優しくしてくれるじゃろうか」

千代姫の瞳が不安げに揺れた。

「姫様は、心()えも美しゅうございますれば、きっと黒田の方々も受け入れてくださるでしょう」

「そうか。吉乃は(とも)をしてくれるのか」

千代姫の手が、そっと吉乃の膝に触れた。と、吉乃の方が跳ねた。

「いや、じゃったか」

「そうではありませぬ」

 これほど誰かにやさしく触れられたことが、久しくなかった。

「ただ。驚いただけでございまする」

吉乃はあわてて答えた。

姫に仕える日々は、吉乃にとって思いがけない幸福であった。

もう才の無い自分を偽って生きなくてもよい。人を騙している罪悪感、この身に過ぎた待遇(たいぐう)や責務に脅えなくてもよいのだ。そしてなにより……

こちらにあたたかな微笑みを見せる姫の顔を吉乃は見た。

姫様は一人になってしまった自分にとって、かけがえのないお方だ。

この姫君のために動くとき、吉乃はこの上なく満たされた気持ちになれるのだった。


 凍えるような冬の日の朝、千代姫を乗せた輿(こし)が城を出て、やがて城井の領土の境まで来た。姫が幼少の頃から慣れ親しんだ家臣たちが伴をするのもここまでである。

輿の後ろを歩く吉乃は、迎えに来た黒田家の者たちを見た。

身の芯まで冷やす雪風が厳しさを増す。

とても花嫁にむけられるような目ではない。と、千代姫のこれからの苦労を思った。

 

 豊前国の「正統な」国主である黒田家が、統治の拠点として新たに築きあげた中津城が完成したのは、千代姫の輿入れのつい数週間前だという。

その中津に近づくにつれ、吉乃は空気の匂いが変わっていくのに戸惑った。

山と平地、晴れと雨では匂いが違うのは知っているが、どれでもない。

 なまぐさい……ような、でも不愉快ではない、ような。

顔を上げて嗅ぎ、不思議そうな顔をした吉乃に、荷物を担いで横を歩いていた下男がつぶやくように話しかける。

「潮のにおいだよ。海が近いんだ」

 しおのにおい。吉乃の中でそのつぶやきが繰りかえされたその時、歩き続けた吉乃の視界が突然開けて、周防灘のまっすぐに横たわる水平線が広がった。

冬の黒い海だった。


 千代姫が黒田家の中津城に入って一月余りが経ったころ。

吉乃は千代姫の居室へ向かう廊下で、盆の上にのった二つのまんじゅうを見つめていた。黒田長政の正室、糸姫の侍女がくれたのである。

城の者たちが千代姫や自分にとる態度はおおむね厳しい。

無視されることや嫌味を言われることが頻繁(ひんぱん)にあった。

毒でも入っていたら。いや、人質を害しては意味がない。でも身内を戦で失った城の者が恨んで知らぬうちにということも。と様々に思案しながら歩くうちに、開けた中庭についた。

このまま姫のもとに帰るわけにもいかない、と吉乃は縁側に座った。静かである。軽く腕をくんで再び思案にふけっていると、不意に吉乃の意識が薄れだした。吉乃が白昼突然気を失うというのは、稀にあることであった。

しかしそれが今でなくてもよかろうに。と吉乃は必死に抗うがそのまま闇に沈んでいった。


「おい、そこの女よ。これを後藤(ごとう)太郎助(たろすけ)という小姓(こしょう)に渡しておいてくれまいか」

吉乃が目を開けると、そこには六尺あまりの大男が覆うように立っていた。奔放(ほんぽう)に広がる大きな(まげ)と、その頑強そうな体格を見るに、武人であろう。

その男が、なにやらこちらに竹でできた玩具。馬であろうか、を差し出している。

不意を突かれた顔で吉乃が見上げると、

「いや、太郎助はわしのせがれなんじゃがな、用事ができてしもうて直には渡せなくなった。よろしくたのむ。父、又兵衛からとな」

と言い残しそのまま去っていこうとする。

「もし、申し訳ありませぬ。私には届けられませぬ」

吉乃は、慌てて立ち上がった。

こんどはこちらが不思議そうな顔をしている男に向かって、吉乃は千代姫と自分が受けた城の者達からの冷ややかな扱いを思い出し、加えて言った。

「城井の者でありますれば、入れぬところもございます」

「なんと。さも、わらわははじめからここの者でござりますといった体でくつろいでおったではないか。それが城井の家から来たばかりとはなかなか」

さも面白そうに又兵衛は笑う。

「勇猛な将の家は、仕える女子まで肝が据わっておるようだ」

又兵衛は笑いながら去っていった。

吉乃が見た、黒田家に属する人の初めての笑顔だった。


吉乃が千代姫の部屋へ戻り(ふすま)を開けて中へと入ると、本を読んでいた千代姫がゆっくりと顔をあげる。

そして吉乃の持つ盆の上にある、二つの饅頭を千代姫の目が捉えた。と思われたが、姫の目線はまたすぐに本の方に戻ってしまった。

しかし饅頭を見つけた瞬間、姫の顔に喜色(きしょく)が広がったこと、そしてそれを恥じた姫君がとっさに顔を背けたということに吉乃が気付かぬはずがなかった。

「姫様。糸姫様より菓子をいただきましてございます。どうでしょう。まずはお礼の挨拶に行かれては」

千代姫が吉乃の方に向き直る。

「その玩具もかえ」

吉乃は盆の上を見て、又兵衛と名乗る人物から受け取った玩具を返し損ねてしまっていることに気付いた。

「こちらはただの童からの預かりものでございまする。」

「遊んでやってでもいたのかのう。そうじゃな。北の方たる糸姫殿に未だお会いしたこたがないというのもさみしいものゆえ」

「はい。お目通りを願いにいってまいりまする」

吉乃が部屋の外へ出ていく。

静まり返った中で、千代姫の顔がかすかに曇った。

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